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√365  作者: 三條 凛花
終章
31/32

365人目の私

 浮上するような感覚にまどろみから抜けると、後頭部がひどく痛んだ。感覚はないはずの世界だと言うのに。それから364日分の記憶がざっと押し寄せてくる。情報処理速度に脳が追いつかないといった感じだった。


「――おはよう」


 “彼女”がけだるげに言った。その声には夕暮れどきに花びらを閉じるすみれのような切なさが含まれていて、ぎゅっと胸を掴まれる。


 1年前と同じだ。除夜の鐘が鳴り続けている。それなのに、あたりはまっ白で、上下左右がわからない。あの不思議な空間に私は戻ってきているのだった。少しずつ覚醒してきて、手も足も爪も、自由に動くようになった。自分で考えられる。――今のこの身体は、すべて自分のものなのだとよくわかった。





「364人分の人生はどうだった?」


 彼女は気のない感じで訊いた。改めて思い返してみる。これは、死後の世界というものなのだろうか? 確かに飛び降りたはずだったのに、この不思議な場所に来て、よくわからないまま誰かの人生を生きてきた1年間が終わろうとしていた。


 1日ごとに記憶がリセットされる。朝になると別なだれかの身体の中にいる。その人に同化してしまうから、私自身がなにかを考えて行動したわけじゃなく、乗り物に乗るように、映画を観るように、ただ流されるままだった。その記憶が今、すべて流れ込んできているところだった。


「よくわからないことがあるのだけれど……」


 私はまだ痛み続ける頭を押さえながら、切り出した。


「私が知っている人が多すぎた。同じ人も何度も観た。あれは、どういうこと?」


 白い女の子はくすりと笑う。見た目は私と同じくらいの年齢なのに、どこか艶のあるその笑みは、大人の女性というよりも、もっともっと長く生きた妖を思わせる。ぞくりと背中に震えが走った。


「……本当はもうわかっているんじゃない?」


 その言葉にぐっと胸を突かれた。


「――あれはすべて、私、……ということ?」


 364人の人生は、まったく違うものだったり、どこか似通ったものだったりしたし、私が知っている人たちが何人も、別な立ち位置で出てきたのだった。それこそ何百通りもの未来を垣間見ているかのように。


 15歳の私を苦しめる美里とは、子どもの幼稚園で保護者として出会ったり、親友だったりした。同じく天敵である雨池ともやはり悪友になっていたり、何度か結婚していたりもした。彼らについては、どうやったらそんなふうになれるのか想像もできない。


 ――そして、同じクラスの星くん。彼とは15年後の時点で恋人であったり、夫婦であったりすることが多かった。でも、うまくいっていなかったり、別れを選んだり、幸せだったり、いろいろな暮らしがあった。そんな彼がたまたま公園で出会った人と結婚していたのではと思える未来もあって、胸がぎゅっと掴まれた。


 また、職業や考え方の根底にある価値観が偏っていたのも、そう考えるとうなずけた。とはいえ、364人の私は、それぞれがまったく別の人間のように、少しずつ価値観や性格、好きなものが異なっていた。


「ピンポーン!」


 女の子はおどけた調子で言うと、一瞬目を伏せた。それからまた無表情になり、「今日はいよいよ最後の一人の人生を見に行くわ」と言い、私の手をふわりと取った。その手が震えていることに気がついた。





