7. ふかさにおぼれる
神経を張り巡らせる。それをどれだけちゃんとやっていたか、タヌキには分かりませんでした。
ただ、オオカミもワシも、イタチもタヌキも、言えるのは、命をかけるほどに集中することなど、なくなってしまった、ということでした。
襲われない、狩りもやろうと思えば自分の何かとしての力を使って簡単に獲物を捕まえられる。
狩られる恐怖も、狩れない空腹も、ほど遠いものになっていました。
しかし、キツネは、何かになってからまだ一日も経っていませんでした。はっきりとした自我、何かとしての力があっても、それに染まりきっていませんでした。
キツネの集中はとても深く、とても邪魔をできるような雰囲気ではありません。タヌキは、自分が何も感じ取ることができなくとも、キツネの後を付いて行きました。
その先に何かあるのか、本当に何も感じられません。
慎重に、慎重に、キツネは歩いています。全てを見逃さないように。タヌキは気圧されている感覚さえをも覚え始めました。
きっと、何かある。あってくれる。
タヌキはそう信じ始めました。自分が何も感じられなくとも。それほどのものでした。
しかし、キツネが立ち止ったとき、そこでもタヌキは、何も感じられませんでした。
キツネも、困惑していました。
…………。
キツネは、あの雷雨の中を歩いている記憶がありました。ほんとうにぼんやりとした記憶でしたが、確かにあったのです。
ふらふらと、夢うつつの中、雷の音が響いていたのを、激しい風と雨が毛皮をぐしょぐしょにするのを、真っ暗闇なのに何故か何にもぶつからないで歩いている記憶を。
そして、この場所で立っていた記憶を。
立っていた場所はここだと、何故か確信できました。木々が疎らにあり、草も生い茂り、本当に何の変哲もないこの場所です。
……何も、無い。
穴を掘っても、草木に触れても、木に登って空を眺めようとも周りの景色を注意深く見つめようとも、何も。
キツネは、がっかりしました。
そしてそれ以上にタヌキもがっかりしました。
自分達が何者であるのか、本当に全く手掛かりがありません。言葉を持っていようとも、情報を共有しようともきっと分からないほどに手掛かりは全く、ありませんでした。
……この前があったのか? この場所で立っていた、それ以前が?
タヌキが項垂れている中、キツネはそうも思いましたが、それも余り信じられませんでした。
忘れまいと幾ら踏ん張っても数日で忘れてしまいそうな、霧を掻き分けないといけないような記憶を追ってきました。掻き分けても掻き分けてもすぐにまた戻ってしまう霧の中を。
そして、ここはやっとたどり着いた壁でした。壁の先なんて、考えられはしませんでした。
確信に近いほどです。
……私はここで、何かになった。ほぼ確実に。……絶対とまでは言い切れないけれど。
キツネは空を見上げました。
すっきりとした青だけがそこにありました。
*****
とぼとぼと歩いているオオカミまで辿り着くと、そこにはイタチもいました。
オオカミはワシが来てもあまり元気になる様子はなく、不思議に思いました。
ワシは、オオカミほど人間に詳しい訳ではありませんでしたが、人間はどうやらとてもはっきりとした意志疎通ができる、ということは知っていました。
けれど、何かとしての力を持っていても、肉体は変わらずワシのままで、何の変哲もありません。何か同士で仲良くすることまではできても、何を考えているとかは分かりません。
人間が羨ましいと、こういうときは思います。
オオカミは、とぼとぼと歩き続けました。
元々へこたれやすい性格ではありましたが、今回はそれでもかなり、へこんでいます。
分からないままに付いて行っていると、オオカミは頂上の方に行ってみろと、鼻先を頂上の方へ振りました。
……何をやったのだろう。
そう思ってまた飛び立とうとすると、イタチが背に乗ってきました。イタチを乗せて飛ぶことはできますが、自分の口がそのさっき食べたイタチの血で汚れているのが気になりました。
やっぱり意志疎通ができなくて良かった、と思いました。
何食べたのか聞かれたら、どうしよう、と。
普通だったら自分を殺す鳥の背中に乗っている。
緊張やら興奮やらが混じった感情が体の中を占めていました。そのワシが同じイタチを直前に食べていたなどとは全く知らずに。
どんどん地面が遠くなっていきます。ワシは何かとしての力を使いながら、一気に高度を上げていきました。
怖さが一気に増していきます。興味本位で乗ってみたはいいものの、後悔しはじめていました。爪を立ててでもしがみつきたくなります。けれど、ワシが自分を振り落さないように静かに羽ばたいているのも分かりました。
目を強く閉じて、爪を立てないように必死に堪えます。
次第に、羽ばたきが少なくなっているのが分かりました。
ひゅるるると音を響かせる、夏を過ぎた頃にしては冷たい風が体を撫でました。
そして、羽ばたきは全く聞こえなくなり、ワシの体の揺れもほとんどなくなりました。
そこで、イタチは恐る恐る目を開きました。
いつも見るワシの背の上に立っていることが再び目に入ってきます。伸ばした翼の端から端までは、自分の背丈より長く、そして風を受けながら全くその翼を動かさずに飛んでいました。
山の頂上はおろか、その遥か先の地平線までが視界に入ってきます。イタチは目が余り良くありませんが、それでも、こんな高さから見る光景なんて初めてで、果てしない感動を覚えました。
