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√365  作者: 三條 凛花
本編
25/32

悪友の涙

 揺れる電車の中で、夫の肩に頭を寄せる。海が美しい街はすでに窓の向こうへ吹き飛んでいき、少しずつ、ビル群に近づいてきた。――帰ってきた。ほっとする一方で、頭の中に浮かぶのは、昨夜の、私たちの結婚式でのことだった。


 披露宴が終わり、帰っていく人たちを見送っているとき。中学と高校が一緒だった悪友の雨池は、私の前で立ち止まると、深く、深く頭を下げた。


「本当に悪かった。――改めて言わせてくれ」


 きょとんとする私に「中学のときのことだ」と彼はばつが悪そうに言う。隣にいた両親が眉をひそめた。彼らは、雨池を結婚式に呼ぶことに最後まで反対していたのだ。




 中学生のころ、私はいじめに遭っていた。その中心となっていたうちの一人が雨池だ。もともと、いじめを作り出したのは担任教師だった。40代半ばの彼女は、とにかく私のことを嫌っていて、事あるごとにみんなの前で私を罵倒した。たとえば忘れものをしたとき。他の人が忘れてもそんなに怒られないのに、私が忘れものをすると、みんなの前でそれを発表し、たるんでいるとか、恥ずかしいとか、見せしめのように使われるのだ。


 最初は同情的だったクラスの雰囲気が変わったのはいつだっただろうか。やがて、いじめは生徒たちの中に伝染していき、深く根を張っていった。私は何を言ってもいい人間になったのだ。



 悩みに悩んで私が選んだのは、転校という逃げ道だった。クラスの大半は喜んだ。それほどにきらわれていたのだろう。そんな中で、ただ一人、慌てたのは雨池だった。彼の中では、深刻ないじめという認識はなかったのかもしれない。いわゆる“いじり”のようなものだと考えていたのか。それはそれで鈍感すぎてどうかと思うのだけれど、とにかく彼は動いた。雨池だけが。


 彼は家に押しかけてくると、勢いよく額をつき、謝った。

 父に罵倒され、母に追い出されても、何度も通ってきた。――やがて私は彼を許した。されたことは許せなかったけれど、その後の彼の態度には誠実さを感じたのだ。だって、クラスの他の人たちは、私にしたことをなかったことにした。私が悪いのだと正当化する人も多かった。

 中学のとき、教室に入るたびに、胸がぐっと苦しくなった。息が詰まった。近くに居るだけでもいつも恐ろしかった雨池は、頭がいいのにバカで、単純で真っ直ぐなやつなのだと今は思っている。




 高校生になるとき、私は転校先から戻ってくることにした。地元の進学校を選んだ。彼も同じ学校に進んだ。入学するまでは不安のほうが大きかった。ここには過去の私を知る人間がたくさんいる。また同じようになったら――。そう思わずにはいられなかった。現に、絡んできた元同級生もいた。そういうときも、雨池は壁になってくれた。

 お互いに恋情のようなものを持つことはなかったけれど、私たちはいつの間にか思ったことをぽんぽんと話せる悪友になった。少なくとも、お互いの結婚式に呼び合うくらいには。




 大人の男の人が泣くところを、はじめて見た。

 披露宴の帰り際、雨池の目には涙が浮かんでいた。上ずった声で「本当に悪かった」とくり返した。


「おまえがいろんな人に愛されて育ってきたっていうことを、改めて思い知らされた。よく考えたら当たり前のことなのにな」


 それから目頭から目尻にかけて涙をぐっと拭って「それにしても、おまえがこんなに美人だなんて知らなかったよ」とにやけた顔をつくった。いつの間にか、いつものバカで単純で、それなのに東大卒の雨池に戻っていた。




 2ヶ月前に越してきた新居は、坂の上にある。ささやかで小綺麗なマンションだ。帰る前に、坂の下に降りていく。安いスーパーがあるからだ。夫は料理が好きな人で、私たちはスーパーで思い思いに食材を買った。夫が肉を選んで、私が野菜を選ぶ。和風か洋風かを相談したら、それぞれ自分の担当のものを作る。夫がハヤシライスを作るというので、私は彩りのきれいなサラダと、長芋のポタージュを作った。


 リビングのほうから、夏の風が吹き込んでくる。汗がつうっと頬を伝っていく。気づいた夫がそっとそれを拭う。風鈴の音がする。


「あのさ、雨池くんって、元カレだったりする?」


 夫はそう言うと、うつむいて、眼鏡の位置を直した。私は「まさか!」と笑う。


「あの人は、愛すべきバカだからね。男としてはとても見られない」


「そっか……」


 夫はあまり納得していないようだった。


「それより私は、サークル仲間の美人な三津谷さんが気になった。あんなきれいな人が友だちだなんて知らなかったよ。ちょっと落ち込む」


「あいつとは何もないから! 三津谷は相川と付き合ってるんだ。大学のときからずっとね」


 それでも、夫が恋心を持っていたかもしれない。――本当は私が、高校のときに雨池を支えにしていたように。

 これからの未来に、雨池はいない。そうすると決めている。結婚したことも理由だし、これから子どもが生まれたりしたら、自然と彼とはもっともっと疎遠になるだろう。もしかしたら、昨日が人生で最後の会話だった、なんてこともあるかもしれない。少し寂しくもあるけれど、それがおとなになるということなのだと思う。大切なものを選んだり、手放したりする。自分で決めていくということ。





「このポタージュ、うまいな」


「長芋とネギと玉ねぎをとろとろに煮てね、ハンドブレンダーでがーっとやって。それから牛乳で伸ばしてつくったの。あ、隠し味にベーコンも入っています」


 私は得意げに答える。夫とは料理の話ができるので楽しい。この人とこうやって夫婦になれたのは、今だからなのだろうな、と思う。もしも中学生のときに出会っていたら、どうだっただろう? 生真面目で融通のきかないところはあったし、全然垢抜けていなかったし、こんなふうにやきもちを笑って流せる性格じゃなかったと思う。きっと好いてもらえなかった。運良く好き合えたとしても、たぶん続かなかったのではないだろうか。


 そう考えると、人とのつながりはたぶん、すべてがタイミングなのだと思う。

 この人に今の私で会えてよかった。そう思えてならなかった。

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