 気がつくと私たちは、混雑する駅のホームに立っていた。


「これは、15年後の大晦日よ。――ここがどこだかわかる?」


「……新幹線のホーム」


 家族旅行で何度か来たことのあるそこが、東京駅なのだとすぐにわかった。


「そう。()()()のふるさとに向かう新幹線のホーム」


 大きな荷物を抱えた人たちが、順番に列をなしている。


 目がとまったのは、その中の家族だった。スーツケースを持つ、がっしりとした男の人は、私の初恋の星くんだ。


 子どもたち二人と手をつなぎ、胸元にまだ小さな赤ちゃんを抱えた女性は、私をいじめていた美里だった。



 それは理想的な家族の肖像画のような光景だった。胸の奥がちりちりと焦げ付くように痛むのを感じた。


 そのときだった。美里の名前を叫びながら、飛び出してきた女の人がいた。


 年齢はわからない。真っ白な頭で、老女と言えるような見た目をしている。


 痩せ細り、折れそうな体。髪の毛もぼさぼさで、身なりにはあまり構っていないという感じだった。


 彼女は勢いを落とすことなく、その家族に向かって突進していく。ホームは困惑した声でざわめいた。




 その骨のような手が美里の肩をつかみそうになったそのときだ。星くんが間に入ったのは。


 あの華奢な身体にどれほどの力があるというのだろう。彼の体は勢いよくホームへ落ちていき、そして、新幹線が到着しようとしていた。



「――星くん!」


 私の声は、たくさんの叫び声にかき消された。







 気がついたときには、また、あの白い空間に引き戻されていた。


「あの女の人は、――私?」


 全身に冷たい汗が流れていた。震える手を押さえながら尋ねると、白い女の子は首を振った。


「違うわ。ここは“私”のいない世界。あれは、美里を恨んでいた、()()()のお母さんが、幸せそうなあの人を見つけて、衝動的にやったことよ」


 私は思わず顔を上げた。その風貌から気がつかなかったけれど、既視感の正体にやっと思い当たったのだった。




「……飛び降りたあと、気がついたらここにいたわ。

 そして見たくもないのに自分のいない世界の映像がずっと流れ込んできていた。

 星くんが少しずつ荒れていくのも、あの美里が今度はいじめられるのも、やがて二人が結ばれるのも、……見たくもないのに、目を閉じてもまぶたの裏側に映し出されていく。

 そして、そのまま私は見せ続けられた。美里がどんどんいい方向に変わっていくのも。……そして、この光景を観るのは、今日で365回目よ」


 私はじっと彼女を見つめた。


 よく見ると、ちょっと横につぶれたような丸い形の爪も、手首がきゅっと細くなっているところも、少しぼんやりした目元の感じも、低くて丸い鼻も、薄めのくちびるも、鏡で見慣れたそれと同じだったのだ。



「この空間にも、時間の概念があるらしいわ。

 除夜の鐘が鳴るたびに、あの日、あのときの自分がここへやってくる。そして私は、最初から決められていたことのように、彼女らに未来を見せるの。ルールだって私がつくったわけじゃないわ。頭の中にあるの。どうすればいいかわかって、身体が自然に動くの。そうして何年も何年も、ここで過ごしてきた。

 ……自分ではもう、決して選ぶことのできない未来を眺めながらね。きっとここが地獄なんでしょうね、私にとって」


 彼女は心底疲れたといったようにため息をついた。


「――さあ、365人目の私は、何を選ぶのかしら」


 その声は投げやりに聞こえた。決まりきった文句を、淡々と言っているだけのようだった。まるで、ロボットのような。でも、次の瞬間、彼女はこれまでになかった生気を宿して私を見据えた。鏡で見慣れたその目から、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ出す。


「――鞠歌、お願い。彼を、救って」


 絞り出すような声で彼女は言った。









「忘れ物はないか?」


 夫が子どもたちに声をかけている。私たちは手分けをして、部屋じゅうの点検をした。


 昨夜寝る前に洗って、水気をしっかり拭き取っておいた浴室、早起きしてピカピカに磨き上げたキッチンや洗面所、子どもたちが雑巾がけしてくれたリビング。


 帰ってきたときに心地よいわが家であることを確かめるかのように、ひと部屋ずつ見て回り、お弁当用に作っておいたサンドイッチを最後に鞄に詰めて、家を出た。



 ――2018年の大晦日。私は今、東京駅のホームに立っている。

  子どもたちを連れて、私たちのふるさとへ向かうために。この姿は、最後に観たあの光景の美里とまったく同じだ。そう気がついたのは、新幹線がすうっと滑り込んできてからだった。私たちは今日も無事に生きている。うれしくなって、(星くん)の顔を思わず何度も見てしまった。



