第11話 筋肉への頼み
キューレとティスミンの部屋。
水たまりのできた部屋で、渇いた笑だけが響いていた。
「ふふっ、ふふふ……言いたいことがあるなら聞きますわよ?」
「部屋を水浸しにしたティスミンが悪いと思いまーす!」
「……それだけですの?」
「今日はかわいいおパンツだね?」
「そういうことを聞いてるんじゃありませんのっ!」
キューレの苦い笑いが、下敷きになっていたティスミンを怒らせた。
事の発端は、部屋に帰ってきたキューレが水に足を滑らせてティスミンに衝突。
その後押し倒して、ついでのようにティスミンの吐いていたスカートを下した次第。
「キューレっ! どうしてあなたはいつもこうなるんですのっ!?」
「いつもわざとじゃないよ?」
「そんなの知ったことですかっ!」
せっかく渇き始めたキューレの髪は、またびしょびしょになった。
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同時刻。
シュートのいる部屋では、散ったガラスと真っ白な歯が煌めいていた。
「……誰」
「はっはっは! これはすまない! 操縦を誤ってしまってね!」
野太く低い声。
体を持ち上げた声の持ち主はその声の通りの外見、髪こそ長いがれっきとした男だ。
「えっと、大丈夫?」
「見ての通り問題ない! この筋肉のおかげさ!」
「どう見ても血まみれだろっ!? 顔真っ赤じゃん!」
「おや、それで周りが赤かったのか! はっはっは! てっきり君も俺と同じ、赤髪だと思ったんだがな!」
「その髪は地毛なんだ!?」
高らかに笑う男は、傷のことなど気にも留めずに上腕二頭筋さんを強調してくる。
体格は大きく違うがどことなくシェイドに似ている気がするシュート。
「なんで窓の外から―――」
言いながら割れた窓ガラスから下を見下ろしたシュートが、バックステップ。
「高っ!? なんでこんなとこの窓ガラス割って入ってくるんだよ!?」
「はっはっは! これからこの学園で教師をしろと言われてな! 急いで飛んできたんだが、少々飛びすぎてしまった!」
「飛ぶってなに!? え、魔法とか?」
「はっはっは! 強化はしたが基本的にはただ跳躍のことさ! ここまでは走ってきたんだ!」
「どこから来たかは知らないけど、ジャンプでこの高さ飛ぶのは普通じゃないな!」
シュートが見た外の景色は、ある程度のビルの屋上くらいの高さだった気がする。
それをジャンプしてきた男は、伸びた髪が邪魔だというように腕ではらった。
「これをすると髪が伸びてしまってね。窓を割ったことと同時にだらしない姿を見せて謝罪しよう!」
「そうですか……」
「ということで、君もこの筋肉が欲しくはないか!? 今回のお詫びとして、良ければ指導させてもらうよ!」
「血まみれの危険人物になにを指導されろと!? それに何の得が……」
いまだに血を拭わない男にシュートが声を荒げながら、考える。
目の前の男のように頭まで筋肉に支配されたくはない。
けれど、シュートにとってそれはとても魅力的ではあった。
岩の巨人に襲われた時すぐに投げ捨てた逃走の意思。
結果的には正解だったかもしれないが、本来は逃げるべきだった。
ならばなぜしなかったのか。
―――足りなかっただけ。
まともな食事をしていなかったシュートの体力が。
なにより、子ども一人すら抱える力もなかった。
そもそも動くことはできたのだ、ただのシュートの力不足であわや自分を、キューレを殺しかけてしまったのだ。
シュートにとってひどく屈辱的で、歯噛みする思いだった。
そんな彼のことを察したように、赤い髪を流しながら男が言う。
「―――きっと、誰かを守るのには力はいるぞ?」
「……」
この人はたぶん、知っているのだ。
誰かの死を。
力不足のことを。
いつか恋した人を助けられなかったシュートが、感じたのだから間違いはない。
「それに筋肉があると女の子にもてるぞ!」
―――あ、間違えたかも。
自分の判断にため息を吐くシュート。
「筋トレだかなんかの話はまた今度でもいいですか? 考えときます」
「君の好きなように決めればいいさ!」
「どうも……この窓、修理とかお願いできますか?」
「残念だが、俺は細かい作業が苦手でな。直してもらうようにお願いしておこう」
