第9話 透明な助っ人
「ティスミンは怒りすぎじゃない?」
「十分普通の反応だったと思うけど……」
「だからってこんな、水かけることなかったでしょ」
「それ、僕も巻き添え食らってるんだけど」
「最近はいろんな人にびしょ濡れにされてる気がする」
閉じられた扉の前でため息を吐きながら、濡れた黒髪を絞る姉弟。
パンツで遊んでいたキューレは、部屋に戻ってきたティスミンに水で洗い流されてから、そのまま外に放り出されていた。
シュートはそれに巻き込まれて、不本意に目を殺している。
「しょうがないからシュートの部屋に行こう? 優しいことにシュートの荷物は外に出してくれたし」
「まぁそれしかないよね。で、どうすればいいの?」
「とりあえず戻る」
「さっきのエレベーター? っていうかなんて言う名前なの?」
「エレベーターはエレベーターだよ。わかってるでしょ?」
「いや、全然わかんないんだけど」
「……? まぁ何でもいいから戻るよ」
「あー、うん」
面倒くさそうにキューレが歩き始める。
シュートも面倒くさそうに、考え事をしながら荷物を拾ってついていく。
左側には扉がいくつも並んでいて、右側にはたまに雑談スペースのような椅子と、別の棟に行くための廊下が繋がれたりしている。
そんな代わり映えのしない光景に、シュートが首を傾けて。
「エレベーターってどこだっけ?」
「んー、忘れた」
「えー……」
「たぶん、もう少し先でしょ?」
「濡れたまま歩き回るの嫌なんだけど……」
「それはお姉ちゃんも同じ。できれば早く……あー」
「どうしたの?」
言葉を切って足を止めるキューレ。
明らかに嫌なものを見る顔を作っていた。
その表情に、首を逆に曲げたシュートも理由に気づく。
遠く、後数十歩ほど進んだ先から甲高い鼻歌が響いている。
「なんか嫌な予感がするんだけど」
「とりあえず後ろに退避かな」
キューレの声を合図に高速で踵を返す姉弟。
だが、残念。
鼻歌は思ったよりも早く移動していたようで。
「あっれれ~? キューレちゃん、おっひさ~!」
鼻歌を止めて、頬を赤く染めた大人っぽい女性が、上機嫌に近づいて。
キューレに抱きついた。
「……」
「無視~? 無視虫なの~? このフェイさんを無視虫しちゃうの~?」
「……お酒の飲むなら自分の部屋でって言ってるでしょ?」
「まだ来てる人少ないんだし問題ないって~」
「少なくとも私来てるんだけど?」
「あっはは~! 思ったより早かったよね~。あとで晩酌に付き合ってね~!」
「一人でやってて。私はシュートの部屋に行かないといけないの」
「っと、シュートくん初めまして~! フェイさんだよ~! シュートくんは晩酌に付き合ってくれるよね~?」
「できることならお風呂入って、そのまま眠りたいんですけど」
「ってことで、私たちはそろそろ行くから」
キューレに体を預けた状態のフェイがぺこりと首を下げる。
シュートが目を逸らしながら逃げようとしていると、フェイの腕を強引にどかしてキューレが歩き出す。
「おっと~! シュートくんのお部屋ならフェイさんがわかるから一緒に行こ~」
「なんで知ってるの」
「これから毎日行かなくちゃだからだよ~? もちろんキューレちゃんのお部屋もわかるしね~」
「来るのはフェイじゃないでしょ」
「私の子たちが行くんだから同じだと思うけど~? あ、またティスミンちゃんを怒らせたの~? フェイさんも濡れちゃったよ~?」
上機嫌そのままに子どもみたいに頬を膨らませるフェイ。
彼女の白に近い金色の髪が、しっとりと濡れている。
どうやらキューレは、たびたびティスミンを怒らせて、びしょ濡れにされているらしい。
「とりあえずエレベーター行くよね~? あ、もしかして道に迷ってた~? 逆走してたし迷ってたよね~!」
「フェイから逃げただけ」
「逃げなくてもいいのに~!」
実際エレベーターを探してはいたが、彼女から逃げようと踵を返したので間違ってはいない。
ただ、ほんの少し強がりが混ざっていただけ。
「ほらほら~! こっちだよ~」
「あーもう、引っ張らないで!」
フェイに腕を引かれるキューレ。
当たり前のように後をついていくシュートは、それこそ当たり前のように目を殺していた。
「あ、さっき喧嘩してる子たちがいたから、さささって入ってね~?」
「喧嘩って、フェイさんが止めるべきなんじゃないですか?」
「フェイさん、指導は専門外だよ~」
開いた扉に、勢いをつけて乗り込むフェイ。
キューレもシュートも、ちょっと駆け足で入室。
「シュートくん、鍵は貰ってるよね~? そこに当てて~」
「え、はい」
なぜかキューレの腰に両腕を回して抱きついているフェイの人差し指の先。
入り口の横に設置された基盤にカード、当てて。
扉が閉まる瞬間。
大きな爆発音が、シュートの鼓膜を揺らした。
「なにいまのっ!?」
「喧嘩ではよくあることだよ~」
