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春嵐、嚆矢濫觴

 現在から143年前、陰陽道に精通した翡翠色の瞳を持つ稀有な青年がいた。

彼には生まれつき下界にいずれ現れる降三世明王の宿主としての証である星の痣が右手にあり名前にも標となる「世」が付く千世と名付けられていた。

降三世明王は既に千世の体を借り、意識を支配して災厄が起きるその時まで波風を立てず下界で過ごしていた。

 時が経ち千世は理由あって、地元の神社の住職「王生剣(いくるみけん)」の養子になっていた。

晩冬、千世は熊に追われて神社に駆け込んで来た「烏丸桜(からすまるさくら)」という女性に出会う。

考えれば熊は冬眠中である。おそらくニホンカモシカと見間違えたのだろう。

千世と桜は絵を描くという共通の趣味を通じてお互いの距離を徐々に縮めていった。

勿論千世は自分の正体を隠したまま。

意識は降三世明王のはずなのに不思議と下界の女性に恋をしてしまう。

桜もまた謎めいた雰囲気の千世に惹かれていく。

しかし、彼女は当時の軍司令部上官、九条道隆の許嫁であった。

桜にとっては親が勝手に決めた約束で自分の意志がそこにはないことにかなり不満を持っていた。

一方、九条にも誰にも言えぬ秘密があった。時折表面に現れる鬼のように激昂する感情の正体。彼はそれを一人で抱え込み葛藤していた。

 ある日九条は祈願をしに王生が住職を務める地元の神社を訪れる。そこで偶然桜の落款が押された絵を見てしまう。

何も知らない千世は九条に二人で描いた絵の説明を楽しそうにする。

動揺を隠しきれない九条。その一件が引き金を引いたかのように彼の中に潜んでいた内なる支配者が完全に目覚めてしまう。

愚痴を糧に増大する内なる支配者の闇に体と精神が蝕まれていく九条。

九条の異変に気が付いた千世は策あって柔和に対話を重ね陰陽師としての才を活かし、ついに内なる支配者の正体を掴む。

なぜか降三世明王は千世より先にその正体に気付くことはできなかった。

恐らく千世と降三世明王の意識の均衡崩れ千世が降三世明王の意識を凌駕していたのだろう。

 4月8日 花祭り 剣が丁度神社を空けていた時だった。

九条が血相を変えて神社を訪れる。祈願しに来たわけではなさそうだ。

彼は出迎えた千世の目の前で豹変する。

思いもよらぬ手段で神社に火を放ち千世を亡き者にしようとしたのだ。

神社全体が炎に包まれ、その火炎の中で

降三世明王と変貌した九条と思われる人物が交戦していた。

間もなく黒い雲が辺り一帯を覆い激しい雨が降り注ぐ。

その雨は麓の町にも及んでいた。

万事休す、降りしきる雨は火を消し止めた。

神社に戻った剣が見たのはくすぶった煙の中に見える人影。それは降三世明王、いや、千世だったかもしれない。

人間と自分に湧いた愛欲、恋敵に対する感情、そんな嫉妬深い愚かな自分の姿との狭間で降三世明王は真実を語ることなく煙とともに現在から姿を消したのだ。

そして、もう一人。火傷を負い倒れている九条もとても話ができる状況ではなかった。

真実が分からず謎が残った。


 三人の絡み合う想いは時代を超え、143年後再び巡り会うことになる。

降三世明王は、いつか会えるかもしれない桜への思いを宿主となる人間の意識の中で未来へ運び、九条の血縁者は知らず知らずのうちに、ある人物の怨念を延々と未来に運んでいた。

現在、降三世明王は「王生三世(いくるみさんぜ)」という人間の体を借りて過ごしていた。

そんなある日、苗字の読み方は違うものの、かつて千世が愛した女性と同姓同名である「烏丸(からすま)さくら」との出会いで異変が起きる。

143年前の宿主、千世の意識が三世の行動に顕著に見え始めてきたのだ。

それを否定しようとする降三世明王。またもや意識の均衡が崩れ始めたのか…。

複雑な胸中のままさくらとの接し方が分からない降三世明王(体は三世)だったが、不器用ながら次第にさくらと話すことで親密さを増していった。

それが三世の意識なのか自分の意識なのかそして時折脳裏によぎる千世の意識なのかわからないまま…。

現在には降三世明王以外の四人の明王も目覚めていた。

彼らは昨今の転変地妖が何かの前兆ではないかと危惧していた。

143年前 支配者になることができなかった者の再来ではないかと。

気になるのは九条の血縁者であろう在原朝臣(ありはらともおみ)という人物。彼の存在が現在で三世達、五大明王を奔走させる。


西暦1880年、和暦明治13年

―――現在から143年前、東京府某所

4月8日

 街から見える山の西側には早咲き、遅咲き、多種の桜が春の趣を絶やさぬよう一面に敷き詰められ植わっている。

それは正に神域のような荘厳な景色だ。

山頂には神社があり、麓の集落から毎春見るこの絶景に手を合わせて見る人も多い。

参道を登って行くと中腹に大きな奥宮が建っている。そこから暫く歩き、辿り着いた山頂の開けた境内には見事な一本桜が満開の花を咲かせていた。

時折吹く山風で桜の花びらが空に舞い、麓までひらひらと届く。

―――街中の菓子屋

「いつもの最中を二個下さい」

珍しいお手製の画材バッグを肩にかけた若い女性が数あるお菓子の中から迷わず最中を注文する。

「桜ちゃんいつもありがとう」

どうやら菓子屋の常連客のようだ。

「お茶のお供にはここの最中しかありませんよ。とにかく小豆がおいしくて餡子の甘さも最高です」

「あら、嬉しい。いつもの竹籠ちょうだいな」

「はい」

桜は画材バッグの中から小さな竹籠を取り出し、店員に渡す。

その時めくれた着物の袖から真新しい腕のひっかき傷がチラッと見えてしまった。

「あら、桜ちゃんどうしたんだい?その傷」

心配した店員が尋ねる。

「あぁ、これ?九条家の居候さんにやられたの」

「居候さん?」

「そっ、居候の猫ちゃん」

「猫?」

店員が首をひねる。

「普段は縁側の踏み台の上で鼻に蝶が留まっていても起きない位おっとりしてるって言うんですけど、私が撫でるといつもこんな感じでやられるんです。そろそろ懐いてほしんだけどな…」

