9. たそがれのそのさき
それを、キツネは試さずにはいられませんでした。
今までそれをやったことはなく、また、この場所に絶対に何かがあるという直感がそれに対しても何か、反応を示したような気がしました。
キツネは、いきなり全速力で走りました。イタチが驚いて追い掛けます。
……。
まだ、何も感じません。
もっと速く、走ってみよう。
キツネは振り返り、今度は自分の物の落ちる方向を操るという力を自らに掛けて、崖を下るようにどんどん加速していきました。
後から追いかけてきたイタチはその速さに驚いて、思わず避けました。
当たっていたら、死んでいたかもしれないと思うほどの速度でした。
そして、キツネは気付きました。
自分の力と同じような何かが、ここに、本当に薄らとあることに。地面の底から、それを感じることができました。
それは、緩過ぎる坂を登ったり、下ったりしていても気付けないのと同じでした。ほんの僅かな勾配を体で感じる為には、じっくりと歩くのではなく、一気に走る必要があったのです。
息を切らしながら、キツネはとうとう見つけたと、喜びました。
そして、そう程ない内にまた疑問が湧いてきました。
この一見何の変哲もない場所で何かになったのは間違いない。本当に。でも、その何かが何なのかは結局全く分からない。
この地の底に何かがあるんだろうか。この超常的な力の源が。
それはまた、やってみないと分からないことでした。そしてまた、もう少し疑問が湧いてきます。
他の場所にも、こんな薄らとした何かが漏れ出ているような場所はあるんだろうか。
それにまた、ここで私が何かになった事は確実だとしても、どうやって何かになったのかまでは分かっていない。
……まだ、私は、入り口を見つけただけなんだ。
キツネはそう思いました。
この何かに関して、本気で調べようと思ったらこの山の全てを知り尽くす以上の苦労をしなければいけないかもしれない。
イタチが生きている間に、イタチが満足できるような、何かになったことに疑問とかのもやもやしたものを残さないことはとてもできないとも思いました。
そんな中、暗闇はいつの間にかもう間近に迫っていました。
イタチが追いついて来て、不思議そうな顔で自分を見つめてきました。
……今日は帰ろうか。
入り口を見つけられただけ、とても大きい収穫なのは確かでした。
いきなり走ったからか、立ち上がると遅れて体がぽかぽかとして始めているのが分かりました。
小屋まで歩いていると、ずるずるとキイチゴの蔓を咥えて引っ張っているタヌキと合流しました。
もう色は分からない程に辺りは真っ暗になっていましたが、臭いから、その口周りはキイチゴでべったりしていることがはっきりと分かりました。
*****
ぱち、ぱちと炎が柔らかに焚かれている以外はとても静かな夜でした。
タヌキが採ってきたキイチゴも、オオカミが狩ってきたウサギ数匹も食べ終えて、石積みもせず、誰も何もそう大してせずに体を丸めていました。
寒さは段々と強くなっています。それは特に、夜になると顕著になりました。
毛皮はまだ、皆完全に生え変わっている訳でもありませんでした。体が寒さに対応しきれていないが故に、寒さは身に染みていきます。
けれど、小屋の中で風を凌ぎ、火もここにはあります。
その温かさはもう、とても心地の良いものでした。火に対する恐怖など、ここに居る何かとしての皆にはもう全くありませんでした。
何もかもがどうでも良くなってしまうような、昼のぽかぽかとした温かさとはまた別の、極楽がここにありました。
タヌキはもう、とうに寝ていました。
寝る時間の少ないイタチも、夜、こうして集まっている時にはうとうととすることが多くなっていました。
キツネだけではなく、他の皆から見ても、寿命が近付いて来ていることは明らかでした。
……まだ、会ってから季節が巡ってもいないのに。
オオカミとワシはそうも思いました。
何もしないのは、イタチを起こしたくないから、というのも確かにありました。
*****
そして次の日。キツネは半ば強引に皆をその場所へ連れて行き、そしてその場所まで行くと、一気に走りました。
驚いて追って行くと、皆がそこにあるものを段々と理解し始めました。
ワシも思い出しました。この近くで速度を上げた時に、ほんの僅かにその何かを感じたことを。
そしてまた、何かになってから日の浅いキツネだけが、そこから皆が思ったことに気付けていませんでした。
雨で体から体温が奪われたとき。自らの命が危機に迫っているとき。
そんなときに、ここにほんの僅かにある何かと同じものが命を繋ぎ止めようと体に入って来る感覚があるのをキツネ以外の皆が知っていました。
そこから考えられることは、自ずと一つだけに絞られました。
何かになったのは、ここで死んだからだ。
何かになったとき、子供だったり既に成獣だったりするのも納得がいきます。死ぬのに歳は関係ありません。
また、記憶を失っているのも、何となく納得ができるような気がしました。
皆で一心不乱に走ったり飛んだりしている内に、ほんの僅かな勾配の頂上がどこなのかが分かってきました。
