真夜中の攻防
「本当に久しぶりだ。探したんだよ」
シルビアの髪をすくい、「見ないうちに、こんな酷い色にされてしまって……」と声が言う。少しずつ、指から髪が流れ落ちていく。
黒い髪越しに、その男が見える。顔が、『優しく』シルビアに笑いかけた。
「髪の色は違ったけれど、やっぱりそうだった。やっと見つけた。迎えに来たんだ。僕と帰ろうか」
髪が、落ちる。
遮るものがなくなってしまう。
笑う目、つり上がる唇──触れる手。
指が、頭から、頬まで撫でていく。
──駄目だ
──助けて
体が動かず、頭は警鐘を鳴らし、心は叫ぶ。駄目だ、駄目だ、何かしなければ、動かなければ、でも、でも。
思考はぐちゃぐちゃで、めちゃくちゃで。夢か、現実か。あまりの混乱に、視界がぶれる。
「ど、やって」
どうやって、ここに。なぜ、ここに。
この状況に対する疑問はたくさんあったが、口にできたのは辛うじてそれだけだった。
口が思うように動かない。
「……あれ?」
男は、首を傾げた。顔は笑っていた。笑ったままだった。目は笑っていなかった。
今分かる。何が不自然だったのか。
「いつ、喋れるようになったんだ?」
『彼』が教えてくれた。喋る必要がなく、自分が喋るという考えも持っていなかったシルビアに教えてくれた。
「やっぱり、迎えに来るのが遅かったよね」
申し訳なさそうに、男は謝った。
「本当はすぐにでも探したかったのだけど、邪魔が入ってしまってね。国交が断たれて、簡単に他国に行くこともできなくなって。探す前に邪魔をどうにかしなければならなかった」
ここが、自分の部屋であるかのような様子だった。シルビアを見つめ、ゆっくりと、寝物語でも語るように、語る。
「それでもやっと自由に出来るようになってね。ただ、候補の場所が多くて……。国に入ってしまえば、こちらのものだけどね。ここに入るのも、門番を片付けて鍵を切って侵入して、後は部屋を予測して来ただけ。最も安全な位置の部屋はどこか。そうしたら、いた」
この上なく嬉しそうな笑みだったろう。だが、真上から覗き込まれたシルビアはゾッとした。
「さ、立って。帰ろう」
ベッドから降り、立ち、男がシルビアに手を差し伸べる。
シルビアは身を起こしたが、ベッドからは下りない。
「帰ろう」
帰る。どこに。一体どこに。
「聞こえない?」
笑う唇、笑いながらも笑わない目。その手に触れられたが最後、引かれていく先はどこか。
瞼の裏に、一つの部屋が見えた。不変だった部屋、喋ることも知ることも必要とされなかった部屋。
「──いや」
微かな声が、シルビアの口から零れた。小さく、短くも、確かな意味を持つ言葉だ。
「…………ん?」
その手が引く先に戻りたいとは思えない。戻ってはならない。
何より、『彼』が与え、アルバートたちがくれたこの場所がシルビアの居場所だ。
後退りたくなるのを堪える。体は、逃げたがっていた。関わることを避けたい。関わり、戻ることが怖い。
だが、これが現実ならば。このままでは、いけないのだ。
震える手を握り締める。ここは、あの部屋ではない。
机の横に立て掛けてある神剣が目に入った。ああ、そうだ。どうして、自分は、騎士団に入ったのだ。
「困ったなあ。本当に、迎えに来るのが遅かった。どこまで汚されてしまったんだろう……」
男が一歩踏み出し、シルビアの手首を掴んだ。
驚く間もなく、引っ張られ、ベッドから出る。床に足をつけるや、引っ張られ続け、扉の方に歩いていく。
「さ、帰ろう」
シルビアは、その手を払った。
音はせず、ただ手が離れた。
一時、時が止まったような感覚がした。シルビアはとっさの行動で、意識したわけではなかった。やっと、ここでの最終防衛本能が働いた結果。
男が、シルビアを振り返り、その目に見られたシルビアは後退る。少しだけ手を動かしたとは思えないくらい、息が乱れていた。
「……困ったな。その顔は何」
どんな表情だろう。
男が一歩近づく。シルビアは後ろに下がる。神剣からは遠ざかる。けれど、あまりに突然で、頭が未だに混乱の最中にあるのだ。
とにかく、二度と触れられてはならない、戻ってはならないとどこかが叫ぶ。
また一歩。
男の後ろで、扉が音もなく開いた。シルビアからは見え、男は風の動きか気配で分かったのだろう。
現れたのは、アルバートだった。
彼は開いた扉の側面を一瞬見て、部屋の中にシルビアと、男を見つけた。
「──離れろ!」
怒声が響いた。
アルバートは、振り向いた男の襟首を掴み、壁に叩きつけた。
