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√365  作者: 三條 凛花
本編
24/32

愛し仔

 道端で声をかけられても、普段ならば足を止めたりはしない。勧誘以外だった試しがないからだ。その日は本当にたまたまだった。そして、それが私の命を救うことになるとは思ってもみなかった。




「あなた、ちょっと、そこのあなた……」



 80歳くらいだろうか。枯れ木のように細く、真っ黒な服に、グレーとホワイトのソバージュヘア。目は落ち窪んで、ぎょろりと光る。

 声の持ち主は、魔女と言われたら誰もがうなずくような容姿の老婆だった。


 困惑して止まっていると、老婆の真っ黒な目の中に光がともったように見えた。そして、つ、つ……と涙が幾筋もあふれ出す。


「――え、おばあさん……?」


 雑踏をゆく人々の不躾な視線にさらされて、手足の先から冷たくなっていくような感覚を覚えた。


「――愛し子だなんてかわいそうに。道を間違えてはいけないよ。後戻りはできない」


 それだけ言うと、老婆はふっと目線を下げ、闇に溶けるように去っていった。

 飲み屋の立ち並ぶにぎやかな通りのはずなのに、あたりはしんとして、私は時が止まったような感覚に陥っていた。





「新手の勧誘かなにかですかね? 失礼なやつだなあ」


「――海棠くん」


 ふと振り返ると、同じ部署の海棠が立っていた。小柄な私にとっては、見上げるような長身だ。


 今の会社に勤めて7年。若手とは呼べない年齢になっていた。入社したときにいた女性のほとんどは、結婚や出産で退職してしまい、先輩も同期もほとんど残ってはいない。

 憧れの東京生活で、アフターファイブを充実させようと、英会話にヨガ、絵画などお給料のほとんどを習い事に費やしてきた。後悔はしていないけれど、SNSを見るたびに、心がざらりとするのを感じる。


「――見てたんなら助けてよ」


 私が言うと「いやあ、ちょっと急いだんすけどね。間に合わなかったっす」と申し訳無さそうな顔をした。彼の整った顔には、一筋の汗が伝っていた。




 2つ下で、去年からうちの部署に配属になった彼とは、席が隣だということもあり、自然とよく話すようになった。


 快活で饒舌。爽やかで明るく、髪型にも服装にも気を回している。細身でオーダーメイドのスーツは、よく見ると薄くチェック柄が入っていたり、ネクタイとシャツの組み合わせもぱっと目を引くようなもの。内勤の部署だから身だしなみにあまりうるさくないこともあり、栗色に染めた髪の毛はゆるくパーマがかけられているようだった。

 女子社員の中でひそかにファンクラブが結成されているとかいないとか。


「暑気払い、参加するんだね」


「まあ課長に言われちゃうと参加するしかないですねえ。旧時代の遺物っていうか、うちの会社って、なんか古くさい考えのオッサン多くないっすか?」


 私は声を潜めて「同意」と告げた。





「おい、おまえ。なんか一発芸やってみぃ」


 その日、私の隣になったのは、関西から異動してきてばかりだという50がらみの男性だった。向こうの支社での成績が認められ、部長として本社に赴任してきたのだと言う。


 部長の言葉に私はぴしりと固まる。昔から融通のきかない、真面目でつまらない人間だと言われてきた。自覚もある。そうした余興は苦手で、今までのらりくらりとかわしてきたのだ。



「――申し訳ありません、私は……」


「なんやつまらんなあ。おまえ30にもなってそんなんもできんのか。ババアやのになあ。あーあー、間宮ちゃんが来なかったのほんまに残念やわ。そもそも、その年まで結婚もしないで社会人やってきたんなら、なんか1つくらい持ちネタあるやろ? 手品でもモノマネでも。常識やんか。なんならセクシーポーズなんかでもええわ」


 お酒の臭いがむっと広がる。部長は赤い顔に下卑た笑みを浮かべながら、私の頭に手を伸ばしてきた。

 その様子はスローモーションのように止まって見えて、それなのに体を動かすことも、なにか言うこともできなかった。





「はい、システム課海棠いきまーす!」


 涙がぽろりとこぼれそうになった瞬間、私の前に大きな壁ができた。海棠の背中だった。ピシッと糊のきいたワイシャツに、この時間だというのに皺のない仕立ての良いスーツが目に入った。


