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√365  作者: 三條 凛花
本編
12/32

くもっためがね

 目を覚ますと、いつものように夫の姿はなかった。お仕事が忙しいのね。私はつぶやいた。


 下に降りると、温泉行きのチケットと、まだ温かい朝食と、チーズケーキがテーブルに置かれていた。横に添えられた四つ葉模様の便せんには「どうかゆっくり休んでください。いつもありがとう」と書かれていた。

 ピカピカに磨き上げられた古いシンク。水を一杯飲んで、グラスを洗い、シンクの水滴も残らず拭き取った。きれいな場所は汚したくない。汚したくなくなるほどきれいだから、この家はいつでも清潔なのだ。



 一人で家を出るなんて、と思ったけれども、チケットは指定席だった。今日の14時に東京駅を出る新幹線だ。いわゆるサプライズプレゼントというものだろうか。少し迷った末、たまには動いてみようと、私は押し入れの奥からスーツケースを取り出し、一泊分の荷物を詰め込んで、家を出た。


 東京駅の待合室に座っていると、魔女のような姿の老婆に話しかけられた。


「この道でいいのかい? 本当に」


 怪訝に思ったけれど「O駅行きはXX番ホームですよ」とだけ告げた。老婆は憐れむような目をしてこちらを見ていた。




 夫の雅也とは高校の入学式で出会った。隣の席になった、精悍な顔立ちのその人に、私はひと目で恋に落ちた。信じられないことに、冴えない私と彼が恋仲になるのに時間はかからなかった。


 雅也はすぐに私を家族に紹介した。義母は私のことを娘のようにかわいがってくれ、事あるごとに手作りのお菓子を彼に持たせてくれた。そういうとき、あまり誰も来ない、4階の視聴覚室の裏に私をこっそり呼び出すと、小さな紙袋を手渡し、そっとキスをして戻っていった。


 帰りに公園に寄って、包みをほどくと、実家では出ないような洒落たお菓子がいつも入っていた。リーフパイにマカロンにアップルパイ。どれも素敵な手作りのお菓子だったけれど、でも一番好きだったのは濃厚なベイクドチーズケーキだった。




 お湯に身を沈める。しみるような感覚があった。温泉に来るなんて、一体何年ぶりだろう。22で結婚してから一度もないのではないだろうか。平日の夕方だったけれど、観光客だろうか。小さな男の子も入っていて、私を指差していた。

 居心地が悪くなって、大浴場から出る。部屋に戻ったものの、手早く着替えたからか、髪の毛はまだ少し湿っていた。ふわふわのタオルで押さえながら、ふと窓を開ける。夕日が海に沈んでいくところだった。じゅっと音がしそうなくらいに、赤い夕焼けだった。


 用意されていたのはチケットだけではなかった。豪勢な海鮮料理も振る舞われた。一人だけこんな贅沢をしていいのだろうか。なんだか後ろめたい思いがしたものの、私はビールをくっと喉に流し込んだ。ビールを飲むのも結婚して以来かもしれない。

 敷かれたふとんの上に寝そべって、ごろごろと転がった。駅で買った漫画を何冊も何冊も読んだ。ーーなんて、自由な時間なのだろう。思い切り伸びをして、もう一度露天風呂に入りに部屋を出た。




 戻ってくると、携帯のランプがちかちかと点滅している。手に取ったとき、勘当されたはずの父親の番号が表示された。


「今どこにいるんだ」


 恐る恐る電話に出ると、数年ぶりの父の声が、今までに聞いたことのないような声色で響いた。怒り、焦り、いや、安堵? なにかを早口で言ったあと、「早くテレビをつけろ」と、父は続けた。


 テレビには夫と義母の名前が表示されていた。無理心中、火災、遺書……。耳慣れぬキーワードを拾うだけでも精一杯だった。


 呆然としていたら、仲居さんが現れ、「21時になったら渡すようにと言われていました」と、白い封筒を差し出した。そこには「めがねをはずしてください。本当の姿を見て」と書かれていた。義母の文字だった。



