古新聞のブーケ
「おねえさん、ほら、これあげるよ」
ふと顔を上げると、日に焼けた、頭に手ぬぐいをかぶったおばあさんが、新聞紙で包まれた花々を私に差し出していた。 じりじりと夏めいてきた日に焼かれながら、不意のことに戸惑い、ただぼうっと視線を合わせている私の手に、おばあさんは半ば強引にそれを握らせると、白い歯を見せて笑った。
「ほら、おうちに帰ったら、コップとか、なんでもいいから、水に入れてあげるんだよ。毎日お水を取り替えて。大事にしてやって」
おばあさんはそう言うと、手をひらひらと振りながら去っていった。
ーーなんだったんだろう。てのひらに押しつけられたものを見ると、中に入っていたのは、たくさんの野の花だった。ふわふわした糸のようなピンクの花びらをした花。ああ、これはなんだったっけ、子どものころに道ばたで摘んだことがある。ヒメジョオンだったか、ハルジオンだったか、そういう花だった。それからたんぽぽ。それにオオイヌノフグリだろうか、でも記憶にあるその花よりも大きいし、ピンク色をしている。それと儚げな印象の水色の花。なずなの花を青く染めたようなもの。
ややあって、私は「よいしょ」と自分に言い聞かせるようにして立ち上がり、家に戻ることにした。
抱っこひものベルトをほどく。ようやく眠ってくれた娘を慎重にベビーベッドに下ろす。起きずにすやすやと寝息を立ててくれたので、ぐっと止めていた息をようやく吐き出した。
一人になったらやることが思いつかなかったので、さっきもらってきた花を生けることにした。 この家に花瓶はない。ふだん飲むコップに入れるのもなあ、と部屋の中をごそごそしていたら、紙コップが見つかったので、決してかわいいとはいえないけれど、それに入れることにした。
ぱらぱらとほぐすようにして花を入れて、水を張る。たったそれだけのことだけれど、部屋のなかがぱっと明るくなり、息づいたような気がした。
ああ、小さいころは、家にこうやっていつも花が飾られていた。この家は殺風景だ。夫の趣味のモノトーンのインテリア。選ぶとき、私の意見はなにも取り入れてもらえなかった。
生活感のない部屋を作りたいと彼は言ったけれど、生後3ヵ月の子どもとの暮らしでは、そういうことも不可能で、気づくとあちこちに脱ぎ散らかした服があったり、洗い物が山のように溜まっていたり、洗面台もよごれたりしていた。外に出ていたのは、家にいたくないのと、抱っこ紐に揺られていれば娘が泣かないからだった。
ベビーベッドをのぞいてみる。ふっくらしたピンク色のほっぺをつん、とつつく。とても愛おしく思う。 でも、かわいいな、好きだな、と思う気持ちだけで子育てはやっていけないのだと知った。
子どもが生まれたらネイルはむずかしいかな、カフェとかいけなくなっちゃうな、映画館も諦めなくちゃいけないな……などと想像していたけれど、実際に生まれてみると、もっと基本的なことをがまんしなければいけなかった。 娘は四六時中泣いている。ごはんをゆっくり食べることもできなければ、夜にまとまった睡眠をとることもできない。
肌もカサカサ、髪の毛もパサパサだ。シャワーを浴びたあとは、娘の体を拭いて、ベビーローションを塗ってやり、おむつを穿かせ、着替えさせて、ベビーベッドに寝かせる。その間に自分の着替えをするのだけれど、娘は待てずにぐずり出す。慌てて授乳をしているうちに、ほっぺたは乾燥し、髪の毛は変にうねりがついてしまう。
個人差があるらしく、同じ時期に生まれた、同じマンションの男の子は、生後1ヵ月から夜泣きをほとんどしなくなったと聞いた。
ベランダに通じる窓にもたれるようにして、携帯に目を落としていた。なにを読んでいるわけでもない、ただ、文字を目で追っていただけだった。とにかくまぶたが重くて、手足がだるくて、なにも考えられなかった。
そうしていつしか、ひんやりした床の上にまるまって眠っていた。 眠ったのはほんの20分くらいだっただろうか。それでも、目を覚ますといくぶんすっきりした気持ちになっていた。
なんとなく、さっき飾った花を見に行った。散らかり、よごれた部屋のなかでそこだけが美しく、そして生き生きとしている。
すると、なんだか体の奥の方でうずうずする感覚があり、気がつくと私はゴミ袋を片手に持っていた。花瓶のまわりにあったごみや要らないものを、どんどん放り込んでいく。ごみがなくなったら、今度は汚れやほこりが気になった。
そして気がつくと娘が起きるまで、ずっと片づけや掃除をしていた。いつものように「ああ、起きちゃった」と残念に思わなかった。それがうれしくて、気がつくとぽろぽろと涙がこぼれ出していた。
「……以上が、私が”野の花アーティスト”になったきっかけです。おばあさんにもらったブーケの花たちが枯れてしまったあと、自分でも同じように野の花を集めて飾るようになりました。それをSNSに載せているうちに、いろんな方の目に止まり、今があるのです」
なんとか話し切った。舞台袖に隠れて、ほっと胸をなでおろした。「ママ!」と娘が駆け寄ってきた。私は思い切り抱きしめる。毎日が慌ただしく過ぎていく中で、 この子もいつの間にか4歳になっていた。
講演では話さなかったことがあった。おばあさんがブーケをくれた理由だ。
あのあと、おばあさんにお礼を言いたくて、公園で何度か待っていたものの、ようやく会えたのは秋口になってからだった。
私の顔を見ると、おばあさんはほっとしたような表情で「よかった」と泣き崩れた。 ずいぶんやせ細っていたし、事情がわからなくてびっくりして、一緒にベンチに腰かけ、話を聞いた。
おばあさんは、ふるさとから逃げてきたのだという。東京でシングルマザーをしていた娘が育児放棄をして子どもを死なせてしまった。ニュースにも大々的に取り上げられ、実家を特定され、家には毎日「人殺し」と書かれた紙が投げ込まれた。おばあさんの娘は、やがて、自ら命を断ったそうだ。
どこにも居場所がなくなり、誰も知らない東京に一人で出てきたばかりのころ、見つけたのが私だったらしい。 公園で所在なさげにうつむいていた様子に、最後に会ったときの、自分の娘の表情が重なったという。だから、なんとかして関わりを持とうと、あのブーケを作ってくれたそうだ。
ところが、その日の夜に緊急入院してしまい、ずっと気になっていたのだ、と。
自分がもっと娘に目をかけていれば。頼らせてあげれば。そう言っておばあさんは泣き崩れた。連絡先を教えてもらい、数日後に寄らせてもらおうと電話をしたら、すでに亡くなったと告げられた。冷たいその声は、たぶん娘さんだったのだろうか。
たった2度会っただけの知らないおばあさん。でも私の人生を軌道修正してくれたのは、家族でも友人でもなく、彼女なのだ。私もだれかにとって、そういう存在になれたらいい。そう思いながら、日々、花を生けている。