10. びりょくなけものたちは
うとうととイタチやタヌキが眠気に負けそうにもなりましたが、流石に今ばかりは起こしました。
言葉という便利なものはなくとも、皆が等しく知りたかったそれが、今確かめられようとしているのです。寝てしまい、それが起きるのを見ないなど、許すことではありませんでした。
一筋の風が、通り抜けました。枯れ葉が少し舞い上がり、そしてひらひらと落ちていきました。
満月ではありませんが、真っ暗闇なほどでもなく、目の前にシカの死体が相変わらずあるのは変わりありませんでした。
びくとも動きません。
オオカミによって首をぼき、と折られたシカがただそこにあるだけです。
どれ程待ったのか、月の位置が大きく変わっている程にまではまだ、時間は経っていませんが、まだ何も変化はありませんでした。
何も起きないのだろうか。
もし、何も起きなかったら……。
……俺達はどうやって何かになったんだ?
ここで何かになった。寝て起きたら何かになってたとでもいうのか?
それとも……、無から唐突に表れたとでもいうのか?
そうだったら…そうだったら……いや、そうだったとしても俺が今、ここにいるのには変わりないな。
そうだったとしても、俺達がここで何かになったのはもう絶対なんだ。これで駄目だったとしても、この周りをずっと見張っていればその内、分かるはずだ。
そう思うと、少しだけ体が落ち着いた気がしました。けれども、ずっと見張っているのも面倒だなあ、とも思いました。
オオカミも欠伸をして、その時、