5. りかいできないからこそ
昨日の激しい風と雨で、臭いはまっさらになってしまっていました。
多少じめじめしているけれど、すっきりとした風。そこには、この山に染み込んだ様々な臭いなど全くありませんでした。
本当に情報の少ない、まっさらな匂い。いつもならとても嬉しい匂いでもありましたが、こんな今ではとても苦しい匂いでした。
足跡からは特別違った臭いは感じられませんでした。周りからも。
徹底的に、臭いは消されていました。
……。
オオカミは、自分がただのオオカミではなく、何かとしてのオオカミであることがばれているのではないか、と心を冷やしました。
自分が人間を近寄せない為にやっている殺害という行為は、怒りを買う行為だとは当然分かっていました。ただのオオカミであろうとも分かることです。そしてまた人間達には、何かとしての力が無いし、知っていないであろうことも、オオカミは知っていました。
もう行くことはなくなりましたが、オオカミもその地平線近くの人里まで行ってみたことがあるのです。何度も何度も、夜な夜なこっそりと、その人間という一風変わった生物に興味を惹かれて。
だからこそ自分とワシが行っている、ここにやってくる人間の処分の仕方は、自分とワシの仕業では無いと思わせることが出来ると思っていました。
数には普通に負けるような、少しだけの、何かとしての力で不思議に、訳の分からないままに殺す。
ばれてしまったら、人間達の怒りは爆発するでしょう。
オオカミは、もう後戻りはできないのだとも分かっていました。月の輝くある夜、人に見つかり、鋭く光るとても長い爪を出されて思わず殺してしまった、その瞬間から。
鋭い鼻でも、中々に臭いは辿れませんでした。排泄物も全く無く、汗の臭いさえも感じられません。
気を引き締め、緊張が身をも引き締めていくうちに、体の感覚が段々と鋭敏になっていきます。
湿った地面。洗い流された臭い。柔らかく光る昼前の太陽。どこにいるか全く分からない人間。
…………。
…………?
耳を立てて、臭いを嗅ぎ、流れてくる風の先々を見通すように神経を集中させながら、続いて感じたのは自分の体への違和感でした。
体が軽い感覚。集中しただけでこうなるとは思えないような。
少なくとも、毒のある植物を運んでいたときは、こんな感覚はありませんでした。
……それよりも、危険だからか。恐怖が深いからか。
オオカミは、そう思いました。
あの弾性を生かして飛ばす細くて尖ったものに体を貫かれるかもしれない。細長く鋭い、光る刃に身を切り裂かれるかもしれない。
その恐怖は自然と集中を深くしていました。
けれども、それだけでは今の感覚に理解はできませんでした。体は軽く、走ろうと思えばきっといつもよりかなり早く走れるでしょう。そして、臭いもより遠くまで感じられています。
自分がただのオオカミではなく、何かだからそんな事が起きているのでしょう。
……いや。
今は、考える時じゃない。
オオカミは、思考を止めて、また自分の感覚への集中に戻りました。
考えることはいつでもできます。死なない限り。
今は、この山へ入って来た人間を殺すことが最優先でした。
もう、戻れないのです。人間の一切を寄せ付けない、その道を選んでしまった以上。
段々と足跡は山の頂上に向かっていました。何故、殺しても殺しても人間は幾度もこの山に来ようとするのか。何故、そもそも人間というのは他の獣達と違うのだろう。
そんな浮かび上がって来る疑問をオオカミは振り払ってただただ山を慎重に登っていきました。
ひたすらに、ひたすらに。
思い出すのは、きりきりと引き絞られる狙いでした。ぱん、と音がして何よりも速く飛び、遠くの的を貫くその鋭い棒でした。
思い出すのは、自分を見て光る爪を抜く人間でした。鋭さと恐怖に怯えて、思わず何かとしての力で首を切った自分でした。明るい月、そしてどばどばと首から流れ落ちる大量の血、手から落ちて地面に冷たく横たわる爪でした。
集中できていないことが自分でも分かります。体が軽い感覚も今はありませんでした。
一旦足を止めて、大木の陰で座りました。
記憶が、集中を邪魔をし始めてしまったら、もう中々元には戻れませんでした。
特にこれからするのは、あの時以来の、自分が直接、殺しに行くということでした。どうしても、思い出してしまいます。
息を落ち着かせて、目をほんの少しの間だけ閉じて、心を整えます。
そして、また立ち上がって歩き始めました。
*****
じゃり、じゃり、という音がします。
僅かな痕跡を辿っていく内に、とうとう木々が生えない高さまで来てしまいました。砂利や岩々、僅かに生えている背の低い植物達が景色を占めています。見晴らしはすこぶる良く、もう見えない場所から何かが飛んで来るとか、そんな警戒もする必要は無さそうでした。
しかし、その人間の姿は目では未だに見えませんでした。ただ、風から流れて来る臭いでは、確かにこの先にいるようでした。
人間の体臭がはっきりと感じられています。
殺意や嫌悪はありません。自分達の安寧の為に、殺さなくてはいけない。ただそれだけです。
前からあったことだ。今更戻れない。そう何度も自分に言い聞かせるのは、こうする以外のもっと良い方法は無かったのかと思ってしまう後悔があるからでした。
もう戻れないと分かりながらも。とっくにもう、前脚と後ろ脚の指の数より多くの人間を殺してしまったのです。
太陽は高く昇っていました。人間が来なければこんなこと考えずに太陽を浴びながらゆっくりとしていたんだろうとも思いました。
山頂に近付いて来た頃、オオカミの視界に人間が入ってきました。
毛皮を羽織り、笠を被っている人間です。その身にまとっているものからは全くと言って良い程臭いを感じられませんでした。
しかしながら人間は、自分に気付いているのにも関わらず、じっと自分を見たまま何もしようとはしてきませんでした。
両腕は、毛皮の下に隠れていて、何を持っているのかも分かりませんでした。
……俺を、ただの獣だと見ているのか? それとも、何かとしてもう既に警戒しているのか?
