春の章 磑風春雨 16
さくらと在原は音響ルームに二人っきりになった。
さくらが抱いた違和感。それは在原から香るレモンの香りだった。
登場人物紹介
烏丸 さくら
MUSEUM OF CONTEMPORARY ART HOKKAIDO(通称M.C.H.)の学芸員。気分転換に訪れた山中で怪我をして三世に救われる。
苗字の読み方は「からすま」。
在原 朝臣
さくらの職場の上司。さくらの大学の先輩でもある。実はさくらに想いを寄せている。
列車事故で天野病院に入院していたが、何故か翌日退院できてしまう。
藤原 后恵
さくらと同じM.C.H.の学芸員。以前は奈良国立博物館に勤務。
霊感が強そう。
二人は間もなく音響ルームに着いた。
同じ建物の中で大した距離を歩くわけでもないのに、さくらにとってはその距離も時間も長く感じた。
在原が電子キーでドアを解錠すると同時に室内の電気が点灯する。
「さくらさん、真ん中の席に掛けて」
「はい、失礼します」
ゆっくりとドアが閉まりオートロックされた。
さくらはドアの閉まる音にビクッと反応する。
このドアは防音だよね…。外部との音が完全に遮断されてるっことか…。
いやいやいや神経質になりすぎこれは仕事だから。まさか主査がそんな事…ねぇ…。
考えすぎ、考えすぎ。何もないって。
自分に言い聞かせる。
在原は迷いなくさくらの右に座った。
さくらは眼帯をした在原の右目が気になったが、位置的に見ることはできなかった。
「早速さくらさんの作った音声ガイダンスのデモ聞かせてもらおうかな」
「主査、その前に、その…名前の呼び方なんですけどもいつも通り苗字の方でお願いします」
「えっ?」
「主査、さっきから私の事名前で呼んでるんですけど…」
「名前で?」
「はい。「さくらさん」って呼んでます」
「あぁすまない。全然気が付かなかった」
在原は無意識に呼んでいたようだった。
「いつも通り烏丸の方でお願いします」
「気を付けます」
怪我の影響なんだろうか、さっきから時折激しい頭痛に襲われてる。
今もそう。何かに頭を締め付けるような感じだ。
それに自分の思うように言葉が出てこない。
どこかでさくらと呼びたい気持ちが無きにしも非ずで…。
一方、さくらは両手を膝の上においてかしこまり、考えていた。
主査、本当に気がついていなかったのかな?
普段は上司と部下の立場で会話しているから今まで名前で呼ばれたことなんて一度もないのに。
それに感じている違和感はまだある。
この閉塞的空間にいるからかもしれないけど一層強く感じる香水の匂い。
珍しいよね、主査が職場に香水付けてくるなんて。
爽やかな匂い…。レモンかな?
さくらは香りを辿って在原をちらっと見ると、
在原の様子が明らかにおかしいことに気が付く。
顔面が蒼白で額に汗もかいている。
「さ、さ、さく…か…か…ら」
その時 在原が突然さくらの膝元に倒れこんできた。
「えっ?ちょっ、ちょっと」
在原はさくらの手を握り何か伝えようと必死だった。
「オ…オ…ン…ア…ア」
一方さくらも主査の身に何がおきたのかわからず動揺していた。
背中を察って必死に呼びかける。
「主査、大丈夫ですか?主査、主査!」
手を握ったまま反応がない。
「ど、どうしよう…」
特別展のために無理矢理退院してきたのかも…。この状況って救急車呼んだ方がいいのかな。
「主査、しっかりして下さい!主査!!、主査!!!」
さくらは声を一層大きくして呼びかける。
防音ドアに防音壁…。
とりあえず誰か、誰か呼ばないと。
ここってスマホの電波届くのかな?
