幸福の在り処
ノックの音がして、兄が立ち上がった。兄の視線につられて扉の方を見ていたシルビアは彼を見上げる。
「シルビア、君が君の幸福がある道に行けるよう願っている。私は、席を外そう」
「兄様」
「一度、話をしてみるといい。決断するにはまだ猶予がある」
シルビアに微笑みかけ、兄は部屋を後にしていく。話をする、とは、誰と?
人払いがされていた部屋の中に、ぽつんと一人になったシルビアは、呆ける。
ぱちぱちと瞬いて扉を見ていたけれど、誰も入ってくる様子がなくて扉から視線を離しかけた。そんなときだった。
また、ノックの音がした。
侍女だろうか。兄が出たと見て、部屋に戻ってきたのだろう。
「はい」
中を見れば誰もいないと分かるから、扉を開けてもいいという意味を込めて、簡潔な返事だけをした。
だから扉が開かれて、ノックしていた人が入ってきた。
アルバートだった。
「──」
唐突な登場に、一瞬息が止まった。びくりとして、椅子の上で固まって。
そんなシルビアに、アルバートが「話がある」と言った。
「は、はい」
ようやく動いたシルビアは、ぱっと立ち上がり、返事した。
落ち着くのだ。緊張することはない。さっきまでしていた話が話だから……。
結婚の話が出ただけで、何も緊張することはない。シルビアは騎士団にいると決めたのだから、これからも変わらない。変わらないために、緊張することはない。
扉を閉めたアルバートが歩み寄り、そこに来るまでには、突発的な緊張は収まっていた。
アルバートが椅子に座って、シルビアも座る。位置は、兄が椅子の配置を戻していったのに関係なく、テーブルの向こう側だった。
慣れた以上でも以下でもない、通常の距離、いつもの目線の位置からアルバートの目がシルビアを捉える。
「結婚の話は聞いたか」
普通の鼓動を刻んでいたはずの心臓が、飛び跳ねた。
「……はい」
戻ってきた緊張を出来る限り抑えたが、体が勝手に身動ぎした。
落ち着く、のだ。シルビアが騎士団にいると決めた以上、その話をアルバートとするはめになろうとは思っていなかったが、決めたのだから。決めたことを言えばいいだけ。
「俺は、お前がいいのなら、その話を進めていきたい」
「────え」
シルビアは、アルバートを凝視した。
けれど、すぐに、
「いいえ」
止まっていた動きを取り戻し、シルビアは大きく頭を振った。
「私は、騎士団にいようと思っています」
だから、結婚の話を進める必要はないのだ。
だから。
「アルバートさんは、アルバートさんが選んだ人と結婚、してください」
何か考えた結果、結婚の話を進めようとしてくれているのかもしれない。でも、シルビアにはもう一つ選択肢があるのだから。
ろくに心構えしていなかったせいで、言うのに少し苦労した心地だった。
「俺は」
彼は、そうか、とは言わなかった。
こちらを映す灰色の目に、いつか、どこかで見たような眼差しが混ざっていると思った。
「俺は、お前に戦って欲しくない。戦でなくとも、もう剣を持って欲しくない」
以前、戦場に立って欲しくないと言われたことが思い出された。
「シルビア、お前が強さを欲した理由はヴィンスだろう。他に後からお前を駆り立てたものではなく、お前が自分から戦場に臨もうと思ったのも。だがもうヴィンスは解放された。立ち向かうべきものはもうない」
確かに、そうだ。
シルビアの唯一の目的は達成された。兄との再会は叶った。シルビアが強さを得たいと思った理由だ。
「自分の意思で戦い続ける理由がないなら、俺は、もうそこに立たせたくはない」
彼が、「立たせたくない」と言う『理由』は何なのだろうかと、シルビアは戸惑う。
そんなやり取りを、戦場でした。けれど、あのとき答えは出なかったのではないだろうか。言葉が、次へ次へと移っていった。
分かりそうな感覚が、すぐそこにありそうで、やはり分からない。理由を探す頭が理由をつけてみても、しっくりこない。違う、と言う。
シルビアが何か言える前に、シルビアの様子を見てか、アルバートが、「……いや、こういう言い方は止めだ」と首を振った。
「シルビア」
「──はい」
「俺は、今からお前が急に言われても戸惑うだろうことを言う」
戸惑うだろうこと、とは。
とりあえずシルビアが頷くと、アルバートが一度、ゆっくりと目を閉じて、開いた。
その目は、さっきからと変わらずシルビアを真っ直ぐ捉えた、だけのはず、だった。
「好きだ」
その一言は、しっかりとシルビアの耳に入ってきたけれど、理解が出来なかった。
正しくは、聞いたことのある言葉だったのだが、アルバートからシルビアに向けられたことのなかった言葉で、とっさに意味を捉えることが出来なかった。
しかし。
「義理の妹という意味じゃなく、──一人の女として、愛している」
他の意味を探る暇もなく、真っ直ぐな言い方だった。
シルビアの体が、無意識にびくりと小さく震えた。
アルバートは、今、何と言っただろう。
聞き取れていて、直接的な言い方ゆえに言葉の意味を曲解することはなかったが、何しろ、理解の域を越えた。
