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√365  作者: 三條 凛花
本編
16/32

影のさざ波

ーー影って、こんなだったかしら。


ふとそう思ったのは、児童遊園にいたときだった。目の前の砂場では、息子と近所の女の子が楽しげに笑い声を上げている。砂場を囲むように立つ大きな3本の木。その影になっているこのベンチはとても涼しく、上着を羽織らないで来た私は、時折、自分の体を抱くような格好になっていた。


家から一番近いこの公園に同じくらいの年ごろの子どもがいることはほとんどない。息子と一緒に何度やってきても、遊べるような年頃なのはあの子だけだ。とはいえ彼女たちを見かけるのも、ここ最近はなかったような気がする。


 隣のベンチの端では、若い女性がにこにこしながら子どもたちの様子を見守っている。私の視線に気づいたのか、彼女がこちらを向いた。


「あの、ここ以外の公園も行かれるんですか?」


 そう切り出すのには勇気が必要だった。

 私だけでなく、彼女の母親もまた内気な性質のようで、私たちの間にはいつも、気まずい沈黙が流れていた。だから、何度も顔を合わせているけれど、彼女のことをほとんど何も知らなかったのだ。


「――あの、最近、あまりお見かけしなかったから」


そう続けたあとで、踏み込みすぎただろうか、と少し後悔した。


「あ、あの、実は、春から働きはじめたんです。月曜日がお休みなので、そのときしか来られなくって。ーーああ、そういえば月曜日はずっと雨でしたね。……そう考えたら本当に久しぶりに来ました」


 私に負けず劣らず、どもった感じで彼女は答えた。ふわっとカールした栗色のロングヘアが揺れる。まだ20代前半だろうか。


「そっか、お仕事と子育ての両立って、やっぱり大変なんでしょうね。少し慣れてきましたか?」


 そう言いながら、口角が上がりきっていないことに気がついた。


「そうですね……、朝がバタバタしちゃって。夕飯の準備もままならなくて、お惣菜やレトルトばかりになっちゃってるんです。そういう意味では、自分のことが不甲斐ないなって思うときもあるけれど、でも、なによりも仕事が楽しくって。ーーあ、あかり!」


 あかりちゃんは砂場に飽きたらしい。遊具のほうへ駆け出し、彼女もまた、会釈をして砂場を離れていった。


 ――静かだ。風の音と、鳥の声しか聞こえない。息子は相変わらず、黙々とバケツの水をじょうろや、ほかの道具に移し替える遊びを続けていた。

 砂にもじょうろにも、息子の頬や手の甲にも落ちる、影があった。3本の木々の、葉が重なりあう部分に、いくつもの薄い影の層ができている。さらさらと揺れるそれは、水の底に映る、光と波の影に似ていた。




 ふと、昨夜の喧嘩を思い返す。夫とこの話題で揉めるのは、もう何回目になるのだろう。原因はいつも私の働きたいという願望のことだった。


 子どもは母親のそばにいるのが一番。それが彼の考えだった。保育園に預けるのは「かわいそう」なことなのだそうだ。彼自身、専業主婦の義母に育てられ、おやつは毎日手作りで、ごはんも彩りや栄養バランスがきちんと考えられたものばかり食べてきた。毎日公園に一緒に出かけるのが楽しかったことも覚えている、という。


 私が働くメリットも、何度も伝えた。保育園に預けることで子どもにあるかもしれない変化についても、調べたり聞いたりした範囲でのメリットとデメリットをそれぞれ伝えた。でも、説得できないまま入園の申込期限が過ぎ、私はこうして毎日家とスーパーと公園を往復するだけの生活を送っている。去年も同じことだった。


 日だまりの中で子どもと遊ぶ彼女の表情には、余裕が感じられた。先月まではいつも、ぐったりと疲れ切った顔をしていたのに、血色も良く、子どもにかける声のなかから棘が抜けていた。


 ――こういうとき、考えずにはいられないのだ。

 もし、あのとき違う選択をしていたら、と。たとえばはじめて付き合った星くんと、けんか別れしなかったら? 遠距離になるとわかっても、高校のときの彼と別れなければ? 夫からの告白を断っていたら?