桜は少し寂しそうな表情を見せた。

「あらあら…で、どこを撫でたんだい?」

「ちょっと怖いから、後ろから尻尾をそっと…」

「それは嫌がるかもね…。尻尾は猫の急所だから。撫でるならお顔を指で優しく、こんな感じで」

店員が撫でる仕草を桜に見せる。

「急所?私全然知らなかった…それは流石に嫌がりますよね…今度は勇気を出して顔を撫でてみます」

「はい、十厘ね」

店員が竹籠に入れた最中を渡す。

桜は意識して袖下を持ち、腕の傷が見えないようにお代を棚に置いた。

「毎度ありがとね」

桜は大事そうに竹籠を持って店を出た。

「それにしても最中を焼くなんて意外よね。皮がパリッとして最高に美味。今日は新茶も少しだけ家から持って来たし、また千世さんに軽く焼いてもらって一緒にいただこう」

桜は胸を躍らせながら山頂の神社へと向かう。


 この時季になると街の住民は山の桜を日課のように眺めている。

「今年も山の桜が綺麗ね。去年よりちょっと色が濃いかしら?」

「散るなんてもったいないわね、あと少し…いや、しばらく眺めていたいわ」

「せめて週末まで満開でいて欲しいわね」

「どうか雨が降りませんように」

「大丈夫だよ、桜が満開の時に雨が降ったことなんてないから」

「昔から神様が桜を見守ってくれてるのよ」

誰もが山一面の桜を少しでも長く眺められることを願っていた。

「散る桜 残る桜も 散る桜」

背の高い背広を着こなした身なりのいい男性が遠目に桜を見てしみじみと詠む。

「何だい?それ俳句かい?」

山の桜を見ていた町人が男に問う。

「今美しく咲いている桜もいつかは必ず散る。その事を存じ上げておくように」

「へぇーあんた俳人みたいだね」

「いえいえ、江戸時代の僧侶が詠んだものですよ。ちょっと気取ってしまいましたね」

笑顔で答え、目の前の菓子屋の暖簾を軽く押し広げ頭を下げて中へ入って行く。

「いらっしゃいませ」

「季節の上生菓子を五つ」

背の高い男性は店内の菓子を見ることなく注文する。彼もまた常連客のようだ。

「今月は初桜ですよ」

ケースの中には菓名が書かれた可愛い上生菓子があった。

男性がケースを覗き込む。

色調が薄紅色から白へと変わる花びらの一枚一枚が丁寧に押し棒で仕上げられ、直ぐに目を惹いた。

「初桜、めぐり逢い…季語ですね」

「さすが王生(いくるみ)さん。今、包みますね」

「お願いします」

暫くして王生(いくるみ)と呼ばれる男性が菓子を手に片手で暖簾を押し広げ店を出る。

「ありがとうございました」

突然風が吹き、広げた暖簾が顔に触れる。

思わず空を見上げると彼の頭上には一羽の鳶が旋回していた。

「風向きが変わった…東風か…。おや?あれは制多迦の式神。何かあったのだろうか。早く神社に戻った方がよさそうだな」

王生は通行人の動きが止まってみえるかのように器用に間をすり抜け、道を突き進む。

「背広でよかった…」

少し走ったところで近道を選択する。

「こっちの方が早いな」

角を曲がった所で一瞬桜とすれ違う。

「あら、桜ちゃんじゃないの。大きい鞄持ってどこ行くんだい?」

顔見知りの女性が桜に声をかける。

「おばさん、こんにちは。えっと…その…今日は満開の桜を描きたくて、街中を探索しているところです」

桜は持っていた竹籠をそっと画材バッグに入れる。

「満開の桜ならあの山しかないでしょう。しかも神社の境内には樹齢100年を超える見事な一本桜があるとか…」

実のところ桜はその一本桜を描きに神社に行くのだが、訳あってそのことは知られたくなかった。

「やっぱりそうですよね」

私、嘘つけないんだよね。すぐ顔に出ちゃうし。顔ひきつっていないかな…。

「ほら見てごらんよ、見事な桜…を…」

そんな会話をしていた直後、景色が一転する事態となる。

舞い降りてきた薄紅色の桜の花びらが一瞬にして目の前で赤い火の粉に変わったのだ。

「えっ?」

桜の襟元に花びら、いや火の粉が落ちる。

「あっつい!」

桜が慌てて手でほろう。

「何?これ…」

声をかけた女性が叫びながら後退りする。

「ちょっと見て!山が、山が燃えてるわ!!」

火の勢いは凄まじく瞬く間に山全体に広がっていった。時折山頂から火柱が上がり外炎の先は空高くまで到達していた。

燃え上がる炎はじわじわと不気味に空をも赤く染めていった。

「チッ、千世(せんぜ)の奴何をやらかしたんだ」

王生は山を見つめながら怒りを露にする。

背後から地面を蹴る蹄の音が聞こえてくる。振り向くと目の前まで黒毛の馬が迫っていた。

それは競走馬のように見とれるほどの均整な筋肉がついた黒い馬だった。

見計らったように王生の目の前で止まる。

俱利伽羅(くりから)、行くぞ」

王生は軽々と鞍の上に乗り進行方向を見据え手綱を引く。

頭上の鳶は先導するように東の方角へ飛んで行く。

倶利伽羅も迷わず燃え盛る山へ目線を向け全速力で向かう。


「何て火の勢いなの…早く消防組を呼ばないと」

桜は意を決し今来た道を急いで戻る。

途中目にしたのは、

燃える山の桜を茫然と見ている住民。

見たこともない火の勢いに思わず逃げ惑う住民。

手を合わせて神頼みをする住民。

子供に恐ろしい光景を見せまいと家に入り戸締りする住民。

「火事だ!火事だ!山が燃えてるぞ!早く火を消すんだ!」

叫びながら街中を駆ける住民。

「とにかく水だ!水を運ばないと!消防組は何してるんだ!」

捗らない消火活動に苛立っている住民。

「どうしよう…何もかも燃えてしまう。千世(せんぜ)さん、そこから早く逃げて!」

桜は息を切らしながら三町ほど走り、ついさっき寄った菓子屋の並びにある消防組の詰所に駆けこんだ。

「お、お願いします!早く、早く火を山の火を消して下さい!あそこの神社には、私の…私の大切な人がいるんです.。助けてください!お願いします!」

詰所に待機していた消防手たちが桜を心苦しそうに見る。

「お願いします!お願いします!お願いします、お願い…します……」

桜は目に涙を滲ませながら、額を床につけ懇願した。

「顔をおあげなさい」

大柄な消防組の男性が桜と同じ目線の高さまで屈んで優しく声をかける。

彼は消防組組頭の御手洗炎(みたらいほのお)

しかし、桜は泣き崩れて話が聞ける状況ではなかった。

「お嬢さん、安心して下さい。既に先発隊は出ています。我々も準備ができたのでこれから消火活動に向かうところです」

『安心して下さい』

桜はこの言葉を聞いて、何故だかわからないが気持ちが落ち着き涙も少しずつ引き始めた。

「さぁ我々も出動するぞ!」

御手洗が立ち上がり号令をかける。

「はい!!」

詰所に残っていた消防手たちが威勢よく返事をする。

「念のため担架を用意しろ。負傷者がいるかもしれない」

「了解!!」

「外は危険です。あなたはここで待っていてください。いいですね」

御手洗が桜にここに留まるよう念を押す。

桜は俯いたまま軽く頷く。

ぱらりとほどけた髪が床につく。

「どうか顔を上げてください。綺麗な髪が汚れてしまいますよ。お嬢さん」

桜は徐に顔を上げた。

そこには正義感溢れる凛とした目の御手洗が桜を見守っていた。


烏丸(からすまる)家邸宅内

雨戸を開けて、縁側から芽吹きだした中庭の松を見る男性。

烏丸家主人、烏丸光彦。

「みどり摘みを頼まないといかんな」

その後ろには美しい所作で湯呑にお湯を注ぐ妻の春子がいた。

「あなた、今お茶を入れますね」

お湯が適温になるころ光彦に声をかける。

「あぁ頂こうかな」

「先日九条家の奥様から頂いた貴重な一番茶なんですよ。とても香りがよくて、美味しいとお伝えしたらまた頂戴しました」

茶葉を急須に入れ湯呑のお湯を移す。

「もう新茶が飲めるのか」

「えぇ何でも種子島で摘んだものらしいですよ」

「種子島…九州の南東にある島か。そこなら暖かいし茶摘も早いだろうな」

春子は蒸らす時間も計らずともわかるように湯呑に少しずつお茶を注ぎ始める。

「このお茶、先程 道隆さんが届けて下さったんですよ。今日は平日なのに珍しくお休みだったみたいで。なのに桜ったら出かけてしまって…」

「彼は陸軍省の少佐だからな、銃の導入の件で昨年からずっと忙しいと聞いてはいたが」

急須から最後の一滴が湯呑に注がれる。

光彦は席につき湯呑を手に取りお茶を飲む。

「桜は今日もあの神社に行っているのか」

冷ややかな口調で尋ねる。お茶の味よりも気になるようだ。

「何でも神社の境内には見事な一本桜があるそうで、それを描きたいと言ってました」

光彦の表情が一層険しくなるのがわかる。

「聞くところによると神社の息子と随分と親しくしてるとか。いいか、桜は九条家の長男道隆殿の許嫁なんだぞ。しかも九条家と言えば代々陸軍の幹部に就いているお家柄だ。変な噂でもたったらどうするんだ」

流石公家の当主。上流階級の立場を重んじる発言だ。

「あなた、そんな話どこから聞いたのですか?神社のご子息なら、その辺は良識あるでしょうに」

春子の言うことは最もだ。光彦は湯吞を暫し見つめ一旦冷静になり次にどう切り出すか考える。

「しかし、道隆殿が直接私に言ってきたのだ。二人が仲睦まじくしているのを見たと…」

「確かに桜は足繁く神社に通っていますが、四季折々の花を描くためと言ってました」

光彦がお茶を飲み干し、沈黙する。

でも、桜が神社に行った時はいつも微かにいい香りがするような…お花を描いているからかしら?

