レアクローバー
「ママ、なにを作っているの?」
眠たそうに目をこすりながら、娘が階段を降りてくる。着ていたスリーパーを寝ぐせのついた髪の毛を指先でくるくるといじりながら、私の足元にぴったりとくっついて、調理台をのぞき込む。
「わあ、サンドイッチだ!」
娘の麦は、自分もやりたいと洗面所に走り、手を洗って、フリルがついたピンクのエプロンをかけて戻ってきた。
私はその間に、ダイニングテーブルにラップを敷き詰め、食パンを並べていき、その上にマヨネーズを絞った。具材はそれぞれ大きめの紙皿に用意した。紙皿を使うのは、洗いものをへらすためだ。
ここからは麦でもできる。彼女はふくふくした小さな手で、パンにマヨネーズを塗っていった。それから、ハムときゅうりとチーズを食パンの上に重ねていく。その間に炒り卵ができたので、同じく少し深めの紙皿に入れて、スプーンを添えてテーブルへ運んだ。麦は、やはりたどたどしい手付きで、こぼれないように慎重に丁寧に、炒り卵をパンに乗せはじめた。
こうして出来上がったのは、5種類のサンドイッチ。ハムと薄切りにしたきゅうりにスライスチーズ。炒りたまごのマヨサラダ。タルタルソースと冷凍のエビカツ。サーモンとディルとフリルレタス。いちごジャムとピーナツバター。わが家のいつもの「お外ごはんセット」だった。
車を三十分ほど走らせてたどり着いたのは、ダムのそばにある自然公園。ここはゴールデンウィーク中でも人がほとんどいない、絶好のお花見スポットなのだ。公園と名がついているものの、自然そのままの状態で、遊具だけでなく、ベンチの類いもない。
広い敷地を埋め尽くすように、たんぽぽに白詰草、すみれ、おおいぬのふぐりといった野の花が咲き乱れている。ぽつんぽつんと植わっている桜の木はいずれも満開。風が吹くたびに、ふわりと花びらが散っていくのがうつくしかった。
「ママ、むぅちゃんね、お花探してくるね」
麦はそういうと、スカートをふわりと揺らして走っていった。私はそんな娘の姿を眩しく見つめていた。
ふと横を見ると、シートの上に寝そべって本を読んでいた夫は、眠ってしまったようだった。視界の端にはまだ花を詰んでいるらしい麦の姿。平たい岩の上に、白詰草をたくさん散らしている。ここへ来る前に、図鑑の同じページをずっと見ていたから、おそらく、花かんむりを作るつもりなのだろう。
気がつくと私もまどろみのなかに落ち込んでいて、ふと、懐かしい光景を見ていた。今はもう詳しくは思い出せない、小学校の中庭。あまり生徒がいない穴場の場所だった。そして、そこはクローバーとたんぽぽの絨毯が一面に広がっていて、秘密の花園のようだと思っていた。
中庭でクローバーを探す。それが、当時の「私たち」の日課だった。いつも一緒にいたのは、レンコちゃんという少女。陶器のような真っ白い肌をしていて、瞳は薄い茶色。海の、浅瀬の底の色に似ていた。髪の毛は天然パーマだそうで、栗色のくるくるした髪の毛だけを後ろからみると、外国の絵本から抜け出してきたヒロインのように見えた。
ぶわっと地面から吹き出すように青々と茂るクローバーの中に、よく目をこらすと、四つ葉はすぐに見つかった。
私たちが探すのは、四つ葉ではなく「レアクローバー」と呼ばれていた、もっと枚数の多いものだ。でも、はじめて五つ葉のクローバーが見つかったときのレンコちゃんの顔は忘れられない。
「早く捨てて!」と私の手から小さな葉をはたき落とし、砂の上に落ちたそのクローバーを靴底でぐりぐりと執拗に踏みつけ、ちぎれて、緑の汁だけが残るような状態にまで、ぐちゃぐちゃにつぶしたのだった。
「どうしてそんなことをするの?」と私が尋ねると「呪われないためだよ」とレンコちゃんはきっぱり言った。
「五つ葉のクローバーは、呪いのクローバーなの。だからね、見つけたらすぐにこうやって壊さないといけないんだよ。そうしないと不幸になっちゃうの」
幼い子どもというのは、残酷な一面を持っているものだ。でも、彼女の目に浮かんだ底知れない闇のような怖さは、それとは違うように思えた。そして、成長してからも、私の心になんとなく植えつけられたままで、それでいつまでも彼女に心を許すことがなかったのだと思う。
時には声をかけられても聞こえないふりをしたり、うその用事で誘いを断ることもあった。