もちろん費用も俺が持とうと、胸を張る。
もともとあんたが壊したんだからと思ったのは、内緒にした。
その上で、一つおねだり。
「窓の修理はそれでお願いします。それと業者さんが家具屋ならカーテンとか頼みたいんですけど」
「俺が一緒に費用を出そう! それくらいはさせてくれ!」
「マジですか? 助かります」
―――カーテン問題解決。
ただ、同室の人の許可とか必要だったのかと思うと、少し勝手だったかと後悔。
そんなシュートに筋肉が質問をする。
「だが、なぜカーテンを? 自分で買いに行けば好きな柄をえらべるだろ?」
「まぁ、そうですけど。別に僕は好みとかないので。それに……」
いつの間にか取り出していたタオルをシュートから渡されて、血を拭った男が似合わない顔をした。
「そういうことです」
「……すまなかった。もう少し配慮するべきだったな」
「別に気にしてませんって」
「いいや! 俺が気にする! 改めて見たところ君には雰囲気があるな。何か武術の経験は?」
「―――? ないですよ。一回も」
事実、この世界で格闘技なんて習ったこともない。
それは日本にいたころも同様だ。
一切誰にも習ったことはない。
「それなら君は何か鍛えるべきだ。決めつけで悪いが、俺の目利きは相当だぞ」
「……そのときはあなたが教えてくれますか?」
「そんな他人行儀な―――あぁ! まだ名乗っていなかったな、俺の名前はドルカ・フォンだ! ドルカと呼んでくれ!」
「僕はシュート、まぁよろしくお願いします」
「シュート……いい名前だ! よし、シュート! これから俺は走りに行くんだが、シュートも来るか?」
「いや、僕はここついたばっかで疲れてるんで行きません……ってドルカ先生も同じでしたね」
「俺は別に先生じゃないぞ?」
「え、でもさっき教師って?」
「教師は教師。先生は先生。そうだろう?」
「そうですね」
違いはわからないままなにか面倒くさそうなので、適当に頷いておく。
そして納得したように頷いたドルカが足元を覗いて。
「あぁ、ガラスは僕が片付けておきますよ? お好きに走ってきてください」
「そうか……なんだか悪いな!」
「いや、なんか余計面倒になる気が―――ってハーくん危ないよ」
目を逸らしていたシュートの前にテクテクと歩いていく黒猫。
それを抱き上げて、ガラスの破片が散った場所から離す。
今まで隠れていたが、どうやら相手の素性がわかって安心したのか出てきたらしい。
けれど足元が危ないので遠ざける。
そんな動作のシュートに首を傾けたのはドルカだ。
「はーくん? 誰のことだ?」
「あぁ、ただの独り言ですよ」
―――ほんとに見えていないのか。
シュートにすれば不思議でならないが、ドルカにはもっとも不可思議だったろう。
「さっ、出口はあっちですけど―――」
「―――俺は君からすれば侵入者だからな! ちゃんと入ってきた場所から退出するさ!」
言いながら窓の方に歩いていくドルカ。
「ちょっ、まさか!?」
「それでは、また会おう!」
「うそだろ!?」
割れた窓をくぐるように外に飛び出した筋肉の塊に、呆れた顔を作って。
何十秒か後に遠くの方で大きな音が聞こえたが、たぶんシュートには関係ない。
ため息を吐きながらガラスを拾おうとしたシュートの耳に、奇怪な音が聞こえた。
それは、どこか懐かしいような、遠く感じるような久しぶりの音。
―――ピーンポーン。
「……うっそでしょ」
ため息を漏らして、玄関に向かうシュート。
扉につけられた取っ手に手を触れた瞬間、開く。
そしてすぐ目の前に立っていた、びしょ濡れの黒髪に向けた目をあからさまに殺した。
「またなんかやったの?」
「ティスミンに部屋を追い出された」
「やっぱまたなんかやったんだ」
ため息交じりにキューレを部屋に招く。
そして、上り込んできた彼女が勝手に進みだして。
「お風呂借りるからね」
「まだ、僕は風呂場見てすらいないのに……」
「いままで何やってたの?」
「んー……まぁ、いろいろ?」
「ふーん。まぁ、借りるけど」
「お好きにどうぞ」
まだルームメイトがいないだけで、こんなに好き勝手使っていいものかとため息を吐くシュートをよそに、扉がガチャリと音を立ててしまった。