 過去に戻って、昔の恋人といっしょに違う人生を生きたいわけじゃない。だって、今の私はきっと彼らを美化しているだけだから。実際にそうした人生を歩んでみたら、いやなことなんて山ほど出てくるのだろう。


 でも、もし別な道を選んでいたら、今どんな暮らしをし、何に悩み、悲しみ、喜んでいたのだろう。ただ純粋に、気になるのだ。想像してもちっともイメージが湧かないから。




「あの、……よかったら、連絡先を交換しませんか?」


 顔を上げると、彼女が子どもの手を握って立っていた。整った顔立ちはぴりりと張り詰めていた。砂場道具もいつのまにか片づけてあり、すでに帰り支度を済ませたらしい。私がうなずくと、彼女はほっとしたように顔を綻ばせた。可愛い人だな、と眩しく思えた。

 連絡先を交換すると、スマートフォンに「星きらら」という名前が表示された。


「星さんっていうの?」


 私の胸に、さざ波が立った。彼女は、先ほどまでとは打って変わったように、安心しきったほほ笑みを浮かべる。


「変わってますよね。旦那さんとはじめて会った時、私も驚きました。福島の名字なんです。私の名前もあって、すごくキラキラした感じになっちゃってますけど、気に入ってるんです」


まさかね、――と、脳裏に浮かんだ考えを追い払い、私たちも帰宅の準備を始めた。



 公園の入り口で別れた。私たちは左へ、彼女たちは右へ。あちらは新しくて大きなマンションがあるところだ。

 息子の手を引きながら砂場のほうに目をやる。影のさざ波はまだ美しく揺れ続けていた。胸をぎゅっと掴まれたように苦しい。まだ春だというのに、耳元にヒグラシの声が降り注いでくるような切なさがあった。


 星くんと別れたのはこんな場所だった。風が少し冷たくて、公園の日陰のベンチで、彼が上着をかけてくれた。些細なことで言い争いになり、私ははじめて「それなら別れる!」と言った。心にもないことだった。ただ引き止めてほしいという、子どもじみた行動だった。


 そうして、私たちは終わった。素直になれないまま卒業し、たまに思い出しては胸の痛みを感じていた。年々、その痛みは小さくなっていったけれど、本当は、今もまだ、痛むのだ。




 あれから私は、その場の感情に任せてなにかを決めることをやめた。


 スーパーに立ち寄ったものの、いろいろなことを思い出しすぎたのか、頭が働かなかった。とりあえずアスパラと厚揚げと、えのきと、にんじんと、豚肉を買って店を出た。


 これはいつもの肉巻きの材料。厚揚げを包むとボリュームが出て腹持ちがいいし、にんじんとアスパラで彩りを添えられる。そしてくせのないえのきの肉巻きは夫の好物だ。味つけはニンニクバター醤油。

自分のために作るのならば、あっさりした塩レモン味が好きだけれど、「酸っぱいのはいやだ」と彼が言うので用意できない。


 19時。帰宅した夫はドーナツの入った箱を持っていた。

 私たちは特に言葉もかわさず、夫がシャワーを浴び始めたタイミングで、材料を切って巻いておいた肉巻きをフライパンで焼き、配膳をはじめた。そして一緒にテーブルについて、肉巻きをほおばった。


 これは、喧嘩をしたときの、いつもの、暗黙の儀式だった。きちんと謝ることはしない。でも、お互いになにか贖いをするということ。



 いつも通りの私の様子に、夫はすっかり安心しきったらしい。私が息子と自分の食器を下げていると、「ビール」と、夫はひとこと言った。どかりとダイニングのソファに沈み込み、こちらに背を向けたまま、手をひらひらさせて。肉巻きのタレがたっぷりついた皿にお茶碗を重ねている。これで、お茶碗の外側の油を落とす手間が増えた。

 私は無言で洗いものを続けた。夫は、お笑い番組を見て笑っている。洗いものを終えて、息子の寝る前の身じたくを手伝う。夫は終わるとスマートフォンに没頭していて、声をかけても返事がなくなった。



 私は大きく深呼吸をした。こういうとき、涙があふれるのだろうと思っていたけれど、決してそうではなかった。私の中には、燃えるような感情だけが滾っていた。

 息子の寝かしつけを終えて、リビングに戻る。そして母子手帳などをしまっている”大事なもの引き出し“の奥から、折り畳まれた離婚届を取り出し、夫に渡した。


 夫はうるさそうにイヤホンを外し、手渡した書類に焦点をあてたまま硬直し、ややあって「昨日のことなら……」としどろもどろになり、言葉をつまらせ、眼鏡の位置を何度も戻した。


「昨日のことだけで、こんなことはしないわ。そうじゃないのよ」


 喉の奥が熱い。声はうるみ、かすれて消えていった。

 子どもが生まれてから、何度も叫びだしたかった「別れたい」という言葉。これまではぐっと飲み込んできた。そしてよく考えた。想像した。反省もしたし、いろいろなことを調べたり、聞いたりもした。


 ーーこれは決して、一時の感情に流されたわけじゃないのだ。昨日のことは、これを渡す時期を早めただけに過ぎない。


 私はまた、分岐点に立っていた。

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