はっと目をさました。蝶々が2羽、目の前をひらひらと舞っている。風の音と、水の音がやけに大きく聞こえる。
周りを見渡すと、私たち、ふたりだけしかそこにはいなかった。
「辰彦、……辰彦!」と、私は夫を揺り起こした。
「麦がいないの」
最後まで言い切る前に、夫はバネのように体をはね起こし、跳ぶように立ち上がって辺りを鋭い目線でにらみ、ダムに近い、公園の奥のほうへ走っていった。私は嫌な予感でいっぱいになりながら、反対側の、入り口のほうへ駆け出した。
ややあって夫から「見つけた、だいじょうぶ」とメールが届くまで、生きた心地がしなかった。
心臓は内側から切りつけられたかのように痛み、手足の先が氷のように冷たく痺れていた。ふらふらしながらようやくたどり着いたその場所は、小さな溜池のような場所で、周りをぐるりと桜の木に囲まれ、水面には睡蓮の葉が浮かぶ、どこか幻想的な雰囲気の場所だった。
麦は池のそばにある切り株をテーブルに見立てて、知らない少女と一緒に花かんむりを作っていた。
私の姿を見とめると、少女の母親らしき女性がすっと立ち上がり、会釈をした。ゆったりした白いシャツに、黒のスキニージーンズを履き、洗いざらしたようなウェーブヘアを流したそのうつくしい女性の顔に、見覚えがあった。
相手もはっとしたように目を見開き、私たちの間に、沈黙が流れた。 ややあって、私が「恋子ちゃん?」と尋ねると、彼女はまっ白な雪のような肌を紅潮させて、笑った。私はくちびるの端をきゅっと、上げた。
小学校の卒業式の前の日のことだった。電話で恋子ちゃんに呼び出されたのは近所の公園。私が声をかけると、恋子ちゃんは「しっ」と口の前に人差し指を立て、一方で自分はぶつぶつとなにか唱えながら、手に持っていた棒きれで、地面に不可思議な文様を描き続けた。
彼女は決して絵がうまい方ではない。それなのに、地面に美しく描かれた正円のなかには、細かい線や模様が刻まれていた。
「これはね、ずっと一緒にいられるおまじないなんだ」
彼女の声は震え、人形のような大きな瞳からはぽろぽろと涙がこぼれていた。でも口元だけは笑っていた。私は背筋がぞくりとするのを感じた。
グレーににごった空からは、雪がひらひらと落ちてきていた。からすが電柱の上から、私たちを見下ろしているようだった。
恋子ちゃんは、卒業したら、県外の中学に行くことをぽつりぽつりと話した。ずっと仲良しでいたいと、震える声はやがて嗚咽に変わった。そのとき私は妙な気分で彼女を眺めていた。同じ場所に立って、同じ景色を見つめていたのではない。逆の方向を向いていた。
鬼気迫る表情で魔法陣のようなものを書きなぐる彼女に対する恐怖感。そして、心の底に安堵する気持ちがあり、同時に、それを彼女に悟られてはならないという緊張感がぴりっと張り詰めていた。
彼女が呪いのクローバーを踏み潰すのを見てから、私のなかにはずっと、恋子ちゃんへの得体の知れない怖さがあったのだ。言葉にして、気づかないように心の底へ沈めておくので精一杯だった。
麦のたっての希望で、私たちは、恋子ちゃん親子といっしょにお昼ごはんを食べることになった。
そして気がついた。彼女のどこにも、昔のような不気味さが感じられないことに。相変わらず人形のような端正で冷たい印象のうつくしさがあったけれど、その表情は、子どもたちの一挙一動によって、くしゃくしゃと笑顔の形に変わる。不自然さはない。どこにでもいる、ただの「おかあさん」だった。
最初に恋子ちゃんに再会したとき、私は正直、ぞっとした。あのおまじないの効果が今になって発動したと思ったのだ。でも、そうではないのだろう。彼女の様子からは、どこからもそうした暗いものが感じられない。
そうして気がついた。誰かへの気持ちは、きっかけがなければ、一生同じままだということ。でも、相手は世界のどこかで、なにかを変えながら生きているかもしれないということ。そう考えてみたら、ちょっとしたことで嫌ってしまったままの人がいることは、とても残念なことのように思えた。
よく考えたら、今、私の隣にいる夫だって、中学生のころは私をいじめていた“犯人”なのだ。そんな人と結婚する未来があるなんて15歳の私には想像もできなかった。
今の恋子ちゃんとならきっと友だちになれる。そんな確信があった。