負けないように
髪は、黒い色素が落とされてしまっていた。まとめる紐もなくなった銀色の髪が、床に向かって伸び、毛先が揺れている。
衣服は、白い布が幾重にも重なったもので、手首と足首には金色の枷がある。枷に繋がる鎖はベッドの柱に。
──逃げてはならない。逃げない。
そう思い、覚悟をした。では、逃げるとはどうするのだろう。
懸命に集中させようとした思考は滞る。
逃げる。この部屋から出ればいい。それだけのはずなのに、思考が進まない。
この部屋は自分から出るものではなくて、それ以外では出てはいけなくて。それが当然だった。
兄が来ない限り喋ることもなく、動くこともあまりなかった。何も考えず、毎日ただひたすら時間が過ぎていった。朝起きて、食事の時間を挟み、夜寝る。大抵はそんなものだった。
視界はベールで白く煙る。
ここでの生活、光景はほとんどこのベール越しで、変化もなかったせいで、振り返ったときにどれほどの歳月が経っていたか知ったくらいだった。
ジルベルスタイン家にいた年数は、全くここにいた年数を越えられていない。それでも、直近だからではなく、ジルベルスタイン家での記憶の方が鮮やかで、日々を覚えている。
けれど不思議なことに、ぼんやりしているここでの記憶は頭にこびりつき、明確に残り、いざここに戻ればやはり長かった気がするのだ。
ベールが少し、捲られた。視界の端が急に明瞭となったことで、そちらを見ると、そっと、ティーカップを口に当てられた。
中には、茶色のお茶らしき液体が入っている。それを、わずかにだけ傾けてシルビアが飲もうとするのを待っている。
「──自分で飲めます」
言葉は、意識するより先に飛び出ていた。
ビクリ、とティーカップごと手が揺れ、危うく液体がティーカップの縁を乗り越えようとした。
慌ててシルビアがティーカップを支えると、手と触れ、大きく手が震え、今度こそカップから液体が飛び出してきてしまった。
お茶は、あっと思う暇なく、シルビアの衣服に落ちる。白い衣服に、数滴分の小さな模様が出来た。
小さく声が聞こえた。女性が、シルビアが見た瞬間にさっと目を逸らし、顔を伏せた。顔は強張り、蒼白だ。
カタカタと震える手がティーカップを卓に戻し、その目が衣服についた染みを凝視し、震える手がその周りの布に触れる。目が、素早く扉の方を確認するように見た。
「あの、すみません」
シルビアが声をかけたときに、驚かせてしまったようだから。謝ると、また手がビクリと震えた。扉を見ていた目が思わずといったようにシルビアの方に向いて、目が合って、やはり逸らされた。
彼女は、深く深く礼をして、扉の方へ去っていった。
他にいた女性が、しばらくして動き始め、濡れたティーカップを下げ、新たなものに淹れ直してシルビアに差し出す。
「……ありがとう、ございます……」
シルビアの声は、尻すぼみに消えていった。
喋らない方が良い気がしてならなかった。
特別お茶を飲みたいとは思っていなかったけれど、大人しく受け取っておく。
意識して止め方の分からない涙が依然として流れ続けているので、ティーカップの中に落ちないか心配だ。
渡されたからには、飲んだ方がいいと思って、お茶に口をつける。味は感じなかった。
お茶を飲みながら、ベール越しに、控えている女性の様子を窺った。彼女は、目を伏せ、顔も伏せ気味に立っていた。
過去も、こんな感じだった、だろうか。
誰かと視線が合ったことはなく、彼女たちはいつも顔を伏せていたのではないだろうか。
同じ人たちなのだろうか。
顔が窺えても、そんなことが分からない。彼女たちはシルビアの世話をしてくれていたというのに、その頃のシルビアにはそれが当然で、外に自分から意識を向けたことはほとんどなかった。
朧気な存在に認識されていた。
ベール越しに、近くの女性に思いを馳せていたシルビアの意識が、不意にくらりと揺れた。
一瞬。されど、残る感覚がある。
何だろう。
一度出た違和感は、存在感を増す。このまま気のせいだと断じてはいけない感じがした。不吉な予感、に似たもの。
お茶……?