それは、キツネが何かとして生まれ変わった場所のすぐ近くでした。
そこで早速オオカミは穴を掘り始め、自ずと皆はそれに協力し始めます。ワシとキツネは掘り出された土をせっせと遠くへ捨て、そういうことに対しては余り便利ではない力を持つタヌキとイタチは獲物を探しに行きました。
タヌキは川に魚を獲りに、イタチはネズミを獲りに、別れました。
土が投げ捨てられる音が歩いている間暫く耳まで届き、そして次第に静かになりました。
静かになって、自分だけで歩いていると、考えてしまいます。
死んで生き返った。記憶は失くして、超常的な力を手に入れて、よりはっきりとした自我を持って。それは、どういうことか。
超常的な力を手に入れていることも、よりはっきりとした自我を持っていることも、記憶を失くしてしまうことに比べたら、些細なことでした。
記憶が無くなるということは、結局それは、生き返ったと言えるのでしょうか。
また生き返られるとしても、記憶がなければ、それは死んだと同じなのではないでしょうか。
その疑問は、まだ先が長いタヌキにとってはとてももどかしく、先の短いイタチにとっては恐怖にもなりました。
タヌキは、川に着くと水に前足を付けて、弱い雷を流しました。
一匹だけ、ぷかりと浮いてきましたが、それは岸からは遠く、そのまま流されてしまいました。
この冷たい水に入るのはもう、余りしたくありませんでした。体温を奪われても何かが補ってくれるのでしょうが、それでも苦しいのが嫌なことには変わりありません。
死にたくはありません。誰だって、今自分が殺した魚だってそうでしょう。
……死ぬって、何だろう。
僕は、生きている。でも、何かになる前のことなんて、何も思い出せない。本当に、何も、全く。
死んだこと、生き返ったこと。
……また生き返ることができても、今こうして考えている僕は、死ぬんだ。次に生きる僕は、今の僕じゃない。
そう、思いました。
何か、とても寂しくなってきました。
けれども、全てを忘れる訳でもない。イタチはそう思いました。
本当に全てを忘れていたら、何が食べられるのか、何が危険で、何が安全なのか、そんな事からきっと、歩き方までもを忘れているでしょう。
赤ん坊になる訳じゃない。けれど、自分が消える。何故?
結局のところ、何故、というのは何も分かっていないのです。そして、何かとしての自分がまた生き返ることができるのかどうかも。また、老いた自分が生き返るとしても、その後老いたままだったら意味がないことも。
……。
イタチにとってそれは希望としては、とても薄いものでした。けれども、そう期待もしていませんでした。
死ぬのは怖いことです。死にたくないとは思います。けれども、拒めるものでもないと老いるに連れて分かって来ていたのです。拒めるとしても、それはただ先延ばしにしただけだと。
…………。
走って、イタチはネズミを仕留めました。一気に沢山仕留めても持っていけないので、取り敢えず一匹だけ持って行きます。
俺が死んだとして、皆、どうするだろう。俺があの場所以外で死を選んだとしても、皆、あそこに連れて行くんじゃないだろうか。
死んでほしくなくて。そして、もう一つ、もう一度生き返るんじゃないかという好奇心も手伝って。
誰だって、自分が死んだ後のことなど、どうにもこうにもできません。
自分がその場所で死を選ばない、生き返る可能性を選ばないとしても、それを尊重してくれるかどうかは分かりません。
自分が消えるとしても、次の自分には苦しんで欲しくないと思いました。
老いた状態で生き返ってまたすぐ死ぬなんて、あって欲しくないと思いました。
けれども、だからと言って、皆から離れて寂しく死ぬのも嫌でした。
自分がどうしたいか分からないままに、イタチは戻りました。
もう既に深く穴が掘られ、オオカミは穴の中に顔を覗かせないと見えない深さまで潜っていました。
けれどまだ、何も変化はない様子でした。
水が漏れ出してきたところで、一度穴掘りは終わりにすることにしました。
泥だらけになった体を冷たい川で洗い流し、風で乾かします。体温が容赦なく奪われますが、何かがそれを補ってくれます。
ネズミや魚を食べながら、結構深くまで掘った穴をオオカミは眺めました。
泥水が貯まっている穴です。
それ以外、何もありません。何も感じられません。
幾ら意識を研ぎ澄ませようが、やはりただじっとしていては何も感じられませんでした。
……あー、体を乾かすの、こっちに戻ってからにすれば良かった。そうすれば、何か感じられたかもしれないのに。
また、わざわざ今から体を濡らしに行く気にも、この泥水に浸かる気にもなりませんでした。
*****
その夜。オオカミはいつものようにシカを狩りました。けれど、いつもと違うことがありました。
出来るだけ傷をつけないように殺して、そしてその、皆が何かになった場所に置いて、後は放りました。
暗闇の中、時々冷たい風が吹き、ざわざわと音が響きます。
それ以外は何の音もしません。
しん、としていました。火もつけずに、皆、一か所に固まってその鹿の近くで何が起こるか、もしくは起こらないのかを見ていました。
静かな緊張が、皆を包んでいました。