既に手にしていた剣が素早く動き──男の首に突きつけた。
あっという間だった。手は胸ぐらを、剣は首を捉える。
「……ベルを鳴らされた音は、聞こえなかったな。勝手な侵入は犯罪だ。お前は運がいい。俺は犯罪者を捕まえられる権利を持っている」
取り押さえた男に皮肉を浴びせ、アルバートは胸ぐらを掴み上げ、揺らし、顔を露にさせた。
「……お前は……」
顔を見て、怪訝そうにした瞬間だ。
「『我が剣よ、ベルギウス神の信仰の元に顕現せよ』」
早口で文言が唱えられた直後、これまで聞いたことのない音がして、空気が震えた。
剣が出現し様に、アルバートの剣にぶつかった。直後には、まだ自らの近くにある刃を気にせず、男は掴んだ剣を振るおうとした。
アルバートは身を離し、応戦より、シルビアの元へ来ることを選択した。シルビアを引き寄せ、しっかりと腕の中に収める。
「何だよ、ここでも邪魔者か。それも厄介そうだ」
「──お前」
男が、壁から離れ、アルバートの正面を向いて止まる。
「お前が僕たちの『女神』を奪った愚か者か」
アルバートを見据える目に、凄まじい殺気が宿った。
「……『そっち』からの人間を国境から通したとは聞いてないぞ」
何者か把握したアルバートの言葉に、男はくつくつと喉を鳴らして、笑った。
「正面から訪ねてあげなくてはならない理由なんて、あるか?」
どうしてここにいるのか。
かの国とこの国との間の警備は厳しい。国交断絶ということもあり、入ろうとする者は何用か、何者か必ず調べられ報告されるようになっている。
どうやってここに至ったのか。
「……まさかとは思うが、テレスティアか」
アルバートが、思わぬ国の名前が出した。
「さあ?」
対して、返ったのは曖昧な返事。肯定はしないが、否定もしない。
アルバートはより眉を寄せる。
「それより、返せよ。触れていいのも、許可を出せるのも僕達だ。彼女は僕達の元に生まれたんだから」
「断る」
男の表情が、消えた。
──やはり、彼らは笑顔の下に違う表情を隠していたのだ
何もかもが剥がれ、無表情の男が、衣服のポケットに手をいれ、無造作に何か取り出した。
「これ、なんだ?」
瓶だった。液体が満ちた中に、浮かぶものは丸い──目玉、だった。
「女神を逃がした重罪人が誰かなんて、すぐ分かる」
アルバートが微かに息を飲んだ。彼は先に何事か悟ったのだ。
しかし、シルビアはまだ分からない。頭が分かろうとしない。
「愚かな男だよ。そんなものでも済まないか。──ゾッとする。『あれ』は僕達の『女神』を、あろうことか外に出して、他の国に渡したんだ」
「お前、あいつをどうした」
「気になる? お前達のせいだよ、と言えば責任でも感じるか? でも、どうあれ僕達の大切なものを奪ったりしたから相応の扱いは受けて当たり前だろう?」
──あれは、『彼』の。
会話の流れを耳にしていく間に、シルビアも悟ってしまった。
あの目が、誰のものか。
ひゅっ、と息を吸ったきり、呼吸を失った。そんな──
シルビアの体が小刻みに震え、アルバートの抱き寄せる力が強まり、よりしっかりとシルビアを抱き締める。シルビアは震える指でアルバートにしがみつく。
「ろくなことをしない男が選んだ国も、やっぱりろくなことをしないし、愚かだ」
男は、瓶を振る。
液体が揺れ、中身も揺れる。シルビアの視界の中心で、揺れる。
──どうしよう、どうしよう。
「居場所の探索と共に、この国が、血肉を用いて研究をしていないことは分かった。──ああ、そもそも利用価値を知らない? それなら、言ってしまったということになるかな。でも、それならそれで哀れで、知っている上でのことならやはり愚かだ」
瓶が上に動く。
追うと、目と、合った。にこり、と笑う。奥に、狂気が覗く。
「僕たちの『女神』は決して天へ帰ってはいなかった。邪魔なものは全部消そう。二度と、こんなことがないように守ってあげる」
目の前が暗くなった。手で覆われ、遮られたのだと分かった。アルバートだ。
「……いいよ、その気でも正々堂々取り戻して──用が済んだら、こんな国ごとお前達は消してやるから」
「それが宣戦布告なら、ここで相手をしてやる」
「それは愚かだ。言っておくけど、お前が万が一にも僕をここで殺しても、既に国には使者が着くようにしている。行き先は変わらない」
アルバートの手が、ぴくりと動いた。
「それでも意味はある。──お前を捕らえても、国交がないはずの国の王族がここにいるはずがない。一方的な文句はつけられようもない」
