メニューは決まっている
「ほうじ茶って、妊婦さんでも飲めるのよね」
経理の林田さんの目は、きらっと光っているように見える。私は声のトーンが変わらないよう気をつけながら「へえ、そうなんですね」と言った。すると彼女はつまらなそうに口をへの字に曲げて、去っていった。
ああ、妊娠しているかどうかの探りだったんだろうな、と確信する。
ほうじ茶は好きだから飲んでいるだけだ。緑茶は苦くて酸っぱくて、あまり好きじゃないし、甘い飲み物は太るから嫌。麦茶は家で水出しのものを毎日飲んでいるから飽きている。たったそれだけの理由である。
この会社の9割は女性だ。それも40代~50代の人だけしかおらず、20代は私一人なので、なんとなく”誰にもさからえない感”があった。
「林田さんってすぐに詮索してくるよねえ」
お昼は隣の席の松田さんと食べに行くのが日課だ。新宿の安くておいしくて、おしゃれなところを1日交代でそれぞれが探し、出かける。
彼女も数少ない既婚者組だ。子どもはもう高校生だという。
この会社では、独身組と既婚者組とでなんとなくグループに分かれている。さらに、それぞれなんとなく派閥もある。私は松田さんと、産休中の平林さんと砂川さんを合わせた4人で行動することが多い。
「おせっかいババアって感じよねえ」と、松田さんが吐き捨てるように、でも笑いながら言う。ぎょっとしたけれど、ややあって「そうですね」と相づちをうった。
お店を開拓するのは楽しい。腹に溜まった思いをすぐに吐き出せる環境もありがたい。でも、彼女たちと相容れないなと思うことがたまにある。
林田さんのことはきらいだけれど、そんなふうに言うのはよくない、と感じるからだ。
でも、そもそも愚痴を吐き出してしまう自分が悪いのだろう。そして、ひどいときには、合わせるために同じような言葉を使ってしまうことがあり、帰ってからとても落ち込む。
一ついやなことを吐き出すたびに、それが黒い雫となって胸に落ちてきて、少しずつ、じわじわと、蝕まれていく。そういう感覚が、この会社に入ってからよくある。
「最近、怒りっぽくなった」と夫にも言われた。自覚もある。たぶん、自分がつねにそういう不安定な状態だから、普段なら気に留めないことにいらいらするのだろうなと感じる。でも、それがわかっても、ではどうしたらいいのか。それがわからないでいる。ーーそして、1日重ねるごとに、自分を嫌いになっていく。
ひと駅前で降りたのは、なんとなくだった。
ビルに照り返す橙色を見て、日が長くなったと感じる。帰り道はこの間までまっ暗だったのに。スマホで地図を見ながら、自宅へ向かう。
最寄り駅には何もないのだけれど、ひと駅前で降りると、思いの外いろいろな店があった。隠れ家のようなレストラン。映画に出てきそうなかわいいケーキ屋さん。信じられない値段が書かれているスーパー。広々とした100円ショップ!
気がつくと、かわいいお弁当箱と、たっぷりの野菜が手の中にあった。
そのとき、薄々気づいていたことを、改めて反芻してしまった。私が松田さんとお昼を食べるのは、楽しいからではない。一人になりたくないし、抜けて悪口を言われるのが怖いからだ、と。
レジに並びながら、頭のなかにこんな文字を思い浮かべてみた。ーー明日から、お弁当生活をはじめてみよう。そうしなければきちんと決意できないと思った。
メニューは決まっている。このお弁当箱を手に取ったとき、ぱっと浮かんだおかずたち。牛肉と赤パプリカの炒めもの。しいたけ入りのオムレツ。いんげんの胡麻和え。朝はいつもより早く起きなければいけないかもしれない。洗い物が増えるのも面倒だ。
そして何より、どんなあだ名をつけられるのだろう。ーー裏切り者だと思われて「おせっかいババア」どころではない通り名ができるかもしれない。
――でも、それでも。私は、これ以上自分のことをきらいになりたくないのだ。