 それが、私がこの7年間かけていた、情という名の曇ったぼろぼろの眼鏡を捨てる勇気をくれた。


 雅也とのはじめてのデート。待ち合わせはいつも、カラオケボックスの中だった。誰にも見つかってはいけないのが私たちのデートだった。帰りだって外に出たら離れる。ふつうの恋人同士のように手をつなぐものだと期待して、どきどきしていたのに、「クラスメートには知られたくないから」と、外でも雅也は私から数十メートル距離をあけて歩いていた。


 付き合って3ヵ月目に振られた。理由は「勉強に集中したいから」だった。数日後、「やっぱり別れるのはよそう」と言われた。私たちの事情を知らないクラスメートが「雅也は隣のクラスの子にふられたらしいよ」と話しているのにも耳をふさいだ。


 バレンタインの夜、バス停でようやく捕まえた雅也にチョコレートを渡すと、どんなにたくさんのチョコをもらったか自慢された。我慢の限界だと「あなたは人のことを考えられないのね」と言ったら、彼は激高し、別れ話になった。


 いつもは泣いてすがっていたけれど「いいよ」と私が言うと、途端に雅也が泣き出した。根負けした私が「やっぱり別れるのはよそう」と告げると、今度は「いや、一度切り出したことを取り消すなよ」と、今度は私が泣く番だった。


 数日後、彼に呼び出された。私は復縁できるのだと喜んだが、そうではなかった。彼は言った。


「おまえのことは結婚相手として考えてるんだ。清楚で家庭的で、まさに結婚したい相手だと。

でもさ、俺はまだまだ遊びたいんだよね。25歳を過ぎたら、そのとき、結婚しよう」



 何を言っているのか、意味がわからなかった。そして翌日、雅也はクラスの女子とつき合い始めた。どうどうと手を繋いで帰っていくふたりを、引きちぎられそうな気持ちで見つめた。数ヶ月後、二人は別れ、雅也はまた別な女の子と付き合った。そういうことが卒業まで何度もくり返し続いた。



 それから数年が過ぎ、久しぶりに再会した雅也は私にプロポーズをした。

 どうして、ほだされてしまったのだろう。落ち着いて考えればわかることだったのに。両親には勘当されたが、彼についていくことを決めた。


 あの家に雅也が帰ってくることはほとんどなかった。私は一日のほとんどを義母と過ごした。それはとても楽しい時間だった。一緒に料理を作り、分担して掃除を行い、チーズケーキの作り方も教えてもらった。私たちが自由に使えるお金はほとんどなかったけれど、工夫して楽しむ方法を探すのが生きがいだった。


 雅也の父は暴力を振るう人で、浮気性で、事故でなくなるまで義母は苦労しっぱなしだったと聞いた。そして、雅也はどうやら父親の遺伝子を色濃く受け継いでいたらしい。いつからか雅也がいない夜に安堵を覚えるようになっていた。





 雅也がなくなったとテレビで報道されている。画面の向こうでわが家がもくもくと黒い煙を出している。


 でも、それは遠い世界のことのように思えた。めがねをはずした私の心には、悲しさのかけらも見当たらなかった。だって私は彼の、ただの「家政婦」だったのだから。彼がつきあう、ともすれば軽そうに見える女の子たちと違った「地味で堅実な世間体の良い妻」だったのだから。

 私は、もう一度手紙に視線を落とす。「自由になってね」という義母の、震える手で書いたであろう、みみずのような文字に。それから昨晩殴られたおなかをさすった。



 目頭は燃えるように熱く、視界はまっ白だ。悲しさはない。あの人がいなくなったって、私はなんとも思えない。でも、あのチーズケーキを焼いてくれた優しい義母はもういない。私たちは2人きりの同志だった。私がしっかりしていたら、きっと、別な道があったはずなのだ。足元が崩れ落ちるような、そんな感覚に陥った。



2020年7月23日


老婆のシーンを付け足しました。

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