意識の揺れのタイミングに、頭のどこかがそんな考えを寄越した。このお茶のせいでは、と。
流れ続けていた涙が、お茶に落ちた。小さな水面に、波紋が生まれる。
逃げなければ。
思ったそれは、今度は強かった。 意識が揺れるお茶。この部屋に繋ぐ鎖。以前と同じ衣服とベール。『彼ら』。
『彼ら』に囚われていてはいけない。同じ環境に捕まってはいけない。ここは、嫌だ。
次いで、『彼ら』に何かを咎められ、部屋から連れ出された女性を思い出した。さらに、ついさっき、お茶が零れただけで顔色がすこぶる悪くなった女性。
──過去に、同じような光景を見たことはなかっただろうか。朧気で、薄すぎる記憶の中。白く曇る視界の向こう側で。同じ光景を──。
かつても、このような様子だっただろうか。雰囲気、彼女たちの様子。
同じ環境で、様子なのだとして。
言葉を発すると手が揺れ、シルビアの手と触れるとまた大きく手が震え、シルビアが見た瞬間にさっと目を逸らし、顔を伏せた。
それらが一気に思い出されたとき、ここにいてはいけない、と思った。
なぜか、理由は分からない。感覚だ。彼女たちの様子に対しても、シルビアは自分がここにいてはいけないと感じた。
分からないけれど、シルビアがやるべきことは一つではないか。
ここから、逃げる。逃げるのだ。逃げない、の反対をすればいい。逃げないのは、その場から決して後退しないこと。その反対。後退する。『彼ら』から離れる。この部屋から出ていく。
あの日、連れ出してくれた兄の手はない。
初めて泣いたとき、シルビアの側にいてくれたアルバートはいない。
それなら、自分で逃れるのだ。
シルビアはここにいてはいけない。かつて自分を逃がしてくれた兄の思いもどうなってしまうのか。
兄、と思い出すと、涙が溢れて来そうになるけれど、シルビアは手で涙を強く拭った。
逃げる。あの扉から、部屋の外に出て、建物を出ればいい。簡単だ。
出た後のことは分からないけれど、まず、この部屋から出なければ話にならない。
大丈夫、出られる。誰に言われなくとも、この椅子から立ち上がり、扉まで歩いていき、開ければいい。
「……大丈夫……」
大丈夫。この部屋に戻ってきたからと言って、かつての状態には戻らない。
この国の外で、自分の意思を得た。自分の意思で話せる。さっきだって、声が出た。ここで話しかけることもなかった『彼女たち』に話した。
立てるし、歩ける。走ることだってできる。行動できる。外にも出られる。外には戸惑わない。──大丈夫。大丈夫、と心の中で自分に言い聞かせるように言い続ける。心が、この部屋に負けてしまわないように。
ただ──逃亡を心に決めても、この部屋から出るだけでも問題が幾つもある。
まず、枷。
次に扉。鍵は出入りの度に一々閉められているようで、中からは開けられないのか、女性たちは内側からノックして外から開けられた上で出ていっている。
枷は、神通力で剣を出せば絶ち切れるとして、どうやって出るか。この部屋にも今女性が一人おり、外には扉についている人がいるようだ。
女性がいなくなって、行動出来るようになったとして、果たして扉の外にいる人はシルビアを通してくれるだろうか。扉が開けられた瞬間に、走り出して、撒くことは出来るだろうか。
窓はどうか。一つだけある窓に気がついて、そちらをちらりと見てみる。ここは、どれくらいの高さの部屋だったろう。飛び降りることは、可能だろうか。一気に外に出られると考えると、窓からが一番早いように思える。
しかし何より、この部屋から人がいなくなってもらわないことには始まらない。
どうにか、『彼ら』がまた来ない内に逃亡を──。
逃亡の機会を窺い始めるシルビアだったが、扉が開き、一人誰かが入ってきた。人がいなくなってくれないことにはと考えていた矢先、人が増えてしまった。
入ってきた人は、やはり顔を伏せていて、手に白い布を持っていた。お茶が溢れたからシルビアの着替え、なのかもしれない。
シルビアの傍らにいた女性が気がつき、手伝うためか近づいていく。
まさか、この部屋から人がいなくならないようにされていることは、あり得るだろうか。その可能性があるのなら、どうするか。
ぱさりと、何かが床に落ちる音がして、意識を逸らしていた方に、注意を引かれる。衣服と思われる布の塊が床に落ちていて、その上に──女性が落ちた。
何気なく意識を向けていただけだったシルビアは驚いて、すべての意識を持っていかれた。
見ている間にも床にそっと横たわらせられているのは、こちらに背を向けていることからして、今までシルビアの側にいた女性。
そして、その女性を丁寧に横にした手の主は──たった今、白い布を手に入ってきたばかりの女性。
その女性が、シルビアが見ている前で身を起こし、顔を上げる。
「逃げてください」
この部屋で初めて話しかけてきた女性は、そんなことを言った。
明日の更新は休ませていただきます。