春子も少し気にはなっていた。

「実は先程道隆さんがいらっしゃった時、桜が神社に行っているとお伝えしたら血相を変えて走って行きました。まるで別人のようでしたわ」

「別人?相当憤慨しているからだろう。そんなこともわからんのか!」

「あなた…」

混乱しているような民衆の声が遠くから段々と近くなってくる。

「何だか外が騒がしいな」

光彦が立ち上がり、外の様子を覗う。

徐々に空が赤く染まってくる光景に目を見開く。

「東の空が真っ赤じゃないか」

住民の声がはっきりと聞き取れるほど大きくなってきた。

「火事だ火事だ!」

「山が燃えているぞ山火事だ!」

「おい見ろよ、上の神社から火柱が上がっているぞ!」

「水だ水!とにかく大量の水だ!」

「ポンプはないのか!」

「そんなんじゃ間に合わないって!」

「じゃあどうすればいいんだ!燃え尽きるまで待つのか?それとも神様に雨ごいでもして大雨降らしてもらえってか?」

初めて目にした大規模な山火事に動転した住民がおたおたしている。

光彦と春子は慌てて門の外に出て燃え盛る山を目の当たりにする。

二人の目に入って来たのは見たこともないおぞましい光景だった。

炎は空を赤く染め、うねり狂う火柱は昇龍のように天高く燃え上がっていた。

天と地をのみつくす火の凄まじい勢い。麓を流れる川の色も赤く染めるほどの大火だ。

現在、4月である。赤く染めているのは紅葉した葉ではなく。火のついた桜の花びらと炎で染まった赤い空が映っていたのだった。

「まるで地獄の業火だ」

光彦が唖然としながら呟く。

目に見える光景を例えるならこの言葉しか当てはまらない。

「桜、桜、桜が…桜が…」

光彦の襟元にしがみつき、ただただ桜の名前を呼び泣き崩れる春子。

光彦は両手で春子をそっと抱きしめた。


 王生と倶利伽羅は既に山の中腹まで来ていた。奥宮が見えると迷わず横の細い道へと入り山頂を目指した。

「ナウマク・サマンダバザラダン・カン」

王生は精神を集中し目を光らせ真言を唱えていた。

「頼む、間に合ってくれ!」

風向きが変わり何処からか冷たい風が吹き始めてきた。

空は急に曇天になり、王生たちを先導していた鳶は北の方角へと飛び去った。

あっという間に発達した黒い雲が山を四方から覆う。さらに雲がこの街一帯に差し掛かると間もなく雨が降り出してきた。

あたりは次第に暗くなり雨の勢いは地面を跳ね返るほど段々と激しくなってきた。

山頂には巨大な雨柱が出現し麓から山火事の様子を見ることはできなくなっていた。

並外れた雨が延々と降り続く。

願いが通じたのかこの雨は延焼を食い止めた。


 突然の大雨で境内の火はくすぶり始めてきた。

俱利伽羅が葉が展開し始めた紫陽花棚の中から勢い良く飛び出してくる。

「あぁ新芽が…(たかし)に怒られるな」

王生は倶利伽羅から飛び降り

雨に打たれながら目を閉じ真言を読誦する。

「ナウマク・サマンダバザラダン・カン。ナウマク・サマンダバザラダン・カン」

暫しの沈黙。

ゆっくりと目を開け、呼吸を落ち着かせる。

目の前にある花もなく焼け残った数本の枝が痛々しい境内の一本桜を見て詠む。

「散ればこそいとど桜はめでたけれ 憂き世になにか久しかるべき」

その開いた目は冷ややかで悲しさを感じる青い色に変わっていた。

不動明王真言を読誦し目の前の様子を譬える短歌を詠むこの男、名を王生剣(いくるみけん)と言う。

この神社の住職であると同時に彼は現在に目覚めた不動明王である。

「火の気はないはずだが…千世が香炉でもひっくり返したのか?」

倶利伽羅が何かを見つけたのか、ゆっくりと歩きだしピンと耳を立てて剣に合図する。

剣が追った視線の先には顔の右半分と体の一部に火傷を負った男性が倒れていた。

急いで駆け寄り上半身を抱きかかえ顔を胸に近づけ呼吸を確認する。

「気を失っているだけで息はあるようだ。それにしてもひどい火傷だな。顔がわからないほど損傷している」

焦げた縦縞の着物には下り藤が刺繍されているのが辛うじて見えた。

首にはお守りが掛けられており、既に生地の一部は焼け焦げて二重叶結びも、もはや解けそうだった。

「下り藤に大日如来のお守り?年も若そうだし…もしかして彼は九条家の?」

その時、胸元に青白い光が輝き一瞬にしてお守りが消滅した。

「誰だ!」

剣が気配を感じ咄嗟に後ろを振り返るとくすぶった煙の中に人影が見えた。一瞬だが宝石のような緑色の輝きが煙の隙間から覗いた。

「千世か?待て!千世!」

直ぐに背を向けられ体の右半分しか見えなかったが、間違いないなくその人物は翡翠色の瞳をしていた。

剣の呼び止めにも応じず、はっきりと星の痣が見える右手を軽く上げ、別れの挨拶なのだろうか手を振り無言で煙の中に姿を消した。

「おい!どこに行く気だ!千世!」

声を荒げるが、返事は無かった。

あれは間違いなく千世だ。馬鹿な、人間である千世が炎を操れるはずがない。操れるのは主の降三世明王の方だ。一体何がどうなってるんだ?

