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√365  作者: 三條 凛花
本編
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ハンバーグ・コンプレックス

 部屋はまだ暗い。枕元に置いたはずの携帯電話を手繰り寄せる。4時15分。夜明けまでまだ2時間ほどあるだろうか。のそり、と布団が動く。隣で寝息を立てる彼の、起きているときとは違う幼気な顔に目をやる。――この人と出会ってから、もう20年以上経つのか。出会ったのは小学校の入学式で、少しませていた私の、はつ恋だった。


 私たちは今年30歳になる。この年齢での20年というのは、とても、とても長い時間だ。ただし、厳密に言うと、つき合いはじめてからだと15年と少しだ。



 私はクローゼットの前で腕を組み、着る服を見つくろった。洋服を取り出しては鏡に向かい、胸に当てて確認するのを何度もくり返した。今日、にふさわしいのは何色だろう? 迷った結果、黒のVネックのニットと、ベージュのペンシルスカートを選んだ。シンプルなファッションだ。


 昨晩の「まだ結婚しないの?」という母の電話が脳裏によみがえってきた。

 お互いの家を行き来するのが面倒になって、同棲をはじめたのはもうずいぶん前だ。でも、気がつくと3度目の契約更新が迫っていた。

 何度か二人でふるさとの同級生の結婚式にも参列した。そのたびに、次は私たちの番だろうと、胸を躍らせた。期待するのをやめたのは1年ほど前からだろうか。


 冷たい水で顔を洗った。大学生のときに買ったラズベリー色のタオルヘアバンドは、さすがにくたびれてきていて、年齢にも合わないし、と、ゴミ箱へ放った。キッチンに立ち、エプロンをきゅっと結んだ。卒業旅行で彼と行ったヨーロッパで買ったものだ。フラメンコの衣装をモチーフにしたものらしい。これも、これからの私にはふさわしくないだろう。


 玉ねぎをみじん切りにする。分岐点のひとつめ。炒めるのか、レンジにかけるのか、それとも生のままなのか。


 ボウルにひき肉、卵、パン粉、牛乳を加える。玉ねぎも投入する。それから塩コショウとスパイス。ここはたくさんの分岐点がある。どんな種類のひき肉を使うのか。つなぎはパン粉以外もあり得るし、牛乳が入らないレシピもある。卵だって、全卵なのか卵黄なのかで違う。


 よくこねたたねを丸くまとめて、成形する。これもまた分岐点がある。投げつけるようにして空気を抜くレシピだけではないのだ。平たく薄くするだけだったり、まん中にくぼみをつけるかどうかなども違ってくる。


 そして最大の関門が焼き方だ。どれくらいの火でどんなふうに焼くのか。これはレシピによって本当にまちまちだ。


 きれいに焼き目のついたハンバーグをワンプレートのお皿に移す。昨夜から用意しておいた、つけあわせの人参とブロッコリー、そしてバター味のコーンを添える。そして最後にフライパンに残った煮汁にケチャップとウスターソースを加えて、煮立てる。ハンバーグにかける。このソースだってさまざまなものがある。私は和風のおろしソースが好きだけれど、彼はこの味以外を認めない。


 ダイニングテーブルに二人分の食事を並べる。エプロンを外してそのままごみ箱に放り、「いただきます」と手を合わせた。

 こんがり焼き目のついた表面を崩すと、じゅわっと肉汁といい香りがあふれ出した。


「おいしい」


 鼻の奥がつんと熱くなり、目の前が滲んだ。




―――



「料理のセンスがないよなあ」


 きっかけは彼のひとことだった。「ハンバーグ、何回作ってもおいしくないからさ、もう作るのやめない? 俺はお惣菜とか、コンビニので十分だよ」と。

 黒焦げにしたり、カチカチにしたことはあったけれど、その日のハンバーグは決してまずいとは思わなかった。むしろ好きな味だった。私の料理の腕というよりも、単に彼の好みに合わなかった。それだけだったのだと思う。


 一つ気になると、ずるずると引っ張り出すようにもやもやした気持ちがあふれ出してきた。彼の好きなところと同じくらい、悲しくなることが増えていた。


「あれ取って」と言えば通じる、そんな関係が20年の間にできあがっていた。結婚すると誰もに思われていて、同棲まですませていた。だから、その環境が変わるのが怖かった。あるいは単に面倒だったのかもしれない。


 そしてそれはきっと、お互いに。惰性で付き合っているだけなのではないか。そう疑い始めたときにはもう駄目だった。だって、たぶんこの気持ちは、仮に結婚できたとしても一生つきまとうのだ。


 私は毎日ハンバーグを焼いた。彼がまだ眠っているうちに。においがきっと残っているはずなのに、彼が気づいたことは一度もなかった。


 1日ひとつ分岐点の何かを変えて、一つずつ検証していった。気づいたことをびっしりノートに書き込んだ。いつの間にか「ハンバーグ研究ノート」ができあがっていた。


――そして。ついに完成したのだ、彼がおいしいと言っていた店と、ほとんど同じ味のハンバーグが。

私には少し肉感が強すぎる、パンチの効いた味。噛むとじゅわっと溢れ出す肉汁。外側は焦げ目がついていて、少しカリっとしているのだけれど、中はふわふわで柔らかい。そして、いつもと同じ濃いめのソース。


 泣きながらハンバーグを頬張った。そして、麦茶をごくごくと飲み干す。すべて食べ終えて、もう一度キッチンに立つ。食器もフライパンも、すべて綺麗に洗う。麦茶のポットにも新しいお茶パックを入れた。そして、水を注いで、冷蔵庫に入れておいた。



―――


 大事なものだけをまとめて家を出た。置き手紙のようなものだけは残してきた。

 ハンバーグを毎朝作り始めたころから、荷物は少しずつ減らしていた。残ったものは、彼のいないときにでも捨てに来よう。


 黄金比のハンバーグ。彼が口にするときには冷めているかもしれない。温かいまま出して感想を聞きたかった、とも思う。でも、そうしてしまったら、たぶん私はまた繰り返しの毎日を始めてしまうだろう。



 いつの間にか空が明るくなってきた。通い慣れたいつもの道、毎朝寄ったコンビニで、紙パックのレモンティーを買った。高校生のころ、ふたりでよく飲んでいた。


――思えば、あの頃は本当に恋をしていた。ふいに目のふちから熱いものがこぼれ落ちそうになって、上を向いた。

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