どうか
シルビアの部屋は簡易的に別に移った。
使っていた部屋は、扉の鍵が壊され、扉自体にも貫かれた跡があり、絨毯に血の染みが残っている。修理がまだだということもあるが、念のため部屋を変えた方がいいとの判断だった。
シルビアは、その、昨夜まで使っていた部屋に入った。
瓶は、転がっていなかった。
「お嬢様、どうかされましたか?」
床をじっと見ていると、ついてきている侍女と侍従の内、侍女の方が尋ねた。
「……ここに、瓶が、あったのですが、どうしたのか知りませんか」
「いえ……瓶があったことも、私共は存じませんでした」
そうですか、とシルビアは下を見続ける。アルバートが回収したのだろうか。
あの瓶を、探しに来たのではなかった。瓶がまだあったところで、どうしただろう。
次は直視することが出来たろうか。拾い上げることは、きっと、出来なかった。
「シルビア」
シルビアは顔をゆっくりと上げた。
いつの間にか、部屋にアルバートが入ってきていて、侍女と侍従の姿は室内からなくなっていた。
「部屋なら、あっちの部屋で過ごすよう言っただろう」
「すみません。神剣を、取りに来ようと思って……」
嘘ではない。シルビアが部屋を移っただけで、シルビアが普段使っていたものは移動していない。
ただ、神剣は机の横のスペースに収まっており、今のシルビアからは少々離れている。
事が起き、まだ半日も経っていなかった。空が白んできたくらい。いつもなら、使用人が起きはじめる頃合いだろうか。
家の中は、静かに忙しない。シルビアだけはやることも、出来ることもなく、時間が過ぎていっていた。
休んでいろと言われていたけれど、目は冴え、眠気は一切ない。
「……四名、亡くなったと聞きました」
ぽつりと、シルビアは呟くように言った。
夜、死人が出た。
門番と、中で定時の見回りをしていた者だ。
誰かが、直接シルビアに言ったのではない。ここに来る途中、耳にした。
「お前は気に病むな。……相手が悪かった」
此度は相手が悪かった。
アルバートはそう言ったけれど、申し訳なくて、悲しくて仕方がなかった。
彼らはジルベルスタイン家の者だ。毎日、顔を見ていたし、短くとも言葉を交わした。
侵入者が来たのは自分ゆえだ。ならば、起きた全てのことは自分のせいではないのか。
アルバートを見ていられなくて、視線を落とすと、さっきまで見ていた場所が目に入る。
──瓶の中身が、瞼の裏にちらつく。
「シルビア」
顔を上げさせられた。
アルバートが、明らかになったシルビアの顔に、表情を歪めた。
「昨日見たものは、忘れろ」
言い聞かせるように言われたけれど、そんなことが出来るはずはなくて。
シルビアは突きつけられた現実に、渦巻く感情を持て余す。でも、アルバートに言うのは憚られた。
唇を開いてしまわないように、堪えた。
「……無理な話か」
アルバートの灰色の瞳が、一瞬翳った。
「なら、言え。今考えてしまっていることを、吐き出せ。──お前が一人で抱え込まなければならないことなんて、一つもないんだ。俺が聞く」
きっと。
きっと、シルビアがこの地で一番信用しているのは、アルバートだ。最初は、『彼』が──兄がそう言い残していったからだ。信用出来る人物だ、と。
最初は「信用」の意味が分かっていなかったけれど、兄が大丈夫だと言った、「大丈夫な人」だと分かっていた。
今は違う。その人柄を知り、シルビア自身が信用している。兄のことを、最もよく知っているのもこの人だと分かった。
「……兄様は」
シルビアは、アルバートを兄とは呼んでいない。
そう呼ぶ人は、随分前に別れたきり。もちろん現在ここにもいない。久しぶりに音にした。
「兄様は、どうして、私を外に出してくれたのでしょう……。自分は戻って、そんな目に遭ってしまうのに……」
瓶の中に浮かぶ、一つの目。
あれが兄のものか、どうか。分からない。けれど、あの日、一人戻っていった兄は成したことを知られたのだ。いつ。いつから。
「……兄様には、一体、どんなメリットがあったというのでしょう」
『その国』の人間でもあるのに。
