春の章 磑風春雨 17
明後日開催の内覧会に向けて作業は急ピッチ。
さくらは在原と共に行動をすることが多く気疲れしていた。
そして拭いきれない在原への違和感を心のどこかで恐れていた。
登場人物紹介
烏丸 さくら
MUSEUM OF CONTEMPORARY ART HOKKAIDO(通称M.C.H.)の学芸員。気分転換に訪れた山中で怪我をして三世に救われる。
苗字の読み方は「からすま」。
在原 朝臣
さくらの職場の上司。さくらの大学の先輩でもある。実はさくらに想いを寄せている。
王生 三世
降三世明王が現在で体を借りている人物。意識だけは降三世明王が支配している。
10年前、意識を支配してからは王生家で生活している。職業は獣医師。
王生 煌徳
現在に目覚めた大威徳明王。現在酪農大学の学生で三世の跡を継ごうと獣医師を目指している。愛くるしい顔をしているが怒ると家族の中では一番怖い。
明後日に迫った内覧会に向けてM.C.H.の職員たちは残業覚悟で必至に準備をしていた。
さくらもホールの片隅に用意されたデスクで黙々と作業中だった。
あの日からずっと私と在原主査は常に同じ仕事をこなしていた。
今日は行列ができた時に配る番号札の製作。ひたすら1から1000までの数字が書かれた紙を切っている。
案外アナログだったりする。
主査とは休憩時間も気が付いたら同じ自販機の前にいるし、しかも飲み物を買ったらその場で一息。そして仕事に戻る。
藤原先輩が気にかけてくれているのか、昼食はいつも誘ってくれた。
お昼とトイレに行くときだけが心休まった。
他の職員から聞いた話だと
主査はケガ人同士、負担にならないような仕事を厳選して私たちのスケジュールを大幅に変更したらしい。
確かにできる仕事は限られているけど、電話対応と入力業務の方が一人作業だし気が楽だったかも。
これって職権乱用にならないのかな?館長にちゃんと説明しているのかな。この前も館長に呼ばれてたし。
変な噂が立たないといいけど…。
憧れの存在の男性がこんなに近くにいるなんて本当は嬉しいはずなのに、
おかしいな…以前のようにときめかない。
極端な話、私を飼い犬のように傍に置いておきたい。
そんな感じに捉えてしまう。
怪我をしてからずっと掛けてきている色付きの眼鏡。
表情がよくわからないのも少し怖い。
事故の前、お食事に誘ってきた時は精一杯勇気を振り絞って自信がなさそうな感じだったのに、
今私の目の前にいる主査は躊躇せず積極的に話しかけてくる。
以前とはまるで正反対。
私の知っている、憧れていた主査とは別人ではないかと疑ってしまう変貌ぶり。
あの事故以来、一体何があったんだろう?
「はぁ…」
さくらは溜息と同時に最後の999と1000の切り取り線を何も考えず裁断してしまう。
「あっ」
「許容範囲です」
在原が大目に見てくれる。
「すいません」
よく見ると、ほんの少し曲がって切れていた。
時刻はもう少しで21時になろうとしていた。
空腹でさくらのお腹が鳴る。
「あっもうこんな時間」
どうりでお腹が空くわけだ。はぁ…帰ったら何食べよう…今日も簡単にレトルトカレーかなぁ。冷凍庫のご飯をチンしたら直ぐ食べられるし。
再びお腹が鳴る。
「すいません」
在原の口元が微かに笑う。
「流石に私もお腹が空きました。今日は帰りましょうか。今、タクシー呼びますね」
「はい、いつもありがとうございます」
と、快い返事をするものの…
二人でいる時間が長すぎて、かなり気疲れしてる。ストレスもかなり溜まっているし。またマイナスイオン浴びに行こうかな…。
実は主査の自宅が私と同じ方向らしいので、ここ最近は主査と一緒にタクシーで通勤している。
つまり、行きも帰りも一緒。
まだ足が痛いので助かると言えば助かるんだけど。
よくよく考えたら一日の半分は主査と共に行動しているんだよね。
以前の私なら毎日が幸せなんて思っていたんだろうけど、今は……微妙。
さくらは目を伏せて物思いにふけっていた。
あっ、またお腹が鳴った…。
同じころ
王生家では三世と煌徳がダイニングでニュースを見ながら遅い夕飯を食べるところだった。
今日のメニューはカレーライス。