「降三世明王、いや、千世!現在に、ここに戻ってこい!」

剣は消えた千世を呼び戻そうと叫びながら火がくすぶっている境内を必死に探し回る。しかしそこには姿を隠せるような建物はなく焼けただれた無残な光景が広がっていた。

「千世……」

雨が目に入るのも気にせず天を仰ぐ。

王生が焼け落ちた本殿に向かおうとすると、行く手を阻むかのように一匹の猫が足元で鳴いた。

「ミャーオ」

「こんな所に野良猫?」

「ミャーオ、ミャーオ、ミャーオ」

段々と鳴き声が大きくなる。

「一体何だというんだ」

剣は苛立ちを隠せない。

「キョッキョキョキョキョ」

今度は空から剣に呼びかけるように鳥の鳴き声が聞こえてきた。

剣が空を見上げると鳶ではなく黒褐色の羽に白い胸と腹に黒い横縞が入った一羽の鳥が刹那に吹いた東風に身をゆだね飛び去っていった。

「ホトトギス…なるほど現在を去ったということか…。降三世明王、いくら何でも無責任すぎないか?」

境内へと続く階段を駆け上って来る軽快な足音が近づいてくる。

「父さん、ご無事で?」

息子であろう若い男が境内に足を踏み入れる。

「ミャーオ、ミャーオ、ミャーオ」

猫は若い男の足元にすり寄って行く。

「はっ?猫?何でこんな所にいるんだ?」

若い男がしかめっ面になり猫と対峙する。

「ミャーオ、ミャーオ、ミャーオ」

しつこく何かを訴えているのだろうか一向に鳴きやまない。

「ん?この猫、可愛いけどよく見ると実体がないじゃないか」

彼の目にはそう見えた。

「オン・シュチリ・キャラロハ・ウンケン・ソワカ」

若い男が真言を唱えると、猫は元の紙に戻り地面にひらりと落ちる。

「これは懐紙?」

紙を拾い手の中で一瞬にして灰にする。

彼の名は王生煌徳(いくるみあきのり)、剣の息子であり現在に現れた大威徳明王である。

「煌徳、いい所に来てくれた。この男性を早く病院へ連れて行かないと」

「父さん、もうすぐ消防組が来る。彼らに任した方がいいよ」

「そうだな」

煌徳が瀕死の九条を不憫な眼差しで見る。

「一体何があったんですか?千世、いや降三世明王の気配を全く感じませんが…」

「降三世明王なら現在から去ったよ…」

「えっ!?」

階段を駆け上ってくる音が次第に大きくなってくる。消防組はもう直ぐそこまで来ていた。

「父さん早くこの場から離れよう。さっきの猫の式神、そしてこの男の中にも何か異様な物が見えるんだ。ほら早く!」

「あ、ああ」

剣は九条家嫡男、道隆と思しき人物をゆっくりと地面に寝かせた。

「すまない」

剣は天と地を見渡し印を結びながら走りだす。

途中、振り向きざまに神社正面の鳥居に向かって指先から鋭い矢のような光を放つ。

「俱利伽羅、姿を茂みに暗ませろ」

剣は俱利伽羅に声をかけ、煌徳とくすぶっている煙に紛れて玉垣の裏に身を隠した。

消防組の先発隊が一番上の階段を上り切り鳥居をくぐりぬけ境内に次々と足を踏み入れる。

彼らが目にした光景は焼けただれた木々に塵灰の山。一番大きな桜以外生存木は見当たらなかった。

かろうじて残っている本堂の大黒柱を見てそれぞれが口にする。

「ここは廃寺だろ?火の気なんかないはずだが…」

「確か住職もかなり前に亡くなっていたよな」

「そうそう三日ころりで亡くなったって聞いたぜ」

「跡継ぎもいなかったからずっと放置されたままだったよな」

「今日は空気もかなり乾燥しているし、野火か?」

口々に言うのは、現在この寺は廃寺で住んでいるものは居ないということ。

「おい、見ろ!あそこに人が倒れているぞ」

消防手の一人が倒れている道隆と思しき人物を見つける。

隊員達は急いで彼の元に駆けつけ、注意深く体全体を観察する。

しかし、焼けただれた顔を見る限り生存が絶望的に思えた。

「生きているのか?」

若い消防手が顔を覗き込む。

「うっ…」

腫れあがり、水疱もできている。凝視するには勇気がいるおぞましい顔だった。

「おい、大丈夫か?」

「は、はい。小頭(こがしら)、大丈夫です」

「お前はこの春入ったばかりだからな。色々経験を積んで慣れることだな」

「……はい」

気分は優れないが腹の底から振り絞って声を出す。

「それにしても彼は何故こんな所に居たんだ?肝試しにはまだ早いぞ」

躍動して階段を飛ばしながら上がって来る音がする。

間もなく組頭の御手洗を筆頭に精鋭の二次隊が到着した。

「組頭!こっちに負傷者1名あり」

御手洗は真っ先に道隆の首元に3指を置き脈を確認する。

「僅かだが脈はある、しかし火傷がひどいな。直ぐに町の病院まで運ぶぞ」

「はい!」

隊員が担架を取りに向かう。

「ん?何だ?これは火薬の匂い?」

御手洗が空気を吸い込み匂いを嗅ぐ。

やはり…この雨の中でもこの一帯に僅かだが火薬の匂いがする。一体何が起きたと言うんだ。それに野火ではこれほど勢いよく短時間で延焼しないと思うのだが。

御手洗は倒れている男性を顔から足までくまなく見る。

随分と身なりのいい人物だな。少し焼けているがこれは下り藤の家紋。まさか陸軍省武官である九条家の者か?何故ここにいるんだ?

「うっ…た、助け…」

いかん受傷した箇所が胸部に至っている、まだ熱を持っていて衣服が皮膚に貼りつきそうだ。

「失礼する」

炎が躊躇せず勢いよく上着を破く。

「これは…」

炎が驚くのも無理はない。

体には『オン・アビラウンケンソワカ』と、除霊の呪文が書かれてあったのだ。

炎は目を閉じ胸元で印を結び意の中で真言を読誦する。

(オン・シユリマリママリ・マリシユリ・ソワカ。オン・シユリマリママリ・マリシユリ・ソワカ)

書かれたの呪文は徐々に濃墨から薄墨となり終には消えた。

「彼の身に一体何が…」

真言を唱え呪文を消した男。消防隊組頭、御手洗炎の正体は現在に目覚めた烏枢沙摩明王である。

読誦を終え改めて男を細かく見ると特徴がある右手に気が付く。

炎は男の右手をそっと触る。

随分と人差し指と親指の間が厚いな。日頃から銃を扱っていたのか?それに体から僅かだが火薬の匂いもする。

次に閉じてる瞼を開き瞳孔を確認する。

「オ…ン………」

男が苦しそうに何かを発する。

「おい、しっかりしろ!」

気のせいか?一瞬睨まれたような…同時に瞳の奥から滲み出ている邪悪な気配を感じたのだが…。しかし、ここはひとまず人命優先だ。

担架が到着する。

「早く負傷者を町の病院へ」

組頭の指示で消防組が一糸乱れず機敏に行動する。

「1.2.3」

男性を担架に乗せ、颯爽と階段を降りていく。

「組頭、随分と大規模な火災だったようですね」

小頭が境内全体を隅から隅まで見回す。

剣と煌徳は息をひそめる。

「あぁそうだな。どうやら負傷者は彼一人のようだ。ここは廃寺だしもう誰もいないだろう」

隠れている二人に気が付いた御手洗は早く消防隊を撤収させたかった。

「それにしても彼はこんな廃寺に何しに来たんですかね」

「さぁ…逢い引き?とか…」

御手洗が返事に困って思わず口走る。

小頭が唖然とする。

「あぁ冗談だよ。冗談」

呆気に取られている小頭を見て御手洗が発言を撤回する。

気を取り戻して小頭が話を続ける。

「恐らく野火の同時発生でしょう。こんなに乾燥してますからね。組頭、見て下さいよこの唇」

小頭の下唇はひび割れて出血していたのだろう。すでに乾燥してかさぶたになっていた。

「私は知人からいただいた蜜ろうと薬草エキス入りのクリームを塗っている」

「愛人から?」

「違う。幼馴染の薬草好きの医者からだ。因みに男だ」

そこは即否定。

「失礼しました」

「幸いこの大雨で一帯は鎮圧したようだ。後は私が見回って鎮火の確認をする。皆先に詰所に戻っていいぞ。今日は乾燥しているからまたどこかで野火が発生するかもしれない」

「了解しました」

御手洗を除く消防組が足早に撤収する。

「さすがは剣殿、いや、不動明王。この記憶を消す雨に加え鳥居に術をかけ、くぐった者の記憶を塗り替えるとは。抜かりないな。おかげで早く撤収できました」

―――ピーヒョロロロ

鳴き声に気が付き御手洗が空を見上げると一羽の鳶が再び上空を旋回していた。

「鳶?制吒迦の式神か?」

御手洗が鳶に視線を向け右腕を高く上げる。

すると鳶は急降下し迷いなく右腕にとまる。

「頼みがある」

胸ポケットから小さな和帳を出し伝言を書き、その頁を破り鳶の右足に結う。

「これを(たかし)さんに伝えてくれ」

鳶目はすでに目標へと向いていた。

「よしっ!行け!」

鳶は大きく翼を広げ、勢いよく飛び立っていく。

「あっ、指が切れてる。さっき破った時か…クリームでも塗っておくか」


「はぁはぁはぁ」

降りしきる雨の中、桜は息を切らして山頂へと続く参道を駆けていた。中腹の奥宮にさしかかったところで、一旦立ち止まる。

右足が痛い。途中ぬかるんでいたから滑ってくじいたのかも…でも、今はそんなの気にしていられない。一刻も早く神社へ…千世さんの元へ行かないと。

ふと見ると奥宮の横には草が倒れて人が分けて入ったような跡があった。

確かこの奥宮の横には山頂へ向かう近道が続いているはず。何回か通ったことがあるから多分間違いない。

「千世さんどうかご無事で」

右足を庇いながら幅2尺程の狭い道を上りだす。

道の入口は膝の高さほどの草が生えている草むらだったが先に進むにつれ風景は変わっていく。

気が付くと辺りはミズナラやマツといった巨樹が隙間なく生い茂っていて、植物の葉も盛んに成長していた。

その幽幽たる雰囲気の中を一人で歩くのは怖くて多少の勇気が必要に思えた。太陽が照っている日中でも地上に届く光は僅かで薄暗く、茂みから獣に襲われそうな恐怖さえ感じた。

