春の章 合縁奇縁 24
宝が在原と対面する。
彼の多重人格のような変貌に一つの症例を思いつく。
しかし、宝はどうも腑に落ちない。
登場人物紹介
野原 南海
宝が勤める病院で一番信頼できる看護師。
在原 朝臣
さくらの職場の上司。さくらの大学の先輩でもある。実はさくらに想いを寄せている。
列車事故で宝の勤務する病院に搬送され、入院している。
王生 宝
現在に目覚めた軍荼利明王。143年前は男性として現れるが、現在は女性として現れる。
職業は脳神経外科医(脳神経内科兼務)。
趣味は昔から薬草の研究(栽培は人任せ)
天野病院3階東病棟
宝は南海と一緒に担当になった新入院患者の回診を行っていた。
「南海、ごめんね。お土産配ってたらお昼過ぎちゃった」
「前任の午前の回診は終っているので大丈夫です。今回は挨拶を兼ねてということでお願いします」
南海がナイスフォロー。
「そうそう例の循環器外科のメタボにもお土産のチョコあげてきた。糖質OFFの方」
宝の口元が緩々で必死に笑いをこらえているのがわかる。
「絶対、糖尿病ですよね。診察室の甘い匂い、お菓子が隠してあるからだと思ってましたけど本人から臭ってました」
宝はすかさず声が漏れないように手で口を隠して笑う。
「さすが南海。鼻が利くじゃん。第一印象はね…内臓脂肪たんまりありそうな河馬」
「インスリン効かなそうでしょ」
「河馬の皮下脂肪は厚いからね8mmの針でも無理じゃない?」
「もう、宝先生ったら。失礼ですよ」
「で、何ていうんだっけ?先生の名前」
冗談ではなく本当に聞き忘れたらしい。
「──菊田です」
思い出したように宝が手を軽く叩く。
「そうだ!菊芋。今年は私の薬草園に菊芋を植えてみよう。丁度根菜類は何植えようか悩んでいたのよね。因みに去年はサツマイモだったのよ。見てこの美肌」
宝は自分の頬を指で突いて肌の潤い、弾力をアピールする。
「菊芋ですか?」
南海の頭には今一つぱっと浮かんでこない芋の名前とイメージ。菊の花+ジャガイモ?
「菊芋のエキスにはインスリンの分泌と働きを改善するする作用があるらしいのよ」
「なるほど。いい実験体ですね」
「でしょ」
後で三世に種芋買っておくように言わないと。
妙に浮かれている宝のスキップのような足取り。
宝先生の考えていること冗談とはいえ怖い…菊田先生はモルモットじゃないんだから。
「宝先生、306号室に着きましたよ」
「新患さんの電子カルテは…あった、あった」
在原 朝臣 29歳 男性 トリアージ識別は黄色で搬送 右目眼球打撲、眼窩底骨折はなし。
網膜震盪症 要安静。
頭部のCT検査結果、頭蓋骨骨折及び陥没もなし。
「一応MRI検査もやったんだ。硬膜の外に脳脊髄液は漏れてはいないようね。奇跡的だね」
「ですね」
「失礼します」
二人は声を揃えて入室し、仕切りカーテンがきっちり閉められている在原の病床に近寄る。
「在原さん、すいません。起きていらっしゃいますか?」
宝が優しく声をかける。
「は、はい」
「担当になりました脳神経外科の王生と申します。カーテン開けてもよろしいですか?」
「どうぞ」
そこには、右目に眼帯をつけた男性が自分を見失ったかのような表情で仰向けで寝ていた。
「直ぐに一般病棟に移れて良かったですね。眼球打撲と胸部打撲だけで頭蓋骨の骨折箇所も見受けられませんでした。検査結果を見る限り脳に異常はないと思います」
「あの退院はいつできますか?仕事のスケジュールが詰まってて直ぐにでも職場に戻りたいのですが」
「退院の件は眼科の羽黒先生と相談してからですね。網膜震盪症と言って少し目の奥が濁っていますが一週間位で回復すると思います。もし痛みやかすみなどの症状が出てきたらすぐに診察して下さい。脳の方も経過観察でいいかと思います」
「そうですか…」
南海がPCに入力する健康観察表をチエックしにベッドサイドテーブルの上の書類を触る。
「おい、触るな!!」
南海が思わず震えあがる。
「す、すいません」
「在原さん?」
宝も突然怒鳴りつけた在原に驚く。
何か見られてはいけないものがあったのかしら?