そんな中、シルビアを映す灰色の目が、知っているようで知らない目だと気がついた。
確かにアルバートなのだけれど、その目は知らない。目の印象を変える感情の種類と、意味は──アルバートに見たことがなかったものだった。
「お前に戦い続けて欲しくない。『女神』として扱われて欲しくない。それも全部俺の想いだ」
言われたことがある。
ここで、そして、戦場で。
その全ての場で、シルビアは分からないことがあった。シルビア自身は受け入れると決め、覚悟したことで、シルビアがこの国にいる以上差し出すべきものでもある。
シルビアに分かっていて、アルバートが分からないはずはない。それなのに、アルバートがあれほどまで言うことに戸惑った部分さえあった。
でも、今、それがなぜだと明かされた。
「お前に幸福を得て欲しい。俺にこう言うことが許され、俺がその平穏と幸福を与えられるのなら。俺は願うだけじゃなく、自分でそうしたい」
灰色の目からも、アルバートからの感情が伝えられているようだった。そんな眼差しで、彼はシルビアを見続けていた。
「だから、俺には結婚の話を進めることを否とする理由は一つもない。──ただ、お前に無理強いもしたくない」
何ということだろう。シルビアが思っていたようなことを言われた。
アルバートに強制されて欲しくない。アルバートが望まないのに、その道を選ぶことはあり得ない。
そう思って、いたのに。
「だが、俺がお前を一人の女として見ることに困惑するというのなら今すぐ止めよう」
シルビアは、声を出せなかったけれど、首を横に振った。
急いで振った勢いで、その拍子に、目から流れ落ちたものがあった。
ぽろぽろと、一滴だけではく、涙が続けて流れていく。
──あいしている、とは、兄の言った通り、シルビアにとっては苦手とも言える言葉だった。
耳の奥にまで染み付いたような、『彼ら』がよく言っていた言葉だったからだろう。
うつくしい、あいしている、めがみ。
美しい、と言われることは、今も度々ある。
言ってくれる養母たちの表情を見ていると、嬉しいと感じながらも、かつてシルビアにそう言い続けていた声が甦り、どこかで苦手意識を持っていた。単なる音の連なりに聞こえていることもあった。
愛している、とは、こんな言葉だったろうか。
兄が愛していると言ってくれた。そのとき、嬉しかった。
けれど、今はまた少し違う。言葉を受け、生じてきた感情で、いっぱいいっぱいになる。
「──」
声が出なかった。
アルバートが、急に涙を流し始めたことに驚いた表情をする。
「シルビア?」
どうしたのかと問う声の響きで、ますます涙が溢れる。
嬉しいのに、どうして涙が出てくるのだろう。心が幸せでいっぱいになって、溢れ出たものが、涙になっているよう。
そう、想像も出来なかった言葉は、心を嬉しさで満たした。
こんなこと、あるとは思ってもみなかった。
アルバートが、自分との結婚を望んでくれると、そんなことが。
「──すき、です」
伸ばされていた手が、止まった。
シルビアの声は、とても小さかった。
自分にこの言葉を言うことが、許されると言うのなら。
「あなたのことが、好き、です。アルバートさん」
シルビアは、涙に濡れた瞳で、真っ直ぐにアルバートの目を見つめ、思いを口にした。
思いもよらなかったことだったけれど、あなたのその言葉に困惑することはない。結婚は無理強いではない。
ただ、ただ、信じられない思いで。胸がいっぱいで。涙が溢れていく。
シルビアの言葉に、制止していたアルバートは、同じく止まっていた手を伸ばす。手は、シルビアに触れた。
「それは、単なる『家族』としての親しみでは、なくてか」
そうであればと思ったことがあった。でも、違う。消えてなくならなかったこの感情は、深く、心に浸透してしまった。思い通りにならない想い。
シルビアが首を振ると、アルバートは一度瞬きし、優しい手つきでシルビアの涙を拭った。
「じゃあ、俺が、騎士団に居続ける道ではなく、俺と結婚する道を選んで欲しいって言ったら」
シルビアの目元を指で柔く撫でながら、彼は言う。
「俺との結婚を、選んでくれるか」
アルバートのその言葉に。
涙を拭ってくれているのに、大粒の涙が新たに零れた。視界が滲んでしまいながらも、シルビアは、一度しっかり頷いた。
この人が、望んでくれるなら。シルビアに許されるのなら。
シルビアはその選択肢を──わがままにもアルバートを想い、側にいることを望みたい。
シルビアの頷きを受け、アルバートはおもむろに手をシルビアから離し、椅子から降りた。
降りた、のだ。
そのまま彼は、床に膝をつき、シルビアを見上げた。
見慣れない位置だった。
驚くシルビアに、アルバートは手を差し出し、見つめる者の名前を呼んだ。
「シルビア」
と。
名を呼ぶ声音は、これまでにない響きを持っていた。
「俺の妻になってくれるか」
同じ声音で言われたことに、シルビアは涙を流したまま、
「はい」
と言って、そっとその手を取った。
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