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√365  作者: 三條 凛花
本編
30/32

シンプルに考える

子どものころから、主婦向け雑誌を読むのが好きだった。家事ってすごくクリエイティブで楽しいものだという意識があった。


でも、実際にやってみると、うまくいかないことのほうが多くて参った。

お菓子を作ると生焼けか焦げるかのどちらかだし、しかも、大量の洗いものが出る。自分で味噌を作るのって素敵だなと思っていても、材料や作り方を読んでいるだけでも諦めモードになってしまう。いつのまにか、憧れていた手作りを諦めるようになっていた。




私には、いい人なのに苦手に感じてしまう人がいる。娘と同じ幼稚園の”ミサちゃんママ”だ。そしてそれは、私の中にこうしたくすぶった気持ちがあるからなのだと思う。ーーやってみたいのに、できない。理想には程遠い自分。理想そのものの彼女。


彼女とは子どもの幼稚園バスの停留所が一緒だった。うちの向かいのタワーマンションに住んでいて、家のなかはモデルルームのように美しく、子どもがいるのに生活感がない。


手作りのお弁当のかわいさは娘からいつも聞かされていて「どうしてママはそういうの作ってくれないの?」と言われるたびに悲しくなる。


ミサちゃんのお洋服も手作りが多く、しかも、どれも売り物のようにセンスがいい。


私のできないことができて、いつも注目や称賛を浴びている彼女のことが羨ましくて、どこか嫉妬に近いような感情を持っているんだろうな、と自覚している。ーーそんな自分のことも、とてもいやだ。




ある日、珍しく彼女が風邪を引いて、ランチ会に来ないことがあった。すると、ほかのママたちがぽつりぽつりと、彼女への不満を語りだしたのだった。


「ミサちゃんママといると、責められているような気分になるわ」と話す人から始まり、「大体、手作りができますって自慢しているようなものよ」と文句を出す人までいた。


私は一部の意見に心の中でうなずきながらも、でも、本人のいない場で(いたとしてもよくないけれど)責めるのも違うような気がして、なるべく存在感を消すようにしていた。



悪口めいた感じでいうのはよくない。なんだかいじめに発展しそうな、いやな雰囲気だったからかかわりたくなかった。

でも、彼女たちの意見をすべて切り捨てることもできなかった。誰かが言っていたように、彼女のそばにいると、家庭的じゃない自分を責められているような気分になるのだ。


そうして思い出した。ミサちゃんママをちょっと苦手だな、と感じたきっかけだった。



それははじめておうちに呼ばれたときのこと。インテリアや出してくれた料理をほめた私に「丁寧な暮らしをしたくて」と彼女が話したときだったのだと、今は思っている。


その言葉は目に見えない棘のようだった。彼女が刺そうと思って刺したわけじゃない。自分で突き刺したようなものだ。でも「丁寧」という表現には、なんとも言えない絶対的な強さがあった。


”昭和の母”に育てられた私にとって、家庭的であるというのは、無意識にすりこまれた「絶対的な正義」の一つだったのだ。実際、母にはよく「もっと丁寧にやりなさい」と家事の粗さを指摘されることが多かった。


でも、意識したつもりでいても、実際にはそうなれない自分がいた。


彼女の言葉は、もちろん、そんな意図はないはずなのに、「あなたは丁寧じゃない」と言われているような感じがあった。そう受け止めてしまう強さがあった。


夢のようなタワーマンションを出て、わが家に帰ったときの気持ちは忘れられない。築20年の2DK。最初から汚れているところが多くて、それだけでも気が滅入ったし、日当たりも悪いし、気に入らないところばかりのわが家。ーー妬みでしかない、とは、わかっていた。