…………どちらにせよ、殺すことには変わりない。
オオカミは一歩一歩、人間に向って歩いて行きました。その動きこそが、オオカミがただの獣ではないことを示しているのに気付かずに。
人間が瞬時に動きました。
棒立ちからオオカミに対し横に体を向け、肩幅に足を広げました。オオカミに向いた方の腕に小さい弓を、そしてもう片方には矢を持っていました。
矢を弦に番え、ぎっ、と一瞬で引き分け、ふっ、と息を短く吐き、立ち止ったオオカミに向けて躊躇無く放ちます。
その矢は、不自然にオオカミの目の前で曲がり、砂利に突き刺さりました。
「は?」
人間は素っ頓狂に呟きました。
それでも、小指と薬指に挟んでいたもう一本の矢を番えて放ちましたが、結果は変わりませんでした。
まるで妖術のように、矢は不自然に曲がりました。
オオカミは、歩いていきます。
その鋭く尖ったものは、軽いことをオオカミは知っていました。意識できていれば、曲げること位なら造作ないと分かっていました。
人間は腰から何かを取り出そうとするのを見て、オオカミは走り始めました。
距離がみるみる詰まり、人間は取り出したものを指で弄って、それをあらぬ方向に投げました。
……?
疑問は浮かびましたが、オオカミは人間を殺すことを最優先に考え、走り続けました。
力が届く範囲に入った瞬間、爪を取り出しつつあった人間の首を風で切り裂きました。
「っ……」
人間は首を抑えますが、漏れ出す大量の血をせき止めることは出来ずに、膝から崩れました。
全く、あの明るい月の夜と同じでした。
人間が倒れ、命が消えていくのを油断なく見つめていると、ふと、視界に変なものが入りました。
耳を澄ませば、しゅーっ、と何か変な音も聞こえます。
人間の首をより深く切り裂いてから、全く動かなくなったのを確認して、オオカミは音のする方、先程人間が物を投げた方を見ました。
そちらからは、煙がもくもくと立ち上っていました。ただ物を燃やして出る煙とは全く違う、形が良く見える、黒い煙でした。
これは……?
煙の先には、小さく人里がありました。
これは、もしかして、何かを伝えようとしている?
ぶるり、と体が震えました。何を? 煙だけで何を伝えようとしているんだ? そんな疑問が頭の中を駆け巡ります。
オオカミはすぐさま斜面を走り始め、今もころころと転がり続ける、煙を撒き散らし続けるそれを追い掛けました。
がらがらと石が崩れていきます。転んでしまいそうになりながら、時に滑りながら、斜面を駆け下ります。
刹那が過ぎる度に、焦りが増えていきました。人間達に対する恐怖が、どんどん膨れ上がりました。間違えたのか、失敗したのか、そんな考えが頭を過ります。
もっと良い方法はあったんだろうか、あったはずだ、どこに。
足を滑らせ、オオカミはごろごろと斜面を転がりました。咄嗟に風で体を支えて、止まりました。
転がったのが一瞬でも、結構色んな場所を打ち付けて、じくじくとした痛みが感じられました。後ろからはざらざらと転がって来る石の音が続いていて、必死に追い続けた煙を出すものはもう、役目を果たしたようにぷすぷすと微かに音を立てているだけでした。
空には、黒い煙がはっきりとありました。
風に流されて、程ない内に消えてしまいましたが、煙は確かにそこにありました。
オオカミはへたり込みました。
これから、どうなるんだろう。どうなってしまうのだろう。
この煙を見て、人間達はなんて思うのだろう。どういうことを知るのだろう。
考えても分かりませんでしたし、考えること自体も今は余りしたくありませんでした。
ああ。
逃げなければいけない時が来るかもしれない。どこに? いつまで?
体を丸めて、頭を埋めて、目を閉じました。
間違えていたんだろうと、オオカミは認めざるを得ませんでした。殺して、殺して、殺して、その先にあるのは、自分達に跳ね返ってくる恐怖でした。
分かってはいました。けれども、戻れなかったのです。
太陽は高く昇り、こんな時でもお腹は減りました。きゅるる、とお腹が鳴りました。
……、皆の所に戻れば、少しは気分が晴れるだろうか。
晴れても、その先を考えてしまうと憂鬱な気分は続きそうでしたが、こんなところで丸まっているよりは良さそうでした。
オオカミはゆっくりと立ち上がり、山を下って行きました。
尻尾は垂れて、耳もへたりとしたままでしたが、それでもオオカミは歩いて行きました。