雨の勢いが鳥の鳴き声をかき消すほど凄まじくなってきた。

激しい雨音が桜の耳に入って来る。

桜は立ち止まり呼吸を整える。

「ふぅ…雨が強くなってきたのかしら。でも木がいっぱい生い茂ってから濡れないみたいね」

髪の毛を触って確かめるが、濡れている感じはなかった。

幾重にも重なった葉が天幕のようになって雨粒が桜に当たることは無かったのだ。

「少し急ごう」

しかし再び歩き出したところで急にめまいが襲う。意に反して足元がふらつく。咄嗟に膝をつき右肩を側の木に押し当て寄りかかる。

「うっ…」

吐き気が桜を襲う。

「気持ち悪い…」

左手で思わず口を押える。

「千世さん…」

桜はそれでも必死に立ち上がり足を引きずりながら前を向いてゆっくりと歩きだす。


 同時刻、麓の町の住民たちは雨に濡れるのも気にせず皆心配そうに山を見ていた。

「竜神様が雨を降らして下さったぞ」

「この勢いで一気に火を消してくれ」

「どうか桜の木たちをお守り下さい」

「やだ、入道雲よ雨が強くなりそう」

町一帯には更にぶ厚い雲がかかり雨の勢いが増してきた。

しかし、時間が経つと各々何事もなかったかのように町民たちは家路につき始める。

「あら、天気雨?早く洗濯物取り込まないと大変!」

「凄い雨だな。急いで雨戸を閉めないと」

「ほら、あんたたちびしょ濡れじゃないか!風邪ひくよ!早く家に入りなさい!」

子どもたちが泥まみれになって町中を駆け抜けていく。

不思議と誰も山火事を気にしていなかった。

その時、山頂の神社には人目に触れぬよう笠雲がかかっていた。

いつもの雨雲。誰もがそう思っていた。


 桜はふらつきながらも何とか境内のある山頂にたどり着いた。

通ってきた近道の出口は鳥居のある正面ではなく、本堂の裏手に植栽された紫陽花群の中にあった。

「あっ!」

紫陽花の枝に右足を引っ掛け,境内の一本桜を目の前にして転んでしまう。

紫陽花の葉についた雨の雫が一気に地面に落ちる。

「千世さん、どこ?千世さん…」

桜は落ちて跳ね上がるしずくを見ながらそのまま意識を失ってしまう。

雨が無情に桜の体に打ちつける。


 空は変わらず曇天、麓の雨脚は多少弱くなったもののまだ音を立てて止む気配がない。

烏丸家では桜の帰りを待ちわびていた光彦と春子が突然の雨に濡れていた。先程まで泣き崩れていた春子の涙は雨と区別がつかなくなっていた。

「積雨になりそうだ…。春子、桜は傘を持って出かけたのか?」

「いいえ、仏壇にお供えするお菓子を頼んだだけですから」

「そうか」

「あなた、もうびしょ濡れですよ。家に入りましょう」

「あ、あぁそうだな」

光彦は何げなく山の方角を見つめるが見慣れた風景を気に留めることなく家に入る。


「おい、しっかりしろ!大丈夫か?おい!」

「ん…」

誰?千世さん?

恐る恐る少しずつ目を開けると、消防組の組頭、御手洗が桜に寄り添っていた。

違う…消防組の人…。

「あ、あの…私…痛っ」

慌てて起き上がろうとするが、来る途中痛めた右足に激痛が走る。

桜は思わず右足首を押さえる。

「危ないから待ってろと言ったはずだが」

「あ、あなたは、消防組の…」

「組頭の御手洗と言います。足動かさないで」

「……」

桜はほんの数秒間だが瞬きをせず睨まれた気がした。直感的に怒られると思って口を噤む。

「さっきまでここは火の海だったんだぞ。あなたの身に何かあったらどうするんですか」

そう声を上げながらもポケットからハンカチを出し、添え木になりそうな木を拾い手際よく足首を固定する。

「応急処置だ」

「あ、ありがとうございます」

「で、お嬢さん。何でここに来たんだ。私は待っていろと言ったはずだが」

間髪入れず御手洗が問う。

「あ、あの…」

「別に怒っているわけじゃない。聞きたいだけだ」

御手洗は桜がここまでして神社に来るそれなりの理由が知りたかった。

「あの…私今日ここで彼と会う約束をしていて、火事の様子を見ると心配で心配で居ても立っても居られなくて、気が付いたらここに向かってました…」

「こんな荒れた廃寺で待ち合わせですか?」

御手洗が疑念を抱く。

彼?もしかして、さっき運ばれた男のことか?この寺で待ち合わせとは、なんか訳ありなのだろうか。やっぱり逢引き?いやいやいや…。

「廃寺?だってここには素敵な一本桜や紫陽花、季節の植物がいっぱいあるじゃないですか。それに私は今日彼と桜の絵に色を塗る約束したんです。そしていつものように一緒にお茶と最中をいただいて…」

桜は目の前の一本桜を指さす。

御手洗は桜の話を怪訝に思った。

絵に色を塗る約束?参拝ではなくお茶?ここには王生家の者しか住んでないはずだが、彼とはさっきの九条家の者ではないのか?

「あの…彼は…」

おかしい、不動明王がもたらした記憶を塗り替える雨にも当たり、境内の中に足を踏み入れているのに何故彼女には火災前の記憶があるんだ?ここは上手く話を取り繕うか。

「お嬢さん、その待ち人と思しき男性は大やけどを負って先程病院に運ばれました」

桜は動揺を隠せず一瞬にして顔面蒼白になる。

「衣服に下り藤が刺繍してあったので恐らく九条家の方かと。お心当たりはありますか?」

「えっ!?」

運ばれたのは千世さんじゃない。九条家って、もしかして道隆さん?でも、何故ここに?まさか、この火災と何か関係が!?…じゃあ千世さんは?

「頭が真っ白になるのも無理はない。見てごらんなさい。本堂と山の大部分が燃えてしまいました」

「あの…運ばれたのは一人だけですか?」

悲しみと絶望に苛まれ桜の眼中には光景など入ってこない。

「あぁそうだが」

桜はふらつきながら立ち上がり、焼け落ちた本堂を目の当たりにすると、目にじわじわと涙が溢れてきた。

一歩一歩ゆっくりと一本桜に歩み寄り右手をそっと伸ばし、焼け残った枝を一本手にとる。

まだ新芽がある。大丈夫。千世さんはきっと生きてる。信じよう。

桜はその枝を両手で強く握り締め神仏に祈願する。

「お嬢さん、彼が運ばれた病院までお連れしますか?」

「いえ、大丈夫です。お気遣いありがとうございます。一人で家に帰ります」

「―――そうですか。足元お気を付けて」

御手洗は心配そうに桜を見送る。

「ありがとうございます」

桜は神社正面の鳥居へと向かってゆっくりと歩き出す。

「気丈なお嬢さんだ」

御手洗は桜を見送った後、すぐさま振り返り石造りの玉垣の裏に隠れている剣と煌徳の方へ急ぎ足で赴く。

万が一聞かれぬよう慎重に小声で話しかける。

「剣殿、そこにいらっしゃいますか?今ここにいた彼女ですが記憶が塗り替わっていません。以前の寺の様子も覚えているようです。恐らく千世さんのことも」

煌徳が聞き耳を立て微かな声を聞き取る。

「父さん、記憶が塗り替わっていない人物がいるそうです」

「何だって?」

煌徳が気づかれ無いよう玉垣の隙間からそっと顔を覗かせ桜の後ろ姿を目で追う。

背後から風が吹き一瞬乱れた長い髪の間からチラッと顔が見えた。

「あれは確か…よく寺に来ていた女性です。縁側で千世とお茶しているのを目撃したことがあります」

剣も玉垣の隙間から桜を見る。

「彼女か…。話したことはないが私も何度か宝の庭で絵を描いている所を見たことがある」

剣も桜を見るのは初めてではなかった。

「何故彼女だけが…」

桜は右足をかばいながら、ただただ一直線に鳥居を目指して歩く。

どういうこと?運ばれたのは恐らく道隆さん。じゃあ千世さんは一体どこにいるの?無事に逃げたの?

「千世さんどこ?千世さん…会いたい…会いたい…会いたい…」

自分が今どこを歩いているのかわからなくなるほどいつの間にか涙が溢れ周りの風景も滲んで見えていた。

「うっ」

また吐き気が…こんな時に…。

目には涙が一杯溜まり、自分がどこを歩いているのかわからなくなった。

わからないまま鳥居の一歩手前で左足を前に踏み出したが、そこから下は境内へと続く階段だった。

気が付いた時には階段を踏み外し体の重心が前方へ傾いていた。

「えっ!?」

桜は目を瞑り無意識に両手でお腹を庇うように押さえ覚悟した。

落ちる!!

その時、誰かが背後からすっと桜の体をすくい上げ、間一髪落ちることなく踏みとどまることができた。

桜は混乱して急に呼吸が荒くなる。

どうしよう、上手く空気が吸えない。誰か助けて!!