「え~、もっとシンプルに考えてみたら?」


中学時代の友だちと会う機会があったので、その話をしてみたら、返ってきたのはそんな言葉だった。


「そもそも、やりたいの? ーーその、丁寧な暮らしっていうか、手作りとか?」


「うん」と私は勢いよくうなずく。


「でも、うまくできないんだよね?」


「そう…」


「じゃあ、かんたんじゃん。できるようにすればいいんだよ」


「いやいや美里、そんなかんたんなことじゃないよ!」と、私は思わず口を挟んだ。


「かんたんだよ。だってさ、あんた勉強得意じゃん。それとおんなじように考えてみたらきっとできるよ。美里はラクなのが好きだから手作りはしないけどね。子どももいないし、コンビニとかファミレスとかカフェとかで十分!」


彼女はわざとおどけた感じでそう言った。


確かに「家事=むずかしいもの」とか「家事=私にはハードルが高い」とか、決めつけていたような節はあった。彼女の言葉は、なんだか、すっとする爽快さがあった。


帰り際「でも、それより気になるのは……」と美里が言いかけて、「いや、いいや」と言い直し、ひらひらと手を振って帰っていった。




それから私がやってみたのは、何ができていて、何ができていないのかを把握することだった。勉強でもそうだけれど、できることを重ねて自信をつけるのも大事だし、できないことを克服するのも大切だ。


それから、できないことについては「何がわかっていないのか?」を知る必要もあった。中学時代、美里の勉強を手伝っていた時期がある。そのとき彼女は「自分が何をわかっていないのか?」を把握していなくて、だから、何から手をつけていいのか知らずにいたのだ。


わかっていないことさえ気づけたら、あとはそこを克服すればいい。



そうして分析を続けてみたら、私は料理ができないというよりも、そもそも料理の基本的な知識をおろそかにしていたり、洗いもののような後かたづけが憂うつだったりしていることがわかったのだ。洗濯はきらいだと思っていたけれど、仕分けは苦痛じゃないし、たたむのも好き。でも、濡れた冷たい服を干すのがきらい。

こうした細やかな”苦手”は「家事が苦手」とだけ言っているうちは気づけなかったことだった。そうして試行錯誤を重ねていたら、半年ほどで、苦手意識を感じていたことの大半は問題なくできるようになり、私はついに、お菓子作りや、ちょっと難しそうで敬遠していた料理にも手を出せるようになった。




 幼稚園のママで集まって、持ち寄りのクリスマスパーティーがあったのは、そんなある日のことだった。毎年この時期は憂うつなのだけれど、今年は早い段階からケークサレの試作をし、スムーズに、そしておいしく作ることができた。

 手作りのものを持ってきたのは、ミサちゃんママと私を含むほんの数人で、あとはデパートのデリ系お惣菜というのが多かった。ファミレスでの一件があったから、手作りのものを出すのに少し不安もあったけれど、自分のやりたいことをできるようになる、と決めたので、結局そのまま進むことにしたのだった。


 パーティーはつづがなく終わり、手作りのケークサレも好評ですぐになくなった。こうした充実感ははじめてで、今までにないうれしさと、小さな自信があった。




 帰り際、ミサちゃんママに呼び止められた。


「手作りの持ってくるの、めずらしいね~。料理苦手じゃなかったっけ?」


 そう話す彼女の目が笑っていないことにはじめて気がついた。

 なんだか居心地が悪くて、その後のことはあまり覚えていない。ただ、よくわからない、もやもやしたものを、真綿でくるんでぶつけられていることだけはわかった。


 ーーああ、美里が言いかけたことがなんとなくわかったかもしれない。


 その途端、これまで彼女に感じていた劣等感のようなものはなくなった。そして、思った。私は、私が好きだなと思うことややりたいと思うことを、自分のためにやっていこう、と。

 ミサちゃんママは、料理もお裁縫もなんでも完ぺきにできるけれど、きっと自分で好んではやっていない。そう思えてならなかったのだ。たぶん、彼女にとっての手作りは、プライドであり、自分の立ち位置を作るためのものだったのかもしれない。


次回で完結です。


▽キャラクターデザインです。イラストレーターのねこがえるさんに描いていただいています。


挿絵(By みてみん)

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