「おっ。自分、話わかるやん。それで? 何してくれるん?」


「そうっすねえ。夏だから怖い話とかどうでしょう」


「おお、ええなあ」


 ではでは、と一つ咳をして、海棠が始めたのはこんな話だった。





 とある廃神社の話だ。そこは都心のビル群に埋もれるように存在している。すでに寂れて、境内も荒れ放題なのだが、取り壊そうとすると不幸が起こる。だから、立地がいいにも関わらず、長らく放置されてきたという。

 そこに祀られているのは荒神で、それなのにどうして神社があるのかというと、神の怒りを鎮めるためだったのだとか。


 でも、古くからその地に住むものでもなければ、そんなことは知らない。ただ神社があるからと、気軽に手を合わせ、願いを口にしていくことがある。でも、それは危険なのだ。


 もしも、かの神に気に入られてしまったら。手元に来るように仕向けられてしまうのだから。それが意味するのは、すなわち――。






「まあ、怖いっちゃあ怖いけど……50点やな。オチがない」


「いやいやいや! 部長待ってください。話は最後まで聞くべきっすよ。俺の話を聞いて思い出しませんでしたか?」


「なんや?」


「会社の裏にある神社です。この話の元ネタ」


 その瞬間、部長の顔がさっと歪んだ。


「な、なんや……オチがあるんなら先に言うてや」


「部長が口を挟んだんでしょうが」


 どっと笑い声が起きる。


 結局、飲み会ではほとんど何も食べられなかった。

 お酒に弱いわけではない。でも、あの部長の横にいたら何をされるかわからないのでやめた。二次会に向かう人の群れからそっと抜けると、海棠も同じように出てきて、送っていくと言ってくれた。けれど、断った。お酒を飲んでいたらよかった。そうしたら、こんなに寂しく感じなかったかもしれない。




 シャワーを浴びて、髪の水気を取っていたら、急に胃を締め上げるような痛みを感じて、うずくまった。目尻に涙の玉が浮かぶ。入社したころからこうだ。ちょっとしたストレスでこうなってしまうから、そのままの体勢でいれば大丈夫なのだと、わかってはいる。――でも、こういうときに、心配してくれる人がいないのはとても寂しい。


 ようやく痛みが収まり、鏡の中の自分を見てみる。ニキビができにくい、白い肌だけは、自分の中の好きな場所だった。でも、いつのまにか肌色がくすんできていることに気がつく。水分量が失われているような感じといったらいいのだろうか、肌の質感も私が知っているものから徐々に、徐々に変わってきている。


 そうした衰えにはなんとなく気づいていて、鏡をじっくり見ないようにしていた。――30年。ものだって大切に使わないと劣化していくのだ。人の体だって同じだなんて、当たり前のことだった。母や叔母、会社の先輩女性などに言われてきたことだ。でも、私は若さに慢心し、面倒くささを理由にそれをしてこなかった。

 時間だったらたっぷりあったのに。




 食欲はあまりないけれど、なにか口に入れたい気分になり、台所に立った。


 冷凍庫からいちょう切りにした人参と大根、カット済みの冷凍ささがきごぼう、小さく切っておいた鶏肉、薄切りにした椎茸を取り出す。


 栄養を意識するようになったのは20代も後半に差し掛かったころだった。体調不良の原因が貧血だと気づいたのがきっかけだった。それから自炊をなるべくするようになり、会社が休みの土日は、野菜をたくさん刻んでおくのが習慣になっていた。


 鍋に白だしと水を、パッケージにかかれた分量入れてかけつゆを作る。野菜と肉を煮る。豆腐も手で崩し入れる。

 そうして煮込んでいる間に髪を乾かし、化粧水を肌に染み込ませ、足のマッサージをした。ちょうどよく煮えたようだったので、冷凍うどんをあたため、器に盛る。最後につゆを注ぐ。


 この料理は、社会人2年目のころに付き合っていた人と、旅先で食べたものだ。当時は彼と結婚すると思っていたけれど、叶わなかった。このうどんは、冬に食べるものだという。でも、蒸し暑い夜だというのに、無性にこれが食べたくて仕方がなかった。


 ひと口食べると口の中が熱くなった。ふた口めで胸の奥がじんわり温まり、三口目を食べると、ほろりと涙の筋が落ちた。





 その夜、夢を見た。


 それは、映画を見ているような感覚で、私は水が広がる静謐な空間にいた。太陽や空はなく、建物も緑も見当たらない。霧の中に浮かぶ湖といった様子の場所だ。


 その透き通った水の上には、一人の男が立っている。色白の美丈夫だ。その瞳は赤く、蛇のような妖しい鋭さがある。


 着ているものは古代の服のように見えた。身につけている深藍の貫頭衣の腰のあたりには黒い紐が結ばれ、そこに墨色の剣が刺さっている。貫頭衣の下には、黒くボリュームのある袴のようなものを履いていて、頭には烏帽子のようなものがあり、その出で立ちは、昔教科書の絵で見た平安時代の貴族に似ているように見えた。