「もう大丈夫。落ち着いて」

少しの期待と少しの不安を抱いて振り向く。

「せ、千世さん?」

助けてくれたのは千世ではなく煌徳だった。

「違う…」

煌徳は困惑しつつも桜に声をかけ続ける。

「ゆっくり息を吸って、はい、ゆっくり吐いて、またゆっくり吸って、はい、ゆっくり吐いて」

桜は煌徳の調子に合わせて呼吸を繰り返す。

「そう、その調子。ほら、今度は僕の目を見て」

別の世界へと吸い込まれそうな漆黒の目。千世さんとは全く違う。あぁ…私どうなるの?何だか気が遠くなってき…た……。

桜は手にしっかりと枝を握りしめたまま煌徳の腕の中で気を失う。

「ちょっと!千世って?どういうこと??」

煌徳は桜が自分を千世と呼んだことが理解できず思わず眉間を寄せる。

「何とか間に合ったな」

隠れていた剣も姿を現し炎に歩み寄る。

「さすが大威徳明王。素晴らしい働きですね」

炎は同じ目覚めた者として煌徳の真の姿を知っていた。

剣がすぐさま尋ねる。

「炎、さっきの男性はどうなった?」

「宝さんのいる町の病院に運ばせました。あのお嬢さんにも一応その事は伝えてあります。誰かはわかりませんが大切な人と会う約束をしていたみたいなので」

「宝の?」

「一番信用できますしね。制吒迦の式には文を結って先に伝えてありますのでスムーズに事が運ぶかと」

「さすがだな」

炎は有能だ。的確かつ迅速な判断ができる。

「運ばれた男性ですが右手に銃を扱う者の特徴が見られました。恐らく普段からそのような状況に置かれている方かと」

推察力も群を抜いている。

「恐らく彼は九条道隆殿。若くして陸軍省少佐にまで成り上がった人物だ」

「そのような人物が何故ここに?」

「わからない。しかし嫌な予感がする」

剣は答えを濁す。

「それより今は町の方が心配だ…記憶を消す雨が隈なく行き届いてくれればいいのだが…」

「童子に任せたのですか?」

「四人の童子には東西南北、四方からこの町全体に隈なく雨を降らすよう伝えてある」

「そうですか」

「皆、何事もなかったように穏やかに暮らしてくれればいいのだが…」

「剣殿はこの山火事を史実に残したくないのですか?」

「………」

返事に困っているのか、剣は無言のままだ。

炎は自分なりに納得のいくような答えを黙々と考える。

とても自然災害、いや、人的災害とは説明がつかない地獄の業火だったからか?人々の恐怖心から後世に言い伝えられるのを避けたいのか?史実に残したくない理由は何だ?

「恐怖心は人々の心の中に必ず残る。そう、不安を抱かせてはいけない。我々は救う立場なのだから」

剣が心中を察する的確な返事をする。

人々……そうだ忘れてはならない。我々は真の姿を見せることなく目を見張り安寧秩序を常に保たなければならない。時の流れを変えてはならないのだ。

「申し訳ありません。自分の立場を忘れかけていました」

炎が理解を示す。

「炎、人々の不安はこの雨で消えたと思うか?」

「かなり激しい雨だったので記憶の方も恐らく大丈夫かと。見渡す限りこの城下一帯に降った痕跡がここからも見られます。火災も史実に残ることはないと思います」

炎は麓の町を見下ろしながら冷静に受け答える。

「ならば、そろそろ撤収だな」

剣が右腕を空にかざすと無数の光柱が出現する。

姿は見えぬが4人の童子はそれを合図に雲と共にそれぞれ東西南北の彼方へと去っていく。

間もなく青空がのぞいてきた。

「それにしても千世いや、降三世明王には手を焼くよ。これだけ衆生の記憶を塗り替えのは容易じゃないんだから。雨だって降り過ぎると災害を招いてしまう。それこそ歴史が変わってしまう。その絶妙な加減が難しいんだよな」

「剣殿も色々と大変ですね」

「だろ?しかもあいつ、逃げるようにさっさと現在から去りやがった。あの不如帰(ほととぎす)を見なかったか?ちゃんと向き合って話せよな」

剣が上体を反らしながら愚痴る。

「ちょっと待ってください。逃げるようにって、まさか降三世明王が火を放ったのですか?」

安堵したのも束の間炎が取り乱す。

「見ろこの修復不可能な本殿を。龍の虹梁がお気に入りだったのに…」

剣が腕を組み再建を半ば諦めた様子で鎮火した境内をぐるりと見回す。

「いや、剣殿そうじゃなくて、放火殺人だとしたら重罪ですよ!」

「暫くはどこか宿にお世話になるか」

「剣殿!聞いてますか!」

はぐらかしているのかどこか抜けているのか剣の真意がわからない。

「父さん、大変!」

煌徳が突然大きな声で叫ぶ。

「どうした?」

「彼女…お腹の中に赤ちゃんがいる!」

「何だって?」

剣と炎が顔を見合わせ急いで桜の元へ走る。

剣は途中に落ちていた大きなバックを拾い上げる。

片方の持ち手が綻びかけて、中に入っている画材道具と小さな竹籠がチラッと見えた。

そのバックには「烏丸桜」と名前が記されていた。

「からすまるさくら。公家のお嬢さんだったのか」

桜は目を覚ます気配がない。

頬を伝って流れた大粒の涙が煌徳の手に落ちる。

「身重の体で…」

煌徳は桜を支えながら涙を手で拭う。

「本当にお腹に赤ちゃんがいるのか?」

駆け付けた剣が間近で桜を見ても外見ではまだお腹が膨れてるようには見えなかった。

「お腹に触れたときに、1つの生命の息吹を感じた。心音が伝わってきたんだ」

「間違いないか?」

「僕の触感を信じて欲しいな」

煌徳が仏頂面になる。

「信じましょう、剣殿」

「あ、あぁ」

普段は心情を露わにしない剣が動揺しているように見えた。

「彼女も早く病院へ、手遅れになっては大変です。宝さんの病院に連れて行きましょう」

炎が即決断する。

剣は炎の言葉をふと思い出す。

「なぁ、炎。彼女に九条殿が病院に運ばれた事を伝えた時、見舞いに行くと言わなかったのか?」

「はい、一人で家に帰れると…正直、彼を心配している様子ではありませんでした」

「普通大切な人が病院に運ばれたら心配で駆けつけるよな…ましてやこどもの父親なら」

「確かに…」

煌徳が呆然とした表情で口を開く。

「父さん、実は受け止めた時、彼女 僕の事『千世』って呼んだんだ」

「まさか…」

「父さん?」

剣は驚きのあまり口が半開きのまま桜を見つめる。

嫌な予感とはこの事か?千世は確かに人界に存在する人間。しかし意識は別の世界に存在する降三世明王。

もしお腹の子が彼女との間に授かったこどもだったらどうなる?未曾有の出来事だぞ。いやいや、先ずは私が冷静にならねば。

「炎、彼女を病院まで頼む。もしかしたらお腹の子は千世の子かもしれない」

見計らったように倶利伽羅が茂みから静かに出てくる。

「ちょっと待って下さい。そんなことあり得ません。人界の者との間に子どもを授かるなんて」

普段冷静な炎も驚きを隠せず取り乱す。

「落ち着け。降三世明王は我々とは違う。過去、現在、未来を常に行き来するためにその時代で意識を支配できる人間の体を借りて存在している。千世という宿主の青年がいつからかは分からないがそのお嬢さんとお互い愛し合っていたのかもしれない。つまり合意の上で…」

「彼女の大切な人と言うのは受傷した彼ではなく千世さんだったということですか?」

炎が剣の解釈を遮る。

「そういう事になるな」

しかし、降三世明王が千世の体を借り人界で過ごし始めたのは私が引き取る前からだ。つまり彼女と出会う前。じゃあ一体いつから恋愛関係に?

剣は桜を自然と父親のような優しい眼差しで見守る。

「奇跡を信じようじゃないか」

「千世さんの方が父親だと願います」

炎が肩を落とし、その後黙り込んでしまう。

「父さん、千世はその彼…九条殿と面識があったのでしょうか?二人は一体ここで何を?」

「二人が何をしていたかはわからないが面識はあったと思う。彼は心願成就をしによく神社に参詣に来てたし。私から一度だけ声をかけたことがもある」

「その時何を話したの?」

「一方的だが彼の夢というか願いを聞いたよ」

「願い?」

「愛する人と結婚し、子供を授かり、幸せな家庭を築く。そしていつまでも世の中が平和でありますように、と」

「多少身分はいいし恵まれているかもしれない。——けど、何で降三世明王は普通に幸せを願う彼に火を放ったんですか?そしてさっさと現在から逃亡。自分が何をやったかわかってるんだろうか」

煌徳が息継ぎもせず吐露する。怒り心頭なのがわかる。

「聞こえてたのか」

「勿論。僕、耳識(にしき)優れているんで。炎が放火殺人って言ってたのもちゃんと聞こえてました」

「そう結論を急ぐな。千世と降三世明王は彼を救いたかったのかもしれない。殺めるような行為はしてないよ」

剣の見開いた目は冷静になるよう訴えていた。

「千世と降三世明王が?全然意味わかんないんだけど」

煌徳は言葉少なに引き下がる。

目端が利く炎は察していた。

「剣殿は気づいていたのですか?」

「あぁ。抱えた時に大日如来のお守りを首にかけていた。彼の身に余程の事が起きていたんだろう。本当は何を願っていたのだろうか…」

「私が見た時お守りはありませんでしたが…」

「誰かが滅したんだろう。私の目の前で燃え尽きた」

「一体誰が?」

「わからない」

剣は当惑していた。

今思えばその普通の願いが叶えられるような精神状態ではなかったのだろう。私としたことが何故気づくことができなかったんだ…。

「そういえば彼の体には呪文が書かれていました。『オン・アビラウンケンソワカ』と…」

「除霊?」

「詳しくはわかりません。しかし、僅かですが彼の体から邪悪な気配と言いますか怨念のようなものを感じました」

剣は冷静にひとつひとつ明らかになる事実を整理し、この史実に残ってもおかしくない大火災の原因に近づこうとしていた。

「怨念か…なるほど。千世が退散させたのか」

「千世さんが?」

炎が聞いた剣の見解は寝耳に水だった。

「過去、従わず反逆した者がいた。その者たちは降三世明王に圧倒され降伏する。そして現在、輪廻し世界を治めようと反旗を翻した者が目の前にいることに降三世明王が気が付いたとしたら……」