山の頂上を見下ろす、なんて。イタチの中で、いや、鳥以外で自分が初めてなんじゃ。
そんなことも思いました。そして、その頂上を見下ろしたとき、何かがあるのが分かりました。
赤い、何か。はっきりと見えなくても、それは血だと分かりました。
ワシはそれに向かって飛んで行きます。段々と、それが何だか分かってきます。
ある程度まで近付くと、羽ばたいて速度を落としていきます。
うつ伏せになって倒れて動かない、その妙な動物。
イタチはそこで、初めて人を間近で見ました。死んでいても、間近で見るのは初めてでした。
そしてワシは、やっぱりか、と思いました。
……空を飛べても、自分やオオカミだけでは、人間を寄せ付けないことはできない。
…………不審に思われ始めている。
ワシは、人里に何かを伝えるべくした煙を撒かれたことは知りませんでした。そのときは、狩りの為にじっと、身を隠していました。けれども、人間がここまで来た、ということは不安を抱かせるには十分でした。
あの光る、鋭い爪が、細長く、何者より速く飛んで来る棘が、自分に向ってくるかもしれない。可能性は、高い。
そんな不安をよそに、イタチは死んだ人間に興味津々と言ったように身に着けているものを探ったりしていました。
頂上から見る空は青く、大地は先が見えない程に広々としています。翼を広げてやや遠くまで行ったこともありますが、大地に先は見えませんでした。
しかし、皆が今のように楽しく、気ままに生きられるような場所は見つかりませんでした。
……けれど、どうしようもない、か。
真正面から立ち向かっても勝てないのは目に見えていました。
諦めるしかないそれは、けれどやはり、受け入れがたいものでした。
この山で生まれた何かにとって、世界は広過ぎました。そして、その広さを理解できてしまいました。
理解できてしまったからこそ、恐怖し、そしてその感情のままに人を殺してしまいました。
それが、その広さに溺れていく行為なのだということを知らずに。
登って来たときと同じようにイタチを乗せて、山を下って行きます。イタチはもう、震えはしませんでした。
暫く飛んで、オオカミと会った場所の知覚まで戻って来ると、どうやら皆、一か所に集まっているらしきことが何かの感覚として分かりました。
余り気分は良くはありません。これからも、こうした気ままに過ごせる日々が続くとは限らないと、はっきりと示されてしまいました。
その不安に駆られるように、ワシは速く飛びました。早く皆と会って、ゆっくりと、温かい時間を過ごしたいと。
いきなり速くなって、イタチが思わず背中に爪を立ててしまい、痛みで体が震えました。
それと同時に、本当に微かに、何かを感じました。
イタチでもオオカミでも、タヌキやキツネでもない、別の何かがある感覚。
……?
けれど、速度を落としてちゃんと感じようとしても、もう何も感じられませんでした。
……気のせいだったんだろうか。
それが何だか、ワシには分かりませんでした。本当に自分が何かを感じたのかも確信が持てないまま、皆の所へ着いて、降り立ちました。
そして、何故皆がここに集まっているのかも知らないままに、ワシの記憶からその感覚は薄れて、消えてしまいました。
*****
今日も、夜がやってきました。
真っ暗闇になる前にまた、小屋に皆は集まり、ふかふかなオオカミに寄り添って体を丸めたり、石を積み上げたりしていました。
ぱち、ぱち、と火が焚かれています。
最初は誰にとっても、炎の力を持つイタチにとっても得体の知れないものでしたが、慣れてしまえば見ていて飽きないものです。
松ぼっくりを燃やせば色が変わったりします。そして、水気の多いものを入れたりすると弾けたりして怖い反面楽しくもありました。
オオカミが大きく欠伸をして、隣で寝ていたタヌキが寝ぼけながらオオカミと目を合わせました。
……。
嫌だなあ、とオオカミは思いました。
この場所を、どうにかして守れないかと、色々と考えました。けれど、良い案は何一つとして思い浮かびませんでした。
タヌキは警戒など全くしないまま、また体を丸めて眠りに入ります。
イタチがぼうっと、火を眺めていました。キツネが、石をふわふわと浮かせて遊んでいました。
温かい、平和そのものでした。
人間を殺してしまったことが間違いだったのだと、思いました。けれど、殺さずに今の光景があるのかとも分かりませんでした。
ワシと目が合いました。
オオカミの次に目を覚ました何かです。
言葉は無くとも、互いに最も理解し合っていました。そして、ワシが目を逸らしました。
ワシも、良い案は思い付いていないようでした。
夜、皆が寝静まった後、オオカミは見張りに立っていました。
かと言って、じっとしている気にもなれず、うろうろと歩き回ります。夕方、人里の方を見たときは、特に何も気にすることはありませんでした。
ワシもそこまで飛んで行って、様子を見に行っていましたが、何かおかしなことがあった訳でもなさそうでした。
……あの煙は、何を伝えたんだ。
疑問と、不安だけが募っていきます。
ふらふらと歩き回り、歩き回り、特に何事も無く、特に何事も起こらず。
オオカミとワシの不安をよそに、それ以来、人間は全く来なくなりました。
朝と夜が何度繰り返されようとも、夏の暑さが完全に過ぎ去ろうとも。