食事担当の大耶が当直なので簡単なものを用意してくれていた。
テーブルに置かれたメモには、
『ご飯もルーも電子レンジで温めるだけでOK。
冷蔵庫に福神漬とサラダ入っています。野菜も食べるように。
食器は洗っておくこと。』
「相変わらず小うるさいなぁ」
「やった!インディアンカレーだ。サラダも何か豪華だね」
名付けるなら十種の野菜のサラダボウル。
「カツ無いのかよ…今日滅茶苦茶ハードだったんだけど」
「贅沢言わない」
「煌徳、ポン酢持って来て。マイルドの方」
「自分で持って来いよ。お腹減ってるから早く食べたいんだけど」
「どうせノンアル取りに行くだろ?」
「こういう時だけ心読むなよ」
「読んでない。いつものパターンだろ。で、剣さんは?」
「父さんならとっくに済ませて部屋で仕事してるよ。因みに姉さんは会議で遅くなるって」
「嫌な予感。絶対迎えに来いって電話が来るぞ。おれビール飲もうかな」
「ずるっ」
煌徳が渋々、ポン酢、ビール、自分のノンアルとハーフマヨネーズをキッチンに取りに行く。
冷蔵庫を開けて手に取ったのはポン酢、ビール2本、ハーフマヨネーズ。
「ごめん、姉さん」
『こんばんは。今日のニュースをお伝えします。北海道では連日ヒグマの目撃情報が相次いでいます。
今年に入ってから前年に比べて5倍近く増えており、市街地への出没は年々増加傾向にあります。
緊急猟銃の発砲は──』
今日もトップニュースは熊出没情報。
「何か毎日ニュースでやってるね熊出没のニュース」
煌徳がポン酢とビールを三世の目の前に置き席に着く。自分は速攻ビールを開けて飲む。
「あー!ビールじゃん」
「何となく今日はビールの気分だったの」
三世はサラダにポン酢を最初は一滴、二滴、そしてたっぷりかける。
「だけど年々増えてるよね。山の中は過密状態なのかな?あぁ三世かけすぎだよ」
「大耶みたいになってきたな」
むっとした表情を見せつつの…グイっとビール。
「この地では【キムンカムイ(山の神)】って言われてたのにな…今は指定管理鳥獣だよ。
そもそも昔からいたのはヒグマの方で野生の生息域に入って来たのは人間の方なのにさ」
三世が珍しく語りだす。
「そうだけどさ、何かいい対策ないのかな?」
「個体数が増えすぎたんだ。しかもアーバンベアと呼ばれる人間を怖がらない新世代のヒグマだから。昔とは違う」
「都会のクマ、まさにニュージェネレーション」
「こっちも気を付けることだな。夜や薄暗い時は一人歩きしない。家庭菜園も少し考えた方がいいかもな。
熊にはそもそも家庭菜園なんてわからんだろう。食べ放題バイキングだよ」
「確かに」
「電気柵しても、この前なんて、その下掘って侵入してたし」
「賢いんだ」
「そもそもヒグマは陸上の野生生物では国内最大。それが北海道にいて頂点に君臨している。
最近は山の線まで住宅が建っているし、テリトリーを奪還しに来てるのかも」
「ウチも山の際だけど…」
「ここは川の反対側。境界線は超えていない」
「流石、父さん」
「このニュースもそうだけど、子熊が母グマと行動しているだろ?」
三世がテレビ画面を指して説明する。
「母から食べ物に関する知識を学び食性を受け継ぐ。肉の味を知ってしまうと、この先大変なことになる」
「肉……」
「クマのオスは警戒心が強いから余り人里には下りてこないだろ?でも、これからは子孫繁栄のためにメスを追いかけ回すから
市街地や人前に出て来る確率が今以上に高くなるかもな。400から500キロクラスがいるかも」
「子孫繫栄…三世、言い方古いよ。繁殖ね」
煌徳が三世に少し違和感を感じる。
さっきもこの地って…蝦夷地のこと?北海道でよくない?それに昔、昔って…。
「そうとも言う。あっきー水欲しい、氷無しで」
「もうさっきから…自分で!」
「はいはい」
「賑やかだな…」
剣は部屋の窓から夜空に浮かぶ月をしみじみと見つめていた。
「ん?あれは」
夜空にモールス信号の様に点滅する一つの星。剣に何かを伝えているように見える。
「最近随分とさくらさんに接触している人物がいるようだな」
月やあらぬ春や昔の春ならぬ わが身ひとつはもとの身にして 在原業平
月は約46憶年前地球に天体が衝突して形成された衛星と言われている。だから月は昔のままの月。