 15年も前のことだというのに、そして、あの空間のことはうすぼんやりとしか覚えていないのに、彼女との会話は、今でもしっかり残っている。


「私は生きるわ」


 彼女にそう伝えると、目頭がふと熱くなって、涙がぽろぽろとこぼれ出した。


 自分でもわけのわからない、いろんな感情がごちゃ混ぜになった涙だった。彼女は私をそっと抱き寄せた。それは、重力とは無縁なこの空間では、落ちていく私を抱きとめるような格好になっていた。


「目が覚めたら、きっと忘れてるわ」


 その目の際に、涙が光っているのが見えた。彼女は、風船を飛ばすように、私の体をふっと上へ押し上げようとしていた。


「ねえ、一緒に行かない?」


 気がつくと、そう声をかけていた。


「あなただって、きっと選べるはずでしょう」と続けると、彼女はきょとんとして、それから年相応な感じで笑い、私の手をつよく握った。そのまま、私の中に溶け込むように消えていった。







 30年生きてきて、ようやく言葉にできたことがある。


 それは、生きていくために必要なのは「選択」と「努力」だということだ。


 彼女によると、ふつうは記憶を失うルールらしいのだけれど、今でも自分の中に溶け込んだはずの彼女の意識を感じることが稀にある。


 さらに、私には今も364人分の人生が頭の中にうっすらと残っているのだ。




 あの人たちは、あの空間でみんな同じ選択をした。「生きることを諦めない」ということ。


 それなのに、それぞれあんなにも違った人生を送っていたのには、理由があった、……と私なりに解釈している。



 どんなタイミングで何を選択したのか。望んだ環境に身を置くために努力をしたのか。


 たとえば転校したり、あのまま学校で奮闘したり。進学先をどこの高校にするかでも変わった。


 高校が変わると、未来の行き先はそれぞれまた細やかに分かれていった。木が枝を伸ばすように、ぐんぐんと。――結局のところ、それが ”分岐点” なのだと私は結論づけた。





 一番大切なのは自分で決めることだ。


 昔の恋人に流されるまま結婚して、最後は心が壊れてしまい、大事な人まで失った”私”もいた。彼女の体に入っていたとき、私の頭のなかにはいつも「私のせいじゃない」という叫びが流れ込んできていた。自分で選ばないと、そういう逃げ道ができる。


 でも、どんな選択をしても、壁にぶち当たることはある。辛くて逃げ出したくなるときもある。逃げることと諦めることは違っている。逃げるというのは、自分が生きやすい環境へ身の置き場所を変えることで、諦めるというのはすべてを投げ出してしまうことだ。


 初恋の星くんと15年もつき合っていたのに、最後には別れてしまった"私"もいた。今の自分の視点で見るならば、慣れすぎてしまって、それ以上二人の関係をよくする努力を忘れてしまったのが原因だったのだろうと思う。





 この30年、無事に生きてきた。好きな人と結ばれて、子どもにも恵まれた。夢だった絵本作家にもなれた。決して楽しいことばかりじゃなかったけれど、でも、ここまででも十分いい人生だったと思うし、これからもやりたいことも、大事にしたい人も諦めるつもりはない。


「あ」


 携帯電話を見ながら声を漏らした私に、夫が「なに?」と尋ねる。その視線はとても優しく、穏やかだ。


「美里がみんなで初詣に行こうって。雨池も来るらしいよ」


「――裏の神社の? 厚着しないとな」と夫は楽しそうに笑った。


「寒そうだけど、でも、絶対に楽しいと思うから一緒に行こうよ」






 私たちは、毎日、たくさんの選択をしている。


 この「YES」でこれからの人生が何かが変わるのか、それとも変わらないのか、今はまだわからない。でも、きっとこれが最適解なのだと信じている。






 完

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