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√365  作者: 三條 凛花
本編
15/32

こころの輪郭

朝起きて、カーテンを引く瞬間が好きだ。窓をいっぱいに開けて、空気を入れ替えると、体も心もすうっと覚醒する。次にするのはベッドメイキング。ふとんをふわっと持ち上げる。ふっくら、ふんわりとするととても気持ちがいい。


 それから身じたく。顔を洗って、保湿をして、化粧。仕上げにするのがエプロン。そのあとは、まずは夫と子どもたちのお弁当作り。彩りに栄養バランス、食べやすさも考えてメニューを組み立てる時間が幸せだ。


 月曜日はバイト。

 火曜日は内職。

 水曜日もバイト。

 木曜日もバイト。

 金曜日はパン教室。


 合間に、1円でも安いスーパーを探して、電動自転車で向かう。そうして家計をやりくりして、なんとか捻出した、ひと月分の、自分用にと決めたお小遣い。そのほとんどすべてをパン教室に注ぎ込んでいる。



 でも少し憂うつに感じるようになってきた。最近、同じ教室の御津川さんとのつき合い方に困っているのだ。 ――決して、悪い人ではない。パン教室では新参者で、ほかの生徒たちとは金銭感覚も違う私にも、同じように接してくれる。ひとりでいると声をかけてくれる。帰りにお茶に誘ってくれる。

 でも、彼女の言葉の端々に、もやもやした気持ちを感じることがあるのは、否めない。


「そうそう、そういえば、どちらの流派で茶道を習っているの? ……あら、習っていらっしゃらないの。どうして? ……まあ! ……そう、でも、ご主人にお願いしたらお小遣いをいただけるでしょう。話してみたらいいのよ。にっこり笑って伝えるのがコツなのよ」


 御津川さんの微笑みは、春の日だまりのようにやわらかかった。そこに悪意は微塵もない。

 私は血の気が引くってこういう状態のことを言うのかと思いながら、同時に、胸の芯のところがびりびりと熱くしびれていくのも体感していた。


 パン教室に通うために、1ヵ月かけて夫を説得した。決して、彼が意地悪なわけではない。私たちの家計を考えるとあまりにも贅沢だ。子どもが12cmのヒールを履くようなものなのだ。

 そして、極めつけのひとことに打ちのめされたのは先月のこと。

 その日、私たちの話題は、子どものお弁当についてだった。朝作るのが面倒だよねとか、メニューを考えるのがきらいだとか。だから、お弁当作りが大好きで幸せな時間だとは言い出せずにいた。



 教室が終わったあと、御津川さんと2人でお茶をした。私の1時間のアルバイト代と同じ値段のケーキ。ひと口ひとくち、ゆっくりと口に運ぶ。


「皆さんのお話、私にはよくわからなかったわ」と御津川さんが言った。「自分で作らなければいいのに」と続けた。そう言いながら、彼女はくっと紅茶を飲み干した。もうケーキはなくなっている。


「家事をさせられているなんて、かわいそうだわ。自分の時間がなくなってしまうじゃない。すべて家政婦さんにお任せしたらいいのよ」


 翌週から、御津川さんに話しかけられても、笑顔で接することができなくなった。

 同じようなことを言われた人がほかにもいたらしく、気がつくと、彼女は孤立していた。でも御津川さんは、それにさえ気がつかずに、いつものように、にこにことしていた。


 言葉にできないもやもやした気持ちは、夫にぶつけてしまった。大学時代からのつき合いである彼は、手慣れたもので、「なにがあったの?」と察したようだった。


 それではじめて、自分が彼に八つ当たりをしたことに気がつき、謝り、そしてこれまでのことを打ち明けた。


 話を聞き終えると、彼は、チラシの束(裏紙を使おうと私がとっておいたもの)とペンを差し出した。


「もやもやしてるから、いらいらするんだよ。もやもやの正体がわかれば、どうすればいいかわかると俺は思うな」


 彼が眠ったあと、私は書き出してみることにした。私が知っている彼女のことを。


 御津川さんは、私より5つ年上。専業主婦。月曜日は乗馬。火曜日はヨガ。水曜日は茶道。木曜日は華道。金曜日はパン教室。

 旦那さんが超高収入。都心の海が見えるタワーマンションに住んでいる。お嬢様育ち(少女時代の話を聞くとそう感じる)。子どもが3人いる。

 人と話すのが好き。涙もろい。情に厚い。困っている人を放っておけない。

 通いの家政婦さんがいる。結婚してから10年、1度も家事をしたことがない。


 書き出してみたら、私は、私の気持ちの輪郭が見えてきたことに気がついた。


 そうか、私は、御津川さんの言葉「だけ」に怒っていたんだ、と。

 それは自分が大切にしているものを、踏みにじられたような、悔しさからできた感情だ。だから、彼女を責めるような感情しか湧いてこなかった


 でも、彼女は、彼女の価値観で生きている。家政婦さんにお金を払ってしてもらう家事を、同じ”妻”である私たちが無償でするのはかわいそうなことだ、と。

 その考えは、彼女の環境では当然のことだったのだろう。無神経だったと思うけれど、やはり、そこに悪意はない。純粋な気持ちで言った言葉だ。……そして、私は御津川さん自身を嫌っているわけではない。


 ほっとすると、あくびが出た。気がつくと午前時を回っていた。

 もやもやした気持ちの正体がわかったら、明日、私がするべきことがわかった。私の価値観を伝えること。私が家事を好きでやっていることを彼女は知らない。かわいそうだなんて言われたら、腹が立つ。でも、だからといって、御津川さんをきらっているわけではない。こういう考えもあるって理解してほしい。否定しないでほしい。


 自分の気持ちをひとことも告げないまま土俵を降りてしまうのは、フェアじゃない気がした。どんなふうに切り出そうか考えているうちに、眠りに落ちていた。久しぶりに心地よい眠りだった。




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