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√365  作者: 三條 凛花
本編
28/32

今できる唯一のこと

 この数日、水を得た魚のように台所に立っている。ほんのひと月前まではいかに短い時間で料理を作るかばかり考えていたのに不思議なものだ。包丁を刻むリズムは心地よく、山積みの野菜たちにさえやりがいを感じる。

 大根も、珍しく一本まるごと買ってきて、葉は炒めて混ぜごはん用に刻み、実の部分は4つに切り分けた。甘みの強い上部は大根おろしと煮物用にし、まん中は千切りにして塩を振って保存容器に入れておき、辛味の強い下の部分はいちょう切りにして豚汁に入れた。


 そうして夫と娘が公園で遊んでいる間に、これから3日分のほとんどの食事を作り終えて、ふう、とソファに座り込んだ。

 すると、空港での出来事がもやもやとぶり返してきた。ーー私は考えないために料理をしていたのだ。




 母方の祖父が亡くなり、3歳の娘を連れて遠方の実家に帰ったのは1ヵ月前のことだ。たどたどしかった言葉がすっかり上手になった彼女が、日々何の気なしに口から放つ「ママだいきらい」という言葉が、私を蝕んでいた時期だった。

 それをわかっていた夫が「こっちは大丈夫だし、どうせほとんど家にもいないのだから、実家でしばらく過ごしてみたら?」と提案してくれたのだった。


 本当は少し迷った。

 夫は、月の半分くらいは海外に出張している。娘が生まれたときから、ほとんど母ひとり、子ひとりの状態で生活してきたから、帰ること自体は楽しみではある。でも、地元にはいい思い出がないのだ。だからこれまでも長期間帰省したことなど一度もなかった。

 迷った末、夫の提案をありがたく受けることにした。


 娘は癇の強い子どもで、生後間もないころから今にいたるまで夜泣きがあり、この3年間、まともに眠れた試しがない。


 眠っている間に家事をしようにも、ほんの些細な物音で起きてしまう。起きている間はつきっきりで遊ばなければ癇癪を起こす。ちょっとテレビを見せてその間に、と思うと、今度は見るのをやめさせるのにひと苦労だ。



 子どもが生まれたら時間がなくなる。それはなんとなく知っていたことだ。でも、思っていたなくなり方とは全然違った。

 家事やメイクといった、行動にかける時間がなくなるのだと思っていた。でも実際にはそうではない。思考する時間が取れなくなっていった。集中して取り組めないということは、効率が大はばに落ちるということだ。自分の頭のなかにある地図が、途中で何度も破かれる。そのたびにまた書き直さなければいけない。それが一日中続いていく。

 それは、出口のない迷路に放り込まれたようなものだった。


 一瞬、ここがどこで、今がいつなのか、わからなくなった。実家でふとうたた寝から目を覚ますと、あたりが真っ暗になっていたのだ。

 階下からは娘と両親の楽しげな声が響いてくる。ーーああ、こんなに泥のように眠ったのは何年ぶりだろう。そう思うとなんだか泣けてくる。





 実家から関西の自宅までは飛行機で帰ることになっていた。泣きながら両親と別れた娘を片手で抱き、保安検査場に進む。荷物や上着をかごに入れて、係の女性に手渡そうとして、私は思わず凍りついた。


「では、お進みくださいね」


 にこやかに微笑むその人は、中学のときに私をいじめていた張本人だったのだ。名前が変わっていて気づかないのか、それとも知っていて何も言わないのか、彼女は穏やかにゲートを示しただけだった。




 私が知っている彼女の表情や行動ではなかった。

 そのとき、私は気がついたのだ。いまだに彼女の仕打ちが忘れられなくて、そして、彼女が幸せそうで善良そうに見えることがもっと許せないということに。




 ブザーが鳴った。ゲートを抜けた先にいる女性が「ポケットの中のものを出してくださいね」とそばにきた。娘は「ママのろまー。きらい!」と悪態をついた。ーーそれは昔、彼女が私に聞こえるように言い放っていた言葉とほとんど同じだった。

 気がつくと私は14歳の気持ちに戻っていて、その場の何もかもが恐ろしくて、自分という存在が恥ずかしくて、涙が落ちないようにこらえるだけで精一杯で、そのあとはどうやって帰ってきたのかあまり覚えていない。





 そうして帰ってきてから、取り憑かれたように料理をしている。

 悪感情が再燃してきたので、私はわざと勢いよく立ち上がって、手を洗い、鶏肉を観音開きにしはじめた。しっかりと下味をつけ、強火で焼いた。空いているスペースで野菜も一緒に焼いた。


「ママ、ただいまー!」


 夫と娘が公園から帰ってきた。私は、家族に向ける笑顔を取り戻していた。


 このもやもやした感情の正体も、解決策も、今の私には考える余裕がない。頭のなかが雑然としすぎて、どこから手をつけていいか、わからないのだ。

 だから、とにかく手を動かして、暮らしをきちんと続けていくこと。なるべく悪感情を思い出さないように蓋をしておくこと。それだけが今の私にできることなのだ。



「ママ!」


 振り返ると、娘が駆け寄ってきた。膝をついて抱きしめると、娘は一旦体を離して、石鹸の香りがする冷たい手で私の頬を包み込み、そっと耳打ちをした。


「あのね、ママ。大好き!」


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