野芥子の恋
ドアを開けると、目の前が真っ赤になった。大きな薔薇の花束が差し出されているのだった。そして、その影から顔を出したのは、なつかしい、涼やかな瞳だった。
「びっくりしたでしょ」と少年っぽいほほ笑みを浮かべる彼に、ふと引っ張られそうになる。でも私は予想できていた。だから、今日は特別な料理を作った。
「ええ、びっくりした」
つとめて冷静にそう言っていることを、彼は知らない。
「では、ここからのお話ですが録音させていただきますね。よろしくお願いいたします」
ぱりっとしたスーツを着込んだ、目元の涼しげな青年はそう言って録音機のスイッチを押した。
ホテルのティーラウンジでその取材は行われた。
平日の昼下がり。上質なワンピースをまとった、品の良い、年配の女性ばかりのその場所で、私はなんとなく浮いていた。
慣れない状況に手が震え出し、もう一方の手を重ねてなんとか落ち着かせようとした。彼はそうした心境を見抜いているのだろうか、目元がふっと緩んだのを感じた。切れ長の一重で、吸い込まれそうな、コントラストの強い黒い瞳をした人だった。
「ーーまずは、恋花文学賞で大賞となった、先生の作品『野芥子の恋』についてお伺いします。
この作品が生まれたきっかけはなんですか?」
「ええと、新卒で働いていた会社で……」
言いかけてむせ、手元にあったグラスを手繰り寄せて、水をごくごく飲んだ。まばたきが止まらない。勢いよく口元に持っていったせいで、グラスの水がこぼれて、ワンピースの衿を汚した。
彼はさっと立ち上がって、ぱりっと糊のきいたまっ白なハンカチを差し出した。それが一層私をみじめな気分にさせた。
「ーーなるほど。野芥子という花には『見間違えてはいや』という花言葉があるのですね。僕は男だからというのもあるけれど、花にはあまり詳しくないんです。だから、はじめはタイトルを知ったときも、花だということがいまいちピンときませんでした。でも、タイトルを知ってから話の内容を振り返ってみるとぐっと胸に迫るものがありますね」
彼はふたたび録音機のスイッチを押した。気が抜けてふうと息を吐く。
そんな私の様子にくすりとほほ笑みかけると「お疲れさまでした、緊張されてたんですね」と感じよく言った。
今、私はテレビカメラや録音機の数々に囲まれている。先ほど、権威のある文学賞の受賞が決まったところだ。ほかの受賞者と並んでの、インタビューがはじまった。
となりの席に座った初老の男性は、かつての私のように、まばたきをくり返し、震える手をしていた。私は「大丈夫ですよ」と、周りに聞こえない程度の声でつぶやいた。ふと視線を落とす。白くてほっそりとした手。爪の先には真紅のネイル。赤いドレスにも気後れしない。
もう手は震えない。場違いだと気後れしてみじめになることもない。
「ーー今回のお話に出てくる男性記者の魅力が評判になっていましたね。ヒロインを育てて、突き落とす。冴えない女子大生作家が、彼の手で美しく魅力的になっていく様に心惹かれた読者が多かったと聞きます。これは実体験に基づいているのでしょうか?」
私は「それは秘密です」と笑った。涼しげな目元は、不敵に笑った。
「ねえ、星奈センセイ。このお浸し、何の野菜を使ってるの?」
「野芥子よ」
「え? それは、……雑草っていうこと?」
私がうなずくと、彼は眉をひそめた。
「うん。でも、うちのベランダで育てたの。わざわざ種子を取ってきて植えたものだから、安心して食べていいわ。それからタンポポの葉も。こっちも自家栽培よ」
「君ほどの作家がどうして、そんな貧乏くさいものを食べるんだよ。俺がいない間に、食の好みでも変わったの?」
彼と会うのは1年ぶりだった。
私が思うに、彼は雑草を育ててみたかっただけなのだ。それが美しい花をつけるかどうか、試していた。
メイクもできない。服もちぐはぐ。自分に自信がなくて、いつもおどおどしている。そんな私を彼は恋人にした。映画のヒロインのように美しく変身させてくれた。ストレートに伝えられる言葉の数々に、愛されていると錯覚した。
でも、1年前、彼は唐突に出て行った。荷物はスーツケースひとつだけ。
「どうして?」と泣きわめきながら尋ねると、「俺はね、君にもっと大きくなってほしいんだ。今の悲しい気持ち、悔しいとか、怒りとか、そういうネガティブなものを作品にすべてつぎ込んでごらん。きっといいものができる」と、彼は答えた。
次の週には、別な作家とつき合っているらしいと噂話が聞こえてきた。
「なあ、俺の言ったとおり。失恋はいい経験になっただろう」
――今でも愛している。
1日だって、忘れたことはない。涙が出てくる間もないように仕事を詰め込んだ。どんな仕事でも受けた。でも合間にエステやジムに通うことは忘れなかった。
「ねえ、花言葉、知ってる?」
「野芥子の花言葉は『見間違ってはいや』だろう。俺もあれから勉強してね、ほかにもいろいろあるんだな。『追憶の日々』とかさ」
「野芥子じゃないわ。たんぽぽのほう」
「いや、そっちは知らない。なんだろうな、素朴な人とかどうだろう。――会ったばかりのころの君みたいなさ」
彼の瞳には熱がこもった。それがすべての答えだった。
「じゃあ、家に帰ってから調べてね」
私は、できる限り一番美しいと思う笑顔を浮かべた。普段と違う様子に動揺する彼を追い出した。しばらく玄関のインターホンを鳴らしていたけれど、ややあって、諦めて帰っていったのがわかる。そして次は不在着信がどんどん溜まっていった。
はらはらと涙がこぼれだした。ソファにもたれかかる。手の甲でごしごしと拭うと、黒く染まった。彼がああいう人だということはわかっていた。知らないふりをしただけだ。認めたくなかった。あの言葉は本当だと思い込もうとしていた。
でも、本当は賭けていたのだ。 ーーもうひとつの花言葉に。たんぽぽには「誠実」という花言葉がある。あの涼やかで酷薄な仮面を脱いでほしかった。私に誠実に向き合ってほしかった。自分の玩具とかアクセサリーのようなものではなく、一人の女性として、ちゃんと見てほしかった。
こぼれてくる涙をぐっと拭う。私は選んだ。「別離」のほうの花言葉を。綿毛に乗せて、この気持ちは飛ばしてしまおう。
彼がくれたものだけを武器にして、明日からはまっさらな私で生きていく。