「とにかく藤原先輩に電話」
慌ててスマホを手に取り藤原を呼ぼうとする。
「やっぱり電波が悪い。圏外になってる」
握っていた在原の手が小刻みに反応する。
「あっ、動いた?主査、わかりますか?主査!」
手が痙攣し始めてる。ヤバいかも…。
在原は薄目を開けてさくらをそっと見上げた。
その左目は瞬きもせず何かの暗示をかけているかのようにさくらの瞳に入りこむように見つめていた。
「えっ!?何?」
さくらは在原の視線に恐怖を感じ思わず顔を背けた。
一瞬だけど何かゾクゾクした。
まるで獲物に狙いを定めた動物の鋭い目。
在原が爪跡が残るほどの強い力でさくらの手を更にグッと握る。
「痛い!」
思わず大声を上げる。
助けを呼びに行きたいけど、目の前で主査が今にも危険な状態だし、それに手を放してくれそうにない。
「誰か助けて!お願い!誰か聞こえませんか?助けて!!」
さくらの助けを求める叫びに在原が反応する。
何かを吐き出すように咳込むと同時に在原の表情が徐々に平常に戻っていく。
見開いていた目の瞼がやや閉じている。
「あぁ…烏丸さん、私は一体?」
声を詰まらせ苦しそうに在原が話しかけてきた。
「あ、あのっ主査いきなり倒れて、その…私の膝に…」
在原は不思議そうな顔をしていた。
自分の身に何が起きたのか理解できていないようだった。
「あの主査、手…手」
ようやく在原はさくらの膝元に倒れこみ手を握っていることに気が付く。
「えっ?あ、すまない」
慌てて手を離しさくらの膝から身を起こそうとする。
さくらの手にはくっきりと爪跡がついていた。
彼女の手に跡が付くほど握っているなんて…。謝らないと。
「起き上がれますか?」
「あぁ大丈夫。ちょっとめまいがしただけなんで」
いや、体が重くて素早く起き上がれない。自分では立ち上がれって体に伝達しているのに、言うことをきいてくれない。
しかも、今すぐに謝りたいのに言葉が出てこない。
まるで自分の体じゃないみたいだ。
一体どうなっているんだ?私の末梢神経は何かに侵されているのか?
「本当に退院して大丈夫だったんですか?まだ手が痙攣していたみたいですけど」
在原は自分の右手を天井に上げて裏返して何度も見る。
「だ、大丈夫ですよ、ほら」
在原は神経を集中して震えを治めようとしていた。
「今日は無理しないで帰った方が」
上げた右手でしなやかなにさくらの顔に触れ、優しく頬から耳たぶを触る。
「お気遣いありがとう」
さくらは突然の在原の行動に硬直してしまった。
目で在原の右手の動作を追う。
何かされる?私、どうしたらいいの?
心臓の音が聞こえる。心拍数が上がってる…。
「つっ!」
在原はさくらに触れていた右手を反射的に離し、その手をじっと観察する。
針が刺さったような感覚があったのだが…。
「主査、どうしました?」
「あぁ何ともない。さぁ気を取り直して始めようか」
在原は肘をつきながらさくらの右側に座る。
「は、はい」
さくらはあまりの緊張で手汗をかいていた。
やだ…いつの間にか手が汗でべとべとしてる。ハンカチで拭きたいくらい。
落ち着こう。な、何も無かったんだから。ちょっと顔を触られただけ。
自分の太腿をぎゅっと掴んで深呼吸する。
同時にズボンで手を拭く。
在原は余裕綽々と進行する。
「まずは概要から。聞かせてもらえるかな」
「少し恥ずかしいんですけど」
さくらがスマホを操作し音声案内のデモがスマホから流れ始める。
『今回展示されている五大明王は真言宗の東…』
在原が目を閉じて真剣に聞いているのに対し、
さくらは集中できずに呆然としていた。何となく音声は耳に入ってくるが、しっかりと内容までは聞き取れていなかった。
「烏丸さん、ちゃんと聞いてますか?」
「え?は、はい。すいません。集中します。本当にすいません」
「自信が無い箇所があったら先に教えてください」
「はい」
いつもの主査だ。
やっぱり考えすぎだったのかな。
『降三世明王は東を守護する…』
「降三世…三世…三世?三世!?」
さくらが三世の名をクレッシェンドで声に出す。
「どうしました?いきなり立ち上がって…そんなに足が病むんですか?」
「いえ、大丈夫です。度々すみません。集中します」
私、何敏感になってるんだろう…。
そういえばあれから何も連絡ないな…。
安否確認のラインくらい来ると思ったのに。
『造形は四面八臂と呼ばれ3つの顔と8本の手をもつ姿で…仏像の目には水晶が使われている』
“ヒュー、ヒュー”
「ノイズ?」
さくらの耳にすきま風のような音が聞こえた。
「いや、私には聞こえてないよ」
在原には聞こえていないようだった。
「もう一度今のところから流します」
『造形は四面八臂と呼ばれ3つの顔と8本の手をもつ姿で…』
あれ?入ってない…気のせいだったのかな?