「まさか大自在天が九条殿の中に!?」

「天敵を目の前にして降三世明王が引き下がると思うか?」

「いいえ。むしろねじ伏せにいくかと…」

「父さん、父さん」

煌徳が呼んでいる。

「詳しい話は後だ」

降三世明王が現れる所に災いあり。二人がこの場で争っていたのだとしたら恐らく相手は三界の王者であると自負した大自在天。彼の中に潜んでいたのだろうか…煌徳も異様なものが見えると言っていた。

だから九条は大日如来のお守りを身に着け自らの体を守ろうとしたのか?体に呪文まで書くなんて信じられない。

「父さん、父さん!早く彼女を病院へ!」

煌徳がしびれを切らす。

「あぁ、そうだな。炎すまないが彼女をよろしく頼む」

「はい、お任せください」

「すまんな」

「いえ、職務ですから」

「あと、帰りに交番所に寄って彼女の住まいを調べてもらってくれ。名前は「烏丸桜」バックに書いてあった。公家のお嬢さんだから大耶(だいや)に聞けばすぐわかると思う」

「分かりました」

身長約6尺、恰幅の良い炎が軽々と桜を背負い振り落とされぬよう紐で固定して俱利伽羅に騎乗する。

「倶利伽羅、静かに頼むぞ」

倶利伽羅は剣をじっと見つめる。心中の意を理解したようだ。

ゆっくりと倶利伽羅が歩き出し、紫陽花群の裏道から街の病院へと向かった。

「ナウマク・サマンダバザラダン・カン、ナウマク・サマンダバザラダン・カン」

剣は二人の姿が見えなくなっても真言を唱え続ける。

「新たな命が無事生まれてくることを願う」

煌徳も追随する。

「オン・シユチリ・キャラロハ・ウンケン・ソワカ、オン・シユチリ・キャラロハ・ウンケン・ソワカ」

「あっ!」

剣が突然何かを思い出したようだ。

「買ってきた上生菓子…」

「途中で落としたんじゃないの?俱利伽羅のことだからきっと爆走してきたでしょ」

剣は一瞬肩を落とすが、すぐさま開き直り一本桜に目を向ける。

「初桜…めぐり逢いか…」


 倶利伽羅は迷うことなく来た道を下りていた。

中腹に差し掛かった時だった。

「神様…お願い…」

炎が思わず後ろを振り向く。

桜は静かに眠っているように見えた。

「神様じゃないんだが…冷や汗が出るな」


―――火災から153日後

桜は入院していた。

病室の窓辺にはあの時桜が手にした一本の桜の枝が花瓶に生けられていた。

桜はいつまでも花のない枝を見ているだけで表情には全く生気を感じられなかった。

今日は煌徳が心配して様子を見に来ていた。

桜のお腹は病室の外からでも僅かに動いているのが確認できるくらい大きくなっていた。

「彼女、胎動の感覚にも気づいていないのか?」

桜はお腹に手を振れる様子もない。

「赤ちゃん元気に動いているだろ?」

煌徳の後ろからそっと近づく白衣を着た男性。

「兄さん」

煌徳より三寸ほど背が高く、肩まで伸びた髪の毛を結っている彼は、この病院の医師で

名は王生宝(いくるみたかし)

