6. てきはもりにはいない
タヌキがちゃぷ、と前足を水に付けました。隣で見ていたキツネが何をしているのかとタヌキに近付きましたが、そうするとタヌキは慌てて距離を取りました。
……?
何をするつもりだろう。そうキツネは疑問に思いましたが、また少し離れたところでタヌキが前足を水に付けて少しすると、何故か、ぷかりと魚が浮き上がってきました。
浮き上がって来た魚はびくともしません。白い腹を露わにして、そのまま川の流れにはもう逆らうことはありませんでした。
近くの岩場に引っ掛かった魚を取っているうちに、他の流れていく魚は全て鳥が攫ってしまいます。
川辺でタヌキは前足に魚を掴んでばりばりと食べていきます。
キツネも魚を前足に掴みはしましたが、食べる前にどういうことなのだろうと疑問に思いました。食べないの? とタヌキが自分の方を見て来たときに、魚が目を覚ましたのか、びちびちと跳ね始めてしまいました。
思わずキツネは驚き、魚から手を離してしまいます。
岩場でびちびちと跳ねるその魚に、タヌキは起き上がって、前足で触れました。
その瞬間、びくびくっ、と震えて、魚は今度こそ動かなくなりました。タヌキが触れた部分は、若干焦げていました。
……なんだろう、これ。
ちょいちょい、と触れてみても、魚はもう本当に動きません。完全に死んでいます。
その時でした。タヌキの前足が、自分の前足に触れました。
ピリッとした今までに感じたことの無い、何かが駆け巡るような感覚がしました。痛くはありませんでしたが、思わず驚き、タヌキを吹き飛ばしてしまいました。
小石と共に吹き飛び、ぼちゃん、と水の中に落ちていきました。
むっすりと、ぐっしょりとしたタヌキを拾い上げて、また河原に戻って行きます。
落ちる方向を変えるという自分の力に対して理解は段々と付いていきましたが、繊細なことはまだ何も出来そうにありません。毛皮の水だけ取ってみようとか、そんなことも試してみようとしましたが、どれも上手くいきませんでした。
魚を食べ終えると、次第に眠気が襲ってきました。
けれども、寝るにせよちゃんと場所を見つけなければ。そんな事を思っていると、タヌキは辺り構わず、寝心地の良さそうなところで、全く隠れることなく眠り始めてしまいました。
え……。
あの、ちょっと?
前足で触れてみますが、タヌキは大丈夫だから、と言うように全く動きませんでした。
子供だから? 何も知らないから? いや、でも。
何かになってからの時間は幼体としてのこのタヌキの方が、成体としての自分より長いことは明らかでした。
どうするか迷っているうちに、タヌキは寝息を立て始めていました。
すぴー、すぴー、と呑気に寝ています。
……大丈夫、なのかなあ。
タヌキには、警戒の色など全くありませんでした。まるで自分を襲う者がいない、と確信しているように。
いや、これは自信でもあるのだろうと、キツネは思いました。
多分、タヌキは触れるだけで相手を殺せる力を持っているのでしょう。だから、こんな堂々と寝られる。
それでも、キツネは流石にこんな見晴らしの良い場所で寝る気にはなれずに、タヌキの隣で座ってゆっくりとするに留めました。
ざあざあと水が流れる音が響き続けています。
その音に掻き消されて、他の様々な音は全く聞こえませんでした。他の獣が歩いて来るような音も、ワシやタカが飛んでいるような音も。
やはり、不安でした。
けれども、どれだけ時間が経とうとも、こんな見通しの良い場所で寝ているのに何も来ることはほぼほぼありませんでした。
遠くに鹿や小鳥が見えたり、その程度です。
一度だけ、仲間でないただのオオカミが遠くの木々の隙間からこちらをじっと見つめていたことがありましたが、こちらが気付いたことに気付くと、去って行きました。
自分が何かを仲間だと心地良く感じるように、他の獣もこの何かに関して感じるものがあるのだろうか。
きっとそれは、心地良いものではない、とキツネは思います。
……。
そしてやっとキツネは、そのことを思い出しました。
そもそも、生まれてから一日経っていないようなものなのだと。それなのに当然のように歩いて、当然のように物を食べて、鮮明に物を考えて、そのおかしさにやっと、気付きました。
子供はおろか、親すらいないこと。その記憶もすっぱりと無いこと。生まれ育った記憶も、ここがどういう場所だということも、そもそも何かになる前はどうやって生きていたのか、そもそも生きていたのか、それすらも分からないことに。
なのに、歩いて、食べて、考えている。
皆が昨日、自分がいた場所を調べていたことにようやく合点がいきました。その疑問を皆、持っているのだと。
キツネは、そして自分が、ただの獣とは全く違う何かになっていたことに気付きました。
同じなのは見た目だけかもしれません。
*****
ワシが木の幹に身を潜め、そこから開けた山の斜面をじっと眺めていました。
獲物を狩る必要はありません。昨日の鹿がまだ残っているからです。けれども、何かになっても肉食獣としての感覚はそのまま残っているようで、狩りをしないと体がどうもうずうずするのです。
枯葉で覆われた地面、生い茂る木々の葉の隙間の先まで、じっと見つめています。
何も動かない光景が続いても、ワシはじっと前を見続けました。ほぼほぼ動かないまま、動くとしても時々瞬きをする程度です。
そして、その光景の端で何かが動いたのを見て、びく、と体を揺らしましたが、堪えました。
まだ、駄目だ。
すばしっこく走り回り、辺りをきょろきょろと見回すその獣は、イタチでした。
……。
まあ、いいか。あいつじゃないし。
ほんの少しだけ迷いましたが、ワシにとって、ただのイタチはそれ以上でもそれ以下でもありませんでした。
でも、同じ何かであるイタチには余り見られたくはないなとは思います。
