4. がいめんだけがおなじ
自分を何かたらしめているものとして、他のイタチや、捕食者すらからも敬遠されるということがありました。それは、寂しさや安心といった感情を生むと同時に、ある意味誇りにもなっていました。
自分は他の獣と一線を画した存在だと。
狙われるという経験は、何かになってからはありませんでした。狙われるということは、自分が何かであるという誇りを傷付けられたことでもありました。
誇りを取り戻したい。
感じていた劣等感と相まって、イタチの中で逃げる、助けを呼ぶという選択肢は選びたくないものになっていました。
クマの体当たりの衝撃と、みし、みしみし、と木が内側から裂け、壊されていく感覚が伝わってきます。
クマはまだ、自分を獲物として見ていました。小屋の中の皆は、出て来る様子はありません。体当たりの音も、この雨風に掻き消されてしまっているのでしょう。
……俺に殺すまでの力はなくとも、追い払えるまでの力はあるはずだ。この雨の中でも。
そう信じました。雨の中でも、熱を与える力はそのまま使えます。それを、急所にやれば。
べきべき、とさっきとは違う音がしました。ぐらり、と足場がより一層強く揺れました。
クマがとうとう倒れそうな木に抱き付き、今度は力任せに引きました。両腕が塞がっています。その時を狙って、イタチはクマの頭に飛び降りました。
脳天に爪を立てて後頭部にしがみつき、そしてイタチは、そのクマの目に向けて、自らの何かとしての、火の力をありったけ込めました。
「―――――!!!!」
それは、何とも形容し難い、いや、できない、今までに聞いたことの無い悲鳴でした。痛々しいという表現ではとても間に合わないような張り裂けるような。断末魔なんかよりも、殺すよりもよっぽど酷いことをしたような、罪の意識すら湧いて来るような。
一瞬、呆気にとられてしまう程でした。その直後にクマが暴れ始め、イタチはすぐに離れました。
クマはのたうち回り、目をひたすら地面にこすりつけ、それでもまだ足りないというように頭を地面に叩きつけ、嘔吐しました。
イタチが真先に感じたことは、自分が誇りを取り戻せたことではなく、自分への恐怖でした。
……何故、俺はこんな力を持っているのだろう。
とにかく、何が何でもと言うように苦痛から逃れようとするクマを見ながら、イタチは茫然としていました。ふと湧いた、その疑問が頭の中をぐるぐると回り始めました。
そして、やっとこさ中で寝ていた皆が気付いたようで、扉が開いた音がしましたが、その直後クマは一目散に逃げていきました。
木々にぶつかりながら、転びながら、後ろにいる自分が恐ろしくてたまらないように、逃げていきました。
*****
朝が来ると、外はすっかり晴れていました。地面はどこもかしこもぐしょぐしょで、簡単にぬかるみに足がはまってしまったりしますが、空は雲一つないすっきりとした青空でした。
ただ、皆が外に出始めても、イタチは小屋の中でぼうっとしていました。劣等感はもう、ありません。しかしその代わりにそれよりも深い悩みができてしまっていました。
……何故、俺は、いや、皆は何かになったのだろう。
元からの疑問ではありましたが、より一層それを知りたいと思うようになりました。
……そう言えば、キツネだ。
キツネはどこから来た? タヌキは知ってるはずだし、多分皆その方に行っている。
こうしてはいられないと、イタチも小屋から飛び出しました。
キツネとタヌキが前を歩いていました。その後から、オオカミが、空をワシが飛んでいました。
……僕は、どこから来たんだっけ。
この辺りだったかどうだったか、それも覚えていませんでした。
……生まれたてみたいなものだったからなあ。
ワシが降りて来て、オオカミの背中に着地しましたが、特に何もない様子でした。
途中、イタチが走ってやってきました。
その少し後に、足が止まりました。キツネはどうしてまたここにやってきたのか分からないままでしたが、オオカミやタヌキが臭いを嗅いだり、イタチが木の上に登って遠くを眺めたり、ワシがまた空を飛んで行ったりする様を見て、何かを知りたいのだとは思いました。
イタチは、タヌキがいた場所を覚えていました。こことの場所の関係は、遠くはないが、近くもない、そのくらいでした。
木々や草が生えているだけの場所です。近くに川とか崖とか、岩場とか、そういうものは調べた限りではありませんでした。
どこからやって来たのか。どうして何かになったのか。意図的なものなのか、偶然なのか。
それぞれに共通点はほぼほぼ、見つかりませんでした。強いて言えば、場所が絞られていること位です。絞られていると言っても、とても広い範囲なのですが。
オオカミが、空を眺めました。
…………。
その、何故、という疑問は自我が明らかになるに連れて皆、追い求めるようになるものでした。
ワシも、オオカミも。そしてきっと、キツネも。
一番体躯が大きく、一番古くから何かとしてこの山に住むオオカミは、他の皆にはない、もう一つ疑問を浮かべていました。
……何故、俺の前がいないんだ?