『独特の降三世明王印を結び…』
“ヒューヒュー”
えっ?やっぱりノイズみたいの入ってる。スマホ壊れた?
『左足で大自在天、右足でその妻である烏摩妃を踏んでいる』
「あの…主査やっぱりノイズ入ってませんか?私には聞こえるんですけど」
「えっ?」
“ピー”
電子キーの解錠音が鳴り后恵が入ってくる。
「失礼します。在原主査、館長がお呼びです」
「わかりました。今行きます」
「主査、歩けますか?」
「あぁ大丈夫だよ。直ぐ戻れると思うから、ちょっと待っててもらえるかな」
二人をよそに后恵は室内を見回していた。
──ここにいた。
「そうだ、さくらさん小学校の見学向けパンフが届いたのよ。事務所に行って確認してもらおうかな。時間が勿体ないわ」
藤原が咄嗟に思いついたように仕事を頼む。
「そうですね。私からもお願いします」
在原も物柔らかな口調でさくらに頼む。
「わかりました」
在原が退室すると、さくらは何故かほっとして息をついた。
今日の主査なんか変。温和な雰囲気もあり、張り切りすぎな言動もあり…テンションに付いていけないな。
それにしても三世、降三世明王、三世、降三世明王。どこかで聞き覚えあると思った。
すごいタイミングよね。これって偶然?いやいやいや、
彼は私を助けてくれた地元の獣医さんで、名前が三世。
愛想が悪いけど、怪我の処置してくれて病院も連れてってくれて…多分本当は優しい、親切な男性。だと、思う…。
でも、よく考えてみれば三世って珍しい名前。お父さんが仏像学芸員だから、名付けても不思議じゃないか。
私ったら何気にしてるんだろう。
「さくらさん、さくらさん」
さくらは上の空で藤原の呼びかけに全く気が付いていなかった。
「さくらさん、さくらさん。何かこの部屋寒くない?さくらさん、さくらさん!」
一段と大きくなった藤原の声にようやく気が付く。
「珍しいですよね」
ちぐはぐな返答。
「はっ?何が?」
「いえ、何でもありません。あははは…」
何聞かれてたんだっけ?
「さくらさん鍵閉めるよ」
さくらと后恵が一緒に音響ルームを出る。
「事務所行って来ます」
「お願いね。パンフはパーテーションの裏に置いてあるから」
「はい」
后恵はさくらが通路を曲がり姿が見えなくなるのを確認したあと、
部屋の中を見透かすように凝視していた。
「彼女も退室したみたいね」
果たしてどっちを追っているのかしら?女性だから主査?モテル男は大変ね。
「これでよし」
ドアノブに札を下げる。
"入室しないでください"
読んでいただきありがとうございます。
只今 子供と一緒にインフルエンザA型になっております。
ボーっとしています。多分熱が上がってきていますね…。