「良いところに気がつく」
「お前の間違いは色々あるが、一番の間違いは今日ここに来たことだ。まさか、連れて行けると思ったわけじゃないだろう」
「……いや、上手く行くはずだったよ。音なんてろくに立てていなかった」
「確かにな。音はなかった。俺は異変に気がつけなかった。お前にも俺にも予想外だったのは、俺の元に『声』が届いたことだ」
「……声?」
「ああ」
アルバートの手が、目から離れ、シルビアの頭を撫でた。
「シルビア、下がって出てくるな」
囁きを残し、アルバートがシルビアを抱き寄せる腕を解き、前に出た。
「先に待つことが最早避けられなくても、お前は逃がさない。シルビアを狙う人間を一人でも減らす。王族なんて、この先大きな戦力になり得るからな。──それに、お前が持っている目を前に、俺がお前を無傷で見送るなんてあり得ないんだよ」
言い捨てるような言葉の終わり、アルバートが床を蹴った。
アルバートが、男に肉薄する。
真っ直ぐに男に向かった刃は、受け止められる。信仰する神が違うからか。普段耳にする、神剣がぶつかる音と違う。
音が続く。何度も続く。男は、アルバートの剣をよく受け止めていた。
しかし、徐々にアルバートが優勢になっていく。
「『イントラス神に祈る』」
アルバートの剣に激しく光が走り、男ごと後退させた。
「ここは、イントラス神の影響が強い神域だ」
「……ああ、そうだったな」
扉まで後退させられた男は、思い出したように呟き、
「僕は全力を出すべきだったか」
アルバートが剣を振り上げるのに対し、笑った。
シルビアは危機感を覚えた。この状況で笑える余裕があるのは。
「『ベルギウス神に祈』」
けれど、シルビアの心配はいらなかった。
男の声は止まった。
「──な」
男の腹を、貫く刃があった。
アルバートではない。アルバートからの刃であれば、男は防いだだろう。
切っ先は腹から、こちらに出ている。つまり背後から。
ただ、男の背後には扉がある。
「残念だったな」
剣が抜け、扉にもたれ崩れ落ちる男を前に、アルバートは剣を下げた。
「お前の手際は良かったが、良すぎたことが原因だ。この部屋の近くには、母上の部屋がある」
扉が押し開かれ、養母が寝衣で、剣を持ち立っていた。
シルビアは驚く。
「その部屋に手をつけなかったのは感嘆する他ないが、俺がここに入ってきたときのやり取りのどれかの音がさすがに聞こえて、異変に気がつく」
「声が聞こえて、飛び起きたわ。その前に気がつけなくて、ごめんなさい」
養母は、申し訳なさそうにシルビアに向けて謝ったから、シルビアは首を振る。
この場の決着はついた。もう男は抵抗しようとしても、ろくな抵抗は出来ないだろう。
「しかし、可能性としてこんなことを企む人間が送られるかもしれないとは思ってはいたが……王族が直接来るとは思ってもみなかった」
乾いた笑い声がした。
声と体を震わせ、男から発せられていた。
「……だから価値が分かっていないと言うんだ」
男の目が、シルビアを真っ直ぐに捉える。
「会いたくて──会いたくて会いたくて会いたくて会いたくて会いたくて会いたくて仕方がなかった。見つけてしまったなら、我慢出来るはずがない」
腹を押さえていた手が、こちらに向かって伸ばされる。液体が、ぽとりと落ちた。
「あいしているよ。僕達の女神」
そこまでだった。
アルバートがしゃがみ込んだが最後、声は聞こえなくなった。
「母上、こいつの口に突っ込めるものはないか」
「ええっと、そうね……タオルでも持ってくるわ」
「それなら何枚か持ってきてくれ。止血しなければならない。……いや、俺が移動してやる。母上は使用人を起こして、邸の中と周りを確認させて、一番に門を確認するようにさせておいてくれ」
「……そうね。城にも使者を向かわせるわ」
「頼んだ。ついでにこいつを連れていく用の人員を寄越させるようにもしてくれ。シルビア、俺と来い」
「──はい」
「……悪いな。もう少しだけ、頑張ってくれ」
シルビアは首を横に振った。
いいえ、だ。アルバートが謝ることではない。
男を抱え、立ち上がるアルバートの方へ歩く。
その途中、床に転がる瓶を見つけた。
中に液体が満ち、丸いものが一つ浮いた、瓶。目が、合う。
「──シルビア」
強く呼ぶ声に、苦労して視線を床から引き剥がし、止まっていた足を動かしはじめた。
一歩、一歩。足が冷たい。
──起こったことは、疑うべくもなく現実だ。