シルビアを外に出すことは、国のためにはならず、昨夜示唆されてしまったことでは兄自身にはデメリットしか起こらないことだったはずだ。
そんな目に遭うのに。
正確に言えば、シルビアのこの考えは生まれたばかりのものだった。
あの瓶を見るまで、想像もしていなかった。兄が、そんな目に遭ってしまうこと。具体的に、他にどんな目に遭ったのか。今だって分からない。
シルビアの考えは、ずっと至らない。浅くて、甘いものばかりだったと思い知る。
時が来れば、とばかり思っていた。
──シルビアの瞳は揺れる。感情が揺れるのに合わせ、揺らぐ。瞳の色は水色ではなく、ちらちらと異なる色が混ざる。
「ヴィンスはお前のことを案じていた。お前の未来を」
シルビアの様子に、アルバートはしっかりとその目を捉え、話し始める。
「俺は、ヴィンスとはこの国の学院で会った。それは言ったな」
「……はい」
まだこの国と、かの国との関係が友好であったときがあったという。もちろんシルビアが来る前のことだ。
交換留学で兄はこの国に来て、学院に通い、そこでアルバートは兄に会ったそうだ。
シルビアは、兄からアルバートのことは聞いたことがなかった。この国に来て出会い、直接知っていった。
そして、アルバートから兄との関係を聞いた。
交換留学が終了し、後に再会したときにシルビアのことを聞いたことも。
「ヴィンスがあれだけ深刻な様子になるばかりか、他国の人間に頼むっていうことは、普通じゃない。危険もある。それでもヴィンスは──お前の兄は危険性の全てを分かった上でお前を亡命させ、自分は戻った。……あいつは、あの日、こう言って戻っていった」
あの日。
雨の日。
シルビアは、アルバートの目から目を離せず、彼の言葉を、待つ。
シルビアがはっきり覚えていることは少ない。「さようなら」という言葉と、声。雨に掻き消されていく後ろ姿は覚えている。
アルバートと何か話していたとは思うけれど、シルビアは知らない。
大丈夫だと、シルビアを安心させようとしていた兄は、何を思い、どんな覚悟を持てばそんなことが出来たのか──
「死んでもお前の居場所は明かさない」
──記憶の中の瓶が揺れる、転がる
シルビアは口を覆った。
喉の奥が熱くなって、目も熱くなって。
「それらが事実であり、全てだ。メリットじゃないんだ」
「──」
「いいか、シルビア」
シルビアの頬を包み、アルバートが真っ直ぐにシルビアの目を見る。灰色の目は、強い感情を宿していた。
「この先何が起きても、あの国に自分が残っておけば良かったとか、今回大人しく行っておけば良かったとか考えるなよ」
「……」
「それは、難しいことかもしれない」
そう、とても難しいことだった。
昨夜、ここに来てから作られてきた平穏が砕け、自分がここにいることの影響を目の当たりにしてしまった。人が少なくとも四人死に、兄は──。
それでも、とアルバートは続ける。
「自分のための犠牲だと思うな。絶対に自分を犠牲にしようとするな。──いいな」
口から、苦労して自分の手を離した。
唇は震えていた。震えが止まらず、喉の奥は相変わらず熱くて、声は出そうにない。
難しい。難しいことだ。
けれど、どうするべきかはもう分かっていた。
シルビアは、目を逸らさず、一度しっかりと頷いた。
瞬間、目から、熱く何かが伝った。堪え切れずに、涙が零れてしまった。
右目から落ちてしまうと、左目からも生まれ、伝い、落ちる。次々と。止まらない。
そんなシルビアを、頭から引き寄せる手があった。
アルバートが、涙を流すシルビアを抱き締めてくれた。正面から抱き締められることは初めてだった。けれど、戸惑うことはなく、指でアルバートにしがみつかずにはいられなかった。
「……にいさま……」
シルビアの兄はたった一人だ。
アルバートは、自分を兄と呼べと言ったことがない。むしろ彼はこう言った。
──「これから俺はお前の兄という形になる。だが、兄とは呼ぶな。お前の兄は、ヴィンス一人だろう」
アルバートは、よく分かっていたのだ。分かってくれていたのだ。
シルビアは、行き場のない祈りを捧げずにはいられない。
大切な、大切な兄が、どうか──