「なんでさっき止めなかったんですか……」
「キューレちゃんもたまにやるもんね~?」
「え、姉さんもや―――っ!?」
急降下と急旋回。
最近のシュートが毎回のように絶叫する、ジェットコースター的移動だった。
それはさっきよりも長く、勢いをつけて進んでいた。
そしてやっとのこと止まったときには―――
「あっはは~! これいつも楽しいよね~。楽しめないなんてキューレちゃんはもったいないな~! ってもしかしてシュートくんも怖がり~?」
「わ、私は怖がってない。シュートは怖がりだけど!」
「強がりキューレちゃんかっわい~」
「……」
からかっているのか、本気で言っているのか、フェイが抱きつく力を強めた。
その前で手をついて、涙目のシュートが嘆く。
「忘れてた……」
「怖いならこっちの使わなければいいのに~」
「あっちは人が多いからこっちの方がまし。シュートもそう思うでしょ?」
「そもそも別のがあったの知らないし、僕的にはそっちの方が良いんだけどっ!?」
「でもシュートくんのお部屋的にこっち乗った方が近いと思うよ~」
言いながら抵抗しないキューレを運び始めるフェイは、外に出て数歩のところで立ち止まった。
「ほら、ここがシュートくんのお部屋だよ~」
「良心的な方のエレベーターがどこで止まるかによっては、この近さを諦めずにはいられないんだけど」
「ここは反対側だから~……三十分くらいかな~?」
「どんな構造になってんだよ……」
「気になるなら一緒に探検しよっか~?」
「いや、一人で―――」
「減るもんじゃなっし、いいよね~!」
「……はい」
強引な口説きにため息を吐きながら、頷くシュート。
キューレが早く扉を開けろと、睨み付けてくる。
姉の部屋のときよろしく基盤にカードキーを当てると、器械的な音を出しながら開いていく扉。
シュートの新しいお家には、誰よりも先にフェイが入っていった。
いつの間にか解放されていたキューレが、大きくため息をついて。
「このままだと巻き込まれそうだから、お姉ちゃんは自分の部屋に帰るね」
「あの人も連れて行ってくれない? ここに置いていくのはやめて欲しいんだけど」
「なにか話すこともあるんでしょ。今のうちにお姉ちゃんは帰るの!」
「僕に押し付けな―――」
「シュートく~ん、フェイさんは左のお部屋がいいと思うの~」
「あ、ちょっと勝手に入んないでくださいっ! って、あ! 姉さん逃げるなっ!」
「ついてきてあげたんだから、文句言わないで? それじゃっ!」
「あ、そのエレベーター―――」
満面の笑みでフェイを押し付けたキューレは、自分の部屋があるところまで戻って行った。
もちろん超高速。
軽く悲鳴が聞こえたのは聞かなかったことにして、シュートも入室。
荷物を適当に置いてから、フェイが入っていった部屋に顔を出して。
「って、寝てるっ!?」
素でに設置されていたベッドの上で、枕に顔をうずめているフェイ。
呆れながら近づいたシュートを引き込むように起き上がって。
「寝てまっせ~ん」
「なんで抱きついてくるんですかっ! ていうか酒臭い!」
「私の子たちは匂いにも敏感だからだよ~!」
「さっきから言ってるフェイさんの子ってなんなんですかっ? ていうか離してくださいっ」
「じゃあ、敬語禁止ね~?」
「……は?」
「名前もキューレちゃんみたいに、フェイって呼び捨てにしてね~!」
「いや、それは流石に―――」
シュートの否定に、頬を膨らましたフェイが腕に力を込めて、逃がさないようにがっちりとホールドした。
「わかったから、離して!」
「じゃあ、フェイさんの名前は?」
「……フェイ」
「よし。ごうか~く」
パッと緩んだ力から抜け出して、立ち上がるシュート。
すぐに振り返ってベッドの上のフェイを見下ろす。
「猫? いつの間に?」
「あっはは~。やっぱり見えてるんだね~! さすがキューレちゃんの弟だ~」
「その言い方だと、普通は見えないみたいな言い方だけど?」
「そのと~り! この子は、ハーくんだよ~!」
言いながら膝の上の猫を撫でている。
気持ちよさそうに欠伸をする黒猫は、普通のどこにでもいるような猫で。
唯一普通と違うところは、ポーチを装備していることくらい。
それでも人によってはおしゃれ的に持たせる人もいる気はする。
そして、肯定された見えないという言葉に首を傾けたシュートが、手を伸ばす。
「普通に触れるし、何も変なところはない気がするけど?」
「この子はヴィスキャト、姿を隠す猫だよ~」
「姿を隠す?」
「魔力を纏って自分を隠すの。この学園全体でもこの子を余裕で見つけられるのは、シュートくんたち兄弟を覗けば、十人くらいかな~?」
まだいるかもしれないけどと、《ヴィスキャト》を抱きかかえたフェイ。
「―――でもこっちはキューレちゃんしか知らないよ~」
その彼女の言葉と行動は、シュートを驚かすのには十分だった。