それは、自分が何かになる前に、きっかけとなることが起きたからでは、と言う推測に段々と繋がっていきました。
けれども、自分の過去の記憶は思い出せません。その疑問を解決しようと思ったときにはもう、何かとしての、よりはっきりとした自我を自覚してから暫くが経った後だったのです。当然、生まれたてみたいな時のことなんて、覚えてはいませんでした。
この山には何か、ある。
けれどその何かを探る為の手掛かりは、こうして仲間が増えていこうとも、ほとんど無いに等しいままでした。
それを探すことを諦めようか、とも少し思います。
分からないことをずっと追い求めても、頭の中のもやもやが溜まるだけです。この山に住む他のオオカミ達は、こんな難しいこと考えることも無いでしょう。知りたくて溜まらないのに、ずぅっと分からないままのことなんて無いでしょう。
けれども、そんな呑気にも、もうなれませんでした。
群れ、とは違う感覚ですが、仲間達との温かい場所が出来つつあります。オオカミは、それを守らなければいけないと強く思っていました。種族としてのオオカミとして、ではなく、その何かであるオオカミ自身の意志として。
そして、知れば知る程恐ろしくなってくる人間は、この山には入れる訳にはいけませんでした。
そんな中、仲間がもっと沢山増えたら良いな、とオオカミは思います。
増えれば、増えただけ、楽しくなるでしょう。オオカミの群れが何の争いも無い、なんて事は無いように、いざこざも少なからず増えてきてしまうでしょうが、きっと楽しいことの方が多いと思いました。
そして、人間達の恐怖から身を守るのも楽になってくるでしょうし、何かの謎にも迫れるでしょう。
そう思うと、何だかわくわくしてきました。
けれど、それが実現する頃に、自分は生きているだろうか?
ふと思ったその疑問で、一気に不安になってしまいました。
結局何も分からないままだなあ、と思いながらタヌキがぶらぶらと歩いていると、一つの木を見つけました。
見事な程に真っ二つに裂けた木です。ところどころが焼け焦げていました。裂けた痕はまだつやつやとしていて、そう時間が経ったものではありません。
こんなことになっている原因は一つしか考えられませんでした。
雷です。
雷って怖いなあと思いながら、その裂けた木を眺めていると、自分の力との共通点があることに気付きました。
枯草に自分の力を流し込んでみると、次第に焦げていき、そしてじゅわじゅわと煙を出した後に、ばりっ、と崩れていきます。
イタチが物に熱を与えられるように、タヌキも物に触れて力を使えば熱を与えられるのですが、その後は燃えるときより、焦げていくことの方が多かったのです。そして、崩れていきます。
地面に近い方の、雷が走った跡には、焦げた枝や草がありました。
……僕の力って、もしかして。
体の中をじんわりとした高揚が包み始めました。息も荒くなるような、そんな期待がありました。
雷の、力なのかな。あの、とんでもない音と光を出す、雷と。
そう思うと、なんだかしっくりくるような気もしました。空気中に出せる力では到底ありません。もし、空気中に出せたときにあんなものが出てしまったら、危険どころではないです。皆、殺してしまう。
タヌキは本当に、目に見えるまで強い力が出なくて良かったと、とてもほっとしました。
……本当に雷だったら、嬉しいなあ。
裂けた木は、何度見ても飽きが来ませんでした。木の幹はクマでも倒せないほど太いのにも関わらずざっくりと裂け、枝や葉は萎れ始めています。
本当にこれが僕の力なんだろうか、と疑念はまだありますが、それでもやっぱり僕の力なんだろうとも思えてきます。これ程に自分の力と近い現象は、見たことが無かったのです。
誇り高くなってくるような気持ちと、やっと自分の力がはっきりと分かったという、落ち着いた気持ちにもなりました。
……でも、もうちょっと強く出来ないかな。流石に雷とまではいかなくとも、何かもうちょっと派手にならないかな。
そんなことも思いました。
首を上下に動かして、何度も何度も見返して、その雷の力に感動すら覚えるような力強さを何度も何度も身の内に沁み込ませて。その度にこれが僕の力なんだという確信が強くなっていきます。飽きはいつまで経っても来ませんでしたが、流石に少し首が疲れてきました。
……そう言えば、昨日は雷沢山落ちてたし、もっと他の場所で落ちているの無いかな。
そう思って、辺りをきょろきょろと眺めてみました。
流石にすぐ近くには見つかりませんでしたが、その代わりに何か変な足跡が目に付きました。
指の跡もない、平べったい足跡でした。四角くて、そんなデコボコもしていない、変な足跡です。
それは、真直ぐ上の方に進んでいました。
何だろう、この足跡。この山に住んでいる全ての獣の種類を見知っている訳ではありませんでしたが、こんな足跡は今まで全く見たことがありませんでした。追って行こうかと思って顔を上げて、その時後ろからオオカミがやって来ていたのに気付きました。
様子を見に来ただけのオオカミはその足跡を見つけて、緊張を一気に高めました。
人間が、この山にいる。
ぴりっとしたその緊張は、近くにいたタヌキにもすぐに伝わります。
目に付いた人間は全て、この山に入らない内に、ワシと共に対処してきました。けれども、ワシの翼と目があれど、山の四方を全て監視することはできません。
人里が見える場所に一か所しか無かろうとも、他の辺りが全て見晴らしの良い草原であろうとも。
オオカミは、タヌキの方を振り向いて、付いて来ないようにと、鼻で元来た方向に強く押しました。
押されて、それでもタヌキはもう一度、オオカミの方を振り向きました。
すると、ウゥ、とオオカミは低く唸りました。絶対に来るな、と。
タヌキはいきなり唸るオオカミに怯えながらも、そのオオカミが危険なところに行こうとしていることに心配を隠せませんでした。
けれども、タヌキは戻ることしかできませんでした。
自分の力が分かっても、この小さな体と、空気中に放てないこの何かとしての力では、何もできませんでした。