「衝突…昔のまま…嫌な予感がする」
さくらと在原はタクシーで帰路についていた。
毎日乗っていて慣れてはきたものの、わずかな時間とはいえ狭い空間にいると
主査の香水の匂いが一層感じられる。
レモンのような爽やかな香り、嫌いじゃないけどいつもウトウトしてしまう。
きっと仕事で疲れているからかな…。
さくらがふらっと在原の肩にもたれる。
「あ!」
さくらが目を大きく開け、はっとして起き上がる。
「大丈夫ですか?さくらさん」
「少し疲れが溜まっているんだと思います。お腹が減ってるせいもあるかと…」
あれ?また名前で呼んだ…。
「心配ですね」
在原が隣に座っているさくらの顔をじっと見つめる。
【こんなに側にいるのに、どうして私の虜になってくれないのですか?】
さくらは視線に気が付き思わず在原の方を振り向く。
主査の口元が動いていない。
──何も言ってない。気のせい?やっぱり疲れてるんだ。
タクシーが街灯の下を通過した一瞬だけ、色付きの眼鏡の奥の瞳が見えた。
!?私を捉えている。
駄目。金縛りにあったように体が動かない。
匂いが段々きつくな…って…きて…意識が…。
さくらが朦朧として徐々に瞼を閉じる。
ルームミラーで後部座席の二人の様子を見ていた乗務員が、
気づかれないように少しだけ窓を開ける。
【世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし
愛でる桜が植物ではなく、さくら、君が私を魅了しているのだよ…】
在原が更にさくらに顔を寄せると、静電気が発生したような音がして思いっきりはじかれる。
「痛っ!」
静電気?以前も触れようとした時そうだった。
彼女は何かに守られているのか?
「ん…何?」
さくらが在原の声で目が覚める。
「あっ、着きました?」
「もうすぐです」
「もしかして私ウトウトしてそのまま寝てました?」
「えぇ。愛らしい寝顔でしたよ。お腹も鳴ってました」
「えっ嘘?は、恥ずかしい…」
タクシーがさくらのマンションの前で停まる。
「着きましたよ。一人で降りれますか?」
乗務員が声を掛ける。
「はい。大丈夫です」
あれ?この乗務員さんって主査が予約してくれてるからだと思うけど,いつも同じ人だよね?
でも以前どこかで…。
「あっ!」
乗務員は帽子の燕を掴み少し深く被り目を隠す。
「お疲れ様でした。また明日迎えに来ます」
「あ、あの主査、今日は私が支払います」
スマホを取り出そうと鞄を開ける。
そこには剣からもらった桜色の身まもりのお守りが入っていた。
「気にしないでください。たまたま同じ方向だったんですから」
「でも…」
「早く帰ってごはん食べてくださいね」
さくらが降車するとドアが閉まり、タクシーが去っていく。
さくらはタクシーが角を曲がって見えなくなるまで見送っていた。
「お腹減ったな…早くカレー食べよう」
夜空を見上げると月がくっきりと見えていた。
明後日辺りが満月かな…団子…お腹減ってるから食べ物を連想してしまう。
さくらを降ろした直後の車内。
「あの…エアコンって入ってますか?」
「すいません少し窓を開けていました。すぐ閉めますね」
後部座席のウィンドウが閉まる。
タクシーが間もなくマンションの前で停まる。
「1,110円になります」
「近くですいません」
「いいえ。ありがとうございました」
在原が降車したのは、さくらのマンションから100メートルほど先のマンションだった。
「エアコンがついてないのに寒かったな…」
いつも近くにお前がいるという事か。
在原が後ろを振り返る。
「浮気はしないから安心しろ」
それにしても、この体は内面が複雑すぎて随分と扱いにくい。
143年前の奴ともまた違う。
「慣れるには時間がかかりそうだ」
*北海道はその昔、蝦夷地と呼ばれていました。
読んでいただきありがとうございました。
我が家ではカレーを作りません。作っても大不評なので諦めました。
味が薄いだの、旨味がないだのetc.
なのでインディアンカレーを冷凍してストックしてます。
恐らくテレビでも紹介されたことあると思うのでご存知の方もいらっしゃるかと思います。
美味しいですよ。