「あっ、私の方こそすいません。突然声を荒げてしまって」
在原は直ぐに正気を取り戻して謝る。
「在原さん、健康観察表つけましたか?看護師の方からお願いしていたと思うのですが」
宝が態度を変えずに普通に接する。
「あっ、はい。今お渡しします」
宝の問いかけには平静に受け答えする在原。
テーブルを整理しながら何枚か重なった書類の中から1枚の紙を取り出す。
「在原さん、何か先生に聞きたいことはありますか?」
突如変貌した在原の鋭い左目が南海を捕らえる。
宝が庇うように南海の手前に出て紙を受け取り視線を遮る。
「観察表ありがとうございます。南海、入力お願い」
「はい」
私と話した時と南海と話した時の様子が全く違う。私に一目惚れしたのではないとすると…。
宝が医師として一つの症状を思いつく。
彼、もしかして解離性同一性障害?
「先生、実は…」
「どうしました?」
「いえ…」
宝は会話の最中も在原の身近な範囲をチエックしていた。
サイドテーブルの上には記入済の入院申込書と手帳が雑に置いてあった。
目に留まったのはA5サイズの少し大きめの手帳からはみ出ている紙。
その紙は不自然に両端の10センチ四方が手で破られたような感じだった。
辛うじて見れたのは
【仏教美術の世界 特別展 MUSEUM OF CONTEMPORARY 】と仏像と思われるの写真の一部だった。
そして入院申込書には
"勤務先 MUSEUM OF CONTEMPORARY ART HOKKAIDO(M.C.H.)"
と記入されていた。
何か腑に落ちない。何か…何か…何かって何だろう?
「それでは、在原さん。お大事になさってください」
宝はもどかしい気持ちのまま笑顔で退室する。
「はい…ありがとうございます」
「ん!?」
背後から宝の頬に冷たい空気が当たった。横髪が揺れる。
宝は病室内から廊下に向かって自分たちを追い出すような空気の流れを感じた。
振り返って病室を見る。
目を凝らすと既に閉められたカーテンの中に、陽炎のようなゆらゆらした空気が見えた。
──中にもう一人誰かいる。
こういう時霊感が強い煌徳がいてくれたらなぁ…。見えるかもしれないのに。
「宝先生、どうかしましたか?」
気のせい?病室内の空気が廊下より寒い気がする。陽炎って日差しが強く空気が熱せられないと起こらないよね。
「南海、病室の設定温度って何度だっけ?」
「今は5月なので23度です」
宝が壁の温度計を見ると…。
──19度。
20度切ってる。いくら何でも低すぎない?
いや、違う。超鈍い私でも彼の近くから僅かな霊力みたいなものを感じる。
一体彼は何者?
「ごめんごめん何ともない。次の病室行こっか」
在原は金縛りにあったように身動きできずベッドに寝ていた。
「た、たす、助けて…」
ベッドのシーツを握りしめ必死に抵抗しているようだった。
冷気が在原の唇に触れる。それは唇を合わせているような感覚だった。
「目の前にいるのか…」
在原の意識が遠のいていく。
霊気の正体を目の前にして、そのまま目を閉じる。
眼窩底骨折……眼球周辺部の骨折
解離性同一性障害……多重人格のこと
読んでいただきありがとうございました。
実は北海道でもサツマイモ栽培しているんですよ。子供が小学生の時は毎年サツマイモ堀りに行ってました。シルクスイートという品種です。
カバ……。旭山動物園でウ〇コを飛ばす瞬間に遭遇(笑)。いい思い出です。残念ながら札幌円山動物園にはカバがいないんですよ。




