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√365  作者: 三條 凛花
本編
3/32

境界線

エントランスの前でなつかしいにおいを嗅いだ。


まさかと思いながら階段をのぼっていくと、発生源は私の部屋だった。ドアを開けると割烹着姿の母がキッチンに立っていたのだ。ピカピカに磨かれた鍋から、煮干し出汁のいいにおいが漂ってくる。私の姿を見とめると、母は、てのひらに乗せた豆腐を切る手をとめて、「おかえり」とほほ笑んだ。ちょうど学生時代そうであったように。


「合鍵の場所は教えたけど、来るなら来るって、そう言ってよ」

 

口をとがらせる私に、母は悪びれず、むしろ得意げな表情で「驚いたでしょ」と言った。私は心のなかでため息をついた。


食事はとてもおいしかった。でも楽しいとは決して言えなかった。留守にしている間に、部屋じゅうのいろいろなところに母の「チェック」が入っていて、その感想やアドバイスがつらつらと並べられたのだ。私は心を閉じ、ひたすら咀嚼に集中してやり過ごすことにした。


ひと通り、思うところを吐き出したのだろう。ひと呼吸おいて、母は「ところで、結婚の予定はありそうなの?」と言った。つとめて明るくしているつもりのようだった。


来たか、と思わず苦笑が漏れた。「結婚相談所には登録したよ」と、私はあくまでも淡々と答えた。すると母の温度がくっと上がるのを感じた。


「それって大丈夫なの? よく知らない人と会うってことでしょう。危ないことはない?」


それならば、どうしろと言うのだ。


「あと、気になったんだけど、あなたはお化粧をしないの? もう30歳になるんだから、きちんとしたほうがいいわよ。お化粧道具、一緒に買いに行く?」


かあっと胃の奥のほうが熱くなるのを感じた。下を向いて、長く伸ばした前髪で表情が見えないようにし、「ごめん、今日はちょっと疲れてるから寝たいんだ」と逃げた。後片づけをする母を手伝うこともせずに、私はシャワーを浴びて、そのままふとんに入ってしまった。


 やがてまどろみに落ちていくなかで、洗い物のカチャカチャという音や、箒(わが家にはなかったものだ)で床を掃く音などが、夢の間際まで響いていた。


 母はいつも私が自分のまわりに敷き詰めている境界線を軽々と飛び越えてくる。こういう無神経なところが苦手だ。母と娘だって別の生き物なのだ。



 翌朝、目を覚ますと母の姿はなく、テーブルにラップをかけた食事が置かれていた。


 まだ温かい白ごはんの上には、昨夜から漬けておいたのであろう、とろりとした卵黄の醤油漬けが乗せられている。さわらの西京焼きに、めかぶ、ほうれんそうとちくわの胡麻和え、そしてお麸と油揚げの味噌汁。


「朝ごはんは活力のもとだよ」と、毎朝たくさん並べられた朝食を、完食したことはあっただろうか。


 実家の味噌汁は煮干しで出汁を取っていて、母はおやつどきを過ぎると、食卓にボウルや煮干しの入ったうつわなどを並べて、頭と腸をもいでいた。頼まれることもあったけれど、私は決して手伝いをしなかった。



 母はわたしの境界線をやすやすと飛び越えてくる。それが負担だった。

 でももしかすると、それは寂しさゆえなのではないだろうか。私は母に寄り添って歩もうとしたことがない。だからこそ境界線を超えてくるのならば、もしかすると、母は勇気を出しているのかも。


 とびきりおいしい朝食を口に運びながら、後悔の気持ちでいっぱいになった。


 洗いものを済ませ、夕飯のために煮干し出汁を仕込むことにした。私の作り方は母と違って簡単で、800mlの水が入るポットに、昆布を2枚と煮干しを8個入れておくだけ。水でじっくり出しておくと、はらわたを取らなくても煮干しのくさみが出ない。しかも朝やっておけば、帰宅するころには出汁ができあがっている。



 ふと携帯を見ると、「ごめん」と送ったメールに、「フアイト!」と、どこか間の抜けたメールが届いていて、私は思わずくすりとした。


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