 男と目が合った。すると、その薄いくちびるがにんまりと孤を描く。遠くから見ているはずなのに、ふっと耳元に吐息のような声が響いた。



『――すがってしまえばいいものを』



 その声音は恐ろしいほど甘く、――目を覚ましても耳に残っていた。





 いつものように早朝の散歩に出かける。家の隣には神社がある。ここがいつも、私の散歩コースになっていた。そういえばこの場所も海棠の怖い話に出てくるようなところだ。高層マンションの間に挟まれた古い神社。あの「オチ」を聞かなかったら、怖くて眠れなかっただろう。


 朝の散歩は、同棲していた彼と別れ、ここに引っ越してきてからの習慣だ。台風や土砂降りでもなければ、欠かさず出かけるようにしている。特にこの神社は、来るたびに胸のつかえが淡くなっていくような感覚があるのだ。




 給湯室で、海棠と一緒になった。

 彼は今日もパリッと糊のかかったワイシャツを身につけている。黒い革靴も曇りなく磨かれていて、先ほど見かけた部長のだらしない姿とは大違いだった。


「昨日はありがとう。かばってくれたんだよね」


「別にいいっすよ~。あのクソ部長、いけ好かない奴でしたね。広報部はこれから大変だ」


 海棠は茶化すようにそう言って、眼鏡を持ち上げながら、棚に手を伸ばし、マイカップを取り出した。スタイリッシュな黒いマグの内側に、茶渋が濃くびっしりとついている。思わずじろじろ見てしまって、ばつが悪くなったので、「でも、部長って怖がりだったのね」と話を逸らした。


「あの話を聞いたあとに怯えてるように見えたから」


「あ~、あの話はわざとなんすよ。先週、部長が裏の神社に手を合わせてるの見ちゃって。それで思いついたっつうか…… いい気味だったっすねマジで」


 私は苦笑する。


「意外と信心深い人なんだね」


「でも、話自体は本当っすよ。都市伝説だけど。N駅の廃神社がそうだって言われてて。まあ本当だとしても、あの部長が好かれるわけないですけどね。だって、カミサマが気にいるんだったら、もっと清らかな心の人でしょ」


 キーンと耳鳴りがした。それは――。


「で、先輩! お礼なら会社裏のイタリアン奢りで手を打ちますよ。今晩どうっすか?」


 声はいつもと同じように聞こえた。でも、海棠の瞳は射抜くようにまっすぐ私を見つめていて、その底には妖しいきらめきがあった。つられるように頷きかけて、ふと、昨日の老婆の言葉を思い出す。道を間違えてはいけない、と。


「ごめん、夜は習い事があるから行けないんだ。ランチでよかったら、今度間宮さんたちも誘っていこうか。みんなに奢っちゃうよ」


 私がおどけた調子でそう言うと、海棠は意外そうな表情をした。でも、それは一瞬のことで、いつものへらへらした顔に戻り「じゃあ、みんなに言っとくっす」と言い、出ていった。


 指輪をはめた左手をひらひらと振りながら。





 それから数ヶ月後。海棠の奥さんが、間宮さんを殺した。給湯室で海棠と話した夜に夢に出てきた美丈夫が、悔しげに言っていたことを思い出す。


『あの手にすがっていれば、こちらに来られたものを――』と。







こちらは、2020年7月23日に追加した話です。


作中に登場するのは、香川県の郷土料理で「しっぽくうどん」と呼ばれるものです。実物を食べたことはなく、レシピを調べてつくりました。

去年四国に引っ越してきたので、せっかくだから各県のおいしいものをいろいろ試してみたいと思っています。(四国の郷土料理をご存知の方、Twitter等から教えていただけると喜びます!)


レシピを調べてみたところ、根菜類と肉を入れるのが一般的なようでした。肉は豚肉だったり鶏肉だったり。ほかにも豆腐、きのこ類を入れたりもするようです。出汁は煮干しでとるのもポイントなのかなあといろいろ調べていて感じました。


実際に作ってみたときのことはこちらに書いています。味噌汁にアレンジしてもおいしかったです。

http://365kaji.blog.jp/archives/20200624.html

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