煌徳の兄で現在に現れた軍荼利明王でもある。

「今回は煌徳がいて良かったよ。過換気は胎児に影響はないが、母体の方が痺れて転倒したら大変だったかもしれないしな」

「ギリ間に合ってよかったよ。母さんが時々発作起こしてたから対処法は兄さんに教えてもらってたし。冷静にできた」

煌徳と宝の母、つまり剣の妻は数年前に病で他界していた。

「兄を称えよ」

「うーん…」

宝が煌徳を小突く。

「痛っ」

息抜きの兄弟の戯れ。

「そうそう、お前に伝えたいことがあったんだ」

「僕に?」

「意識不明だった九条家の御曹司だが、昨日息を引き取った。残念ながら助けられなった」

宝が沈んだ表情を見せる。

「兄さんのせいじゃないよ、寿命は決まっていたんだから」

煌徳が淡泊な返事をする。

「そうだな」

医師の使命として出来る限りは尽くした。しかし彼はもっと長生きできたはずだ。奴が運命を悪戯しなければ…。

いかんいかん、ここは人界だ。上手くやっていくには医師としての所見を述べなければ。

「熱風を吸い込んだらしく気道熱傷がひどくてな。顔面に火の玉が直撃したって感じ」

宝が煌徳に向かってボールを投げるようなジェスチャーを交えて説明する。

「要するにまともに火炎を浴びた」

煌徳が出した率直な答えだ。

「あぁ」

直球で返してくる煌徳に返す言葉も短く益々気持ちが沈む。

「兄さん大丈夫?顔に半端なく疲労感が出てるよ」

宝が思いっきり両頬を叩いて目を覚ます。

「疲労困憊に決まってるだろうが!亡くなったのは陸軍省のお偉いさんだぞ。運ばれてから昨日まで毎日役人や親族が病院に乗り込んで来るわで大変だったんだからな」

「それはそれはお疲れ様でした」

「あっさりそれで終わり?ちょっと兄に冷たくない?仕事終わったら飲みに行こうとかさ」

「僕、お酒飲めません」

サバサバしてる煌徳に感服。

「しーっ。病院ではお静かに」

二人の背後から大柄な男がそっと声をかける。

炎も心配してお見舞いに来たらしい。

「ほら怒られた」

煌徳がムスッとした顔で宝を睨む。

察しがいい炎は気づいていた。お見舞いに来るたび桜の花以外、花が生けられていないことに。

要するに家族はお見舞いに来ていないということだ。

炎は和ませようと花瓶の桜に話題を持って行く。

「あの桜の枝、まだ元気なんですね」

普通枝物の寿命は長くて一ヶ月。既に五ケ月は経過しているのに枯れることなく生き生きとしていた。

「不思議だよ。葉が枯れないんだ。まるで新しい台木を待っているようだよ」

植物に詳しい宝も疑問に思っていた。

「きっと未来を、生まれてくる新しい命を待っているんですよ」

炎がすました顔で答える。

「何かっこつけてるんだよ。千世の呪いかもしれんぞ。未来永劫枯れる事のない不老不死の術でもかけたんじゃないか?」

「兄さん怖い…」

「冗談、冗談だよ」

「兄さん、半分マジだったでしょ」

「わかる?」

「あの…すいません。宝さんに一つ聞きたいことがあるんですが」

炎が兄弟の仲睦まじい会話に割り込む。

「おぉ、すまん」

「今更なんですが九条の所持品に銃はありませんでしたか?」

「いいや、なかったよ」

「そうですか」

私服だったし携帯していなかったのか。あの手の厚みと染みついた匂い。やはり考えすぎか…。

「煌徳には言ったが、その九条は昨日亡くなったよ。お前からのメモに書いてあった眼球の異常や呪文も息を引き取るまで特に見られなかった」

「そうですか」

炎は驚きもしなかった。なぜなら今日この病院には躊躇なく足を踏み入れる事ができたからだ。

悪しきものが正しいものを寄せ付けようとしない独特の空気が今日は清浄だからだ。

「あっまた動いた」

煌徳が病室の外からでも気が付いているのに桜は微動だにせず窓辺の花瓶を見ているだけだった。

「返事くらいしてあげればいいのに」

哀しい目で桜を見る。

「ところで千世さんとは未だに音信不通なんですか?この子の父親なんですよね?二人とも何か聞いてませんか?」

炎はずっと気になっていた。何故、千世、いや降三世明王は彼女をひとり置いて去ったのか。そしてさっき宝が言った術をかけたとはどういう意味なのか。

「あぁ千世じゃなくて、降三世明王ならあの火災の日からまだ消息不明だよ」

その後の捜索はしていない様な煌徳の口調。

「まったく、彼女と子ども残して、どういう神経してるんだか」

宝もぶっきらぼうな口調で半ばあきれ果ててる様子。

「現在に降三世明王、いや千世さんはいないのですか?」

「父さんがあの日飛び去る不如帰(ほととぎす)を見たって言ってただろ?そのお告げは既に違う時世に行ってしまったという事だと解釈できる。つまり現在にはいません」

「ホトトギスは二つの世界を往き来できる霊長だからな。で、後療養(アフターケア)は俺に押し付けかよ!」

宝が腕を組み足で思いっきり床を蹴る。

「兄さん、千世はお腹の子のこと知らなかったんだと思うよ。あの時僕でやっと心音を感じた位だから」

宝を宥めようと煌徳が諭す。

「さぁどうだか」

「千世の話になると機嫌悪いみたいだけど、何かあったの?」

あからさまに千世、いや降三世明王に対して態度が違う。

「大人の反抗期みたいですね」

炎も一言くぎを刺す。

「あのねぇ俺の庭の植物は絵を描くからとか言って摘み取られるし、せっかく子葉が出た植物はあの火災で燃えてしまうし、中には貴重な薬草もあったんだぞ!」

「兄さん声大きいよ。そんなに熱くならなくても…」

「うっせー」

「しつこいようですが。病院ではお静かに。宝さんはここの医者でしょ」

「はいはい」

二度返事。

「子どもか…」

確かに炎からしたら自分は三人の中で一番年上だ。

ひと段落ついた三人は病室の外から桜と新しい命を優しく見守った。

窓から日差しが入って来た。

カーテンを閉めようと入室する宝を炎が呼び止める。

「宝さん、その…千世さんの事なんですが」

「千世の?」

「退散させたのは千世さんだと剣殿から聞きました。さっきも術をかけたって…一体彼は何者だったんですか?」

王生家が特別とは言え私の知らないことが多すぎる。不満とまではいかないが剣殿があまりにも周りの空気を聞き流しすぎて未来が不安な時も正直ある。しかも今どこの宿に泊まっているんだ?

「炎は知らなかったのか?降三世明王の宿主の千世は陰陽師だったんだよ。しかも類まれなる呪術の持ち主で人界では相当嫌遠されてた人物だそうだ」

「しかし、陰陽道は既に禁止されてますよね」

「生業にはできないが身を潜めて存在することはできる」

「今もいるんですか?」

「多分」

その時、警鐘が鳴り響く。

「出動しないと」

炎は挨拶も忘れ急いでこの場を離れる。

「お疲れ様」

「頑張ってー」

二人は炎を見送り病室に入る。

「今日は秋晴れか…少し眩しいから半分カーテン閉めるよ」

宝は桜から返事がないのを承知の上で話しかける。

カーテンを静かに閉め、窓際の桜に目を近づけてじっと見る。

「赤ちゃんが産まれたら接ぎ木してやるか。記念樹にしよう」

煌徳は桜のお腹を間近でじっと見つめる。

「女の子かも」

「お前の第六感?」

「まぁね」

「お前、叔父さんになるんだ」

「兄さんもだよ」


復讐、恋愛、家族の絆が絡み合った運命の時代が再び動き出す。

神代の時代を経て、過去、現在、新たな命とともに未来へと紡がれる運命の糸

さて、この子に何と名づけよう。


―――143年後の現在

北海道S市H地区

―――キョッキョキョキョキョ

朝日が差し込む窓の外から鳥のさえずりが聞こえてくる。

ダイニングテーブルにはレンジで温めるだけですぐ食べれようにラップをかけた一人分の朝食が置いてある。

「おはよう↓」

寝ぐせのついた髪、素足でスリッパ、スウェット姿の寝ぼけ顔の男が

大きな欠伸をしながらダイニングに入って来る。

「あっ、朝飯出来てる」

白飯、焼鮭、切り干し大根の煮物、おひたし。

慌ただしく階段を駆け降りてくる音がする。

三世(さんぜ)、俺はもう出るから味噌汁温めて食べてくれ」

ジャケットに袖を通しながらダイニングに向かって早口で話す男性。

「はいはい」

三世は気だるい返事をし冷蔵庫から水のペットボトルを取り出しコップに注ぐ。

「食べたら食器くらい洗っとけよ」

「はいはい、わかってますって。大耶(だいや)、早くしないと遅れるぞ」

「じゃあ行って来る」

「おう」

玄関を出るのを確認した後、思わず呟く。

「朝から小うるさいなぁ……。随分急いでるみたいだけど今何時だ?」

片手で水を飲みながらリモコンでテレビの電源を入れる。

『時刻は7:30になりました。再び北海道のニュースをお伝えします』

「まだ朝のニュースやってんじゃん」

『昨日夕方、小学校のグランドにヒグマが出没しました。目撃されたのは3頭で三日連続で────』

「母子グマか…えっと熊追いはいつだっけ?」

ポケットからスマホを出しスケジュールを確認する。

「5月1日か」

『出没地域にお住まいの方は犬の散歩も控えて下さい。吠えたりするとヒグマを興奮させてしまいます』

残ったコップの水を一気に飲む。

「ふぅ…やっぱ銘水はうまい」

『続いて今日の運勢』

「あーまだ目が覚めねぇ…先に顔洗ってこよ」

三世が洗面所に行くのと入れ違いに白い北海道犬がダイニングに入って来る。

「クリスさんおはようございます」

クリスさんは犬らしからぬ挨拶をする。

三世の目を見て、頭を軽く下げる。

「クリスさんは吠えないから大丈夫だよなぁ。あっ、来月の1日に山に入るからよろしくな」

まるで三世は人間と話しているようだ。

そしてクリスさんは無言で壁に掛けてあるカレンダーをじっと見る。

確認したのか給水器から朝一の水を飲む。

三世は大きな欠伸をしながら、ふと思う。

最近変な夢を見るようになってから完全に寝不足だ。

そして、運命の日5月1日が訪れる。


 この度は読んでいただきありがとうございました。

初投稿です。よろしくお願いいたします。

投稿するのは若き日のイラスト以来です。当時はハガキサイズの紙に描いて新聞社に出していました。

スクリーントーン貼りまくってましたね…。途中からカラーOKになったので、私はカラーインクとパステルメインで着色していました。今でもパステルは子どもが部活で使っています。ありがたいです。

そんな訳でイラスト関係にも興味があったのですが諸々の事情で長きにわたり会社勤めしています。

アイデアは家事や仕事の最中にぽっと浮かぶのでそこら辺の紙に殴り書き。

後々解読不能なものもあります。

隙間時間にそれらのアイデアをまとめるのですが、先ずは紙を至る所から寄せ集めることから始まります。

会社の鞄の中、ダイニングテーブルの上、キッチンと家のありとあらゆる所に点在しています。

時には買い物メモと間違えてお店に持って行ったり…(笑)。

この小説の原案は2010年、14年前にできていたようです。と言うのも私の記憶が無くて…なんとUSBにデーターが入っていたんです。最終更新日が2010年になっていたので判明しました。

しかしながら完結していませんでした。子供が妊娠したころなのでそれどころではなかったのでは…。

内容はかなり違いますが、現在に現れた降三世明王と女性との転生恋愛小説的な感じのものでした。

登場人物や舞台となっている場所(実家周辺なんですけど)は余り変わっていませんでした。

物語の始まりは

女性が趣味で写真を撮影するため訪れていた山の中でたまたま降三世明王が写真に写りこんでしまうという感じでした。

その写真を取り戻そうと降三世明王が女性の前に現れ、そこから恋愛が始まるみたいな…。

降三世明王の宿主である千世の設定ですが、年齢は28歳くらいで翡翠色の瞳をしています。

瞳の色には訳があるのですが、序章では触れていません。まだまだ先になると思いますが後々の物語に少しだけ関係してきます。

序章で宝がカミングアウトしましたが彼は陰陽師です。ルーツはこの時代の前に降三世明王たち五大明王が現れた時平安時代までさかのぼります。

千世に関するエピソードは追々書ければと思っています。時間と体力があれば…。

次章は序章から143年後の現在に時代を移します。

降三世明王を含む五大明王が再び現れます。

勿論この物語に欠かせない彼女も登場します。

本業の方がかなり忙しく(ブラックか!?)中々進まないと思いますが、引き続き読んで頂けたらと思います。

お付き合いいただきありがとうございました。





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