念の為、近くに仲間が誰もいないことを確認してから、そのただのイタチの動向を注意深く眺めました。
木の実が沢山生えている木に登り、幹から枝へと伝います。
一つ、もぎ取って、前足で掴んでカリカリと食べました。もう一つ、もう二つ、そう食べている内に、ゆさゆさとその枝が揺れて、いくつかの木の実が地面に落ちていきます。
その枝に生る木の実が全て食べ尽くされたその後に、イタチは下に落ちた木の実を食べに地面に降りました。
そこでまた、一つ、二つと食べている最中に、自分に背を向けました。
ワシはその瞬間体を前に傾けて翼を広げ、イタチに向って飛びました。
最初に数度羽ばたいただけで後は、翼を広げたままただ滑空していきます。風の力を使わずとも、とても速く、すぐにイタチが近くなっていきます。
流れるのは、風の音だけ。ワシが滑空しても、それに変わりはありません。
イタチがワシに気付いたのは、唐突に自分の周りに影が出来たときでした。
その直後、鋭い両足でむんずと掴まれ、足掻く暇もなく首を抑えられ、ぽきっと音がしました。
何かであるということは、他の獣から敬遠されるということでした。襲う側の獣からも、襲われる側の獣からも。何かとしての気配は目で見えなくとも、音が無くとも、感じようと思えば感じられるらしい、とワシは段々と理解していました。
重要なのは、感じようと思えば感じられるらしい、ということです。
そして、感じようと思わなければ感じられないらしい、ということです。
警戒されることすらなく襲うことができれば、仕留められます。少しでも警戒されていたら、何かとしての気配を感じ取られ、逃げられてしまいます。
最初は良く、お腹が減っていたな、とワシは肉を啄みながらしみじみと思いました。上空から急降下して襲う方法では、ほぼほぼもう、仕留めることはできませんでした。その速さを行かそうとしても、先に気付かれ、そして警戒もされてしまっていては仕留められるはずもありません。
オオカミの獲って来た肉を食べてさせてもらって飢えを凌ぐ、そんな日々は結構な間続いていました。
腹が膨れる前までに留めておいて、後は残してまた、ワシは飛び立ちました。満腹でも風の力を使えば難なく飛ぶこともできますが、その力に頼りきってまで生きようとはしていませんでした。
頼れるものであり、それは自分の体の一部であることも間違いないのですが、得体の知れなさはずっと付きまとっていました。
何故、こんな力があるのか。誰もが思うその疑問が解き明かされなければ、その力に真に自分の一部分として受け入れることはできませんでした。
けれども、新しくキツネが仲間に加わっても、そのキツネが来た場所の近くを丹念に鋭い目で見通しても、何も見つかりませんでした。何も分かりませんでした。何も。
この山には何かがある。
けれど、そこまでしか分かっていません。
……そもそも、分かる時は来るのだろうか?
ワシは流れる風の中を飛びながら思いました。青い空、広がる緑。さわさわと緑が揺れる風の音。湿り気が適度にある風。
何事も無ければ、それでも良いのかもしれない。何事も無ければ。
けれども、ワシも分かっていました。
人という脅威が近くにあるまま、何事もない、なんてことがずっと続くなんて、ないことも。
旋回して、山の頂上の方に行こうかとでも思ったとき、その山の頂上の方から降りて来るオオカミの姿が見えました。
どうも、しょぼくれているようで、いつもはピンとしている尻尾がだらりとしていました。
何かあったんだろうか。
そう思い、ワシは飛んで行きました。
*****
タヌキは何事もないように起きて、そしてまた、キツネと昨日会った場所に歩いて行きました。
キツネもその隣を歩いて行きます。
誰かの獣道を子供ながら我が物顔で通り、そして何にも警戒しない姿は見ていて冷や冷やしていきます。けれども、警戒する必要すらないのだとも段々と分かってきました。
タヌキが起きるまで、結局誰も襲って来ることはおろか、近付いて来ることすらありませんでした。
ただ、キツネはそれは、恐れられていると言う感じではないような気がしました。じっと見て来た、ただのオオカミの様子は毒のある植物や動物を目にしたときのような、そんな様子なように思えました。
敵、というよりかは、関わらない、触れない方が良いもの。
……私は、どう生まれてきたかも分からない。何故こんな力があるのかも分からない。
生まれて、生きて、死ぬ獣、それから遥かに遠いものになったのだという実感がキツネのの中でじんわりと満たされていきました。窪みの中にさらさらと砂が溜まっていくように。木の洞に雨水がちょろちょろと流れ込んでいくように。
何故。何がどうなって、今の自分がここにいるのか。物の落ちる方向を操れる、そんな変な力まで手に入れて。
その疑問は、目が覚めてから一日としないうちに形になっていきました。
そして、自分初めて目を覚ました場所に辿り着きました。
……。
あの時、皆が何をしようとしていたか、はっきりと分かった。
私が来た場所に何かないか、調べていたんだ。
キツネは、目が覚める前、おぼろげにふらふらと歩いていた記憶を振り返ります。
夢うつつだった。けれど、少しだけ、覚えている。
風と雨と、雷の轟音で時偶に光る暗闇の中、覚束ない足取りなのに何故かぶつからずに歩いていたその記憶。
キツネは、その場所から更に歩き始めました。
来た場所へと。タヌキと向き合ったその方角と逆の方向に。
キツネは目を細め、ゆっくり、ゆっくりと一歩一歩、地面を踏みしめながら、慎重に確かめながら歩いて行きました。
その様子に気付いたタヌキもその後ろを付いて行きました。
何かある、キツネは何か覚えているのか。
その期待と緊張が、タヌキの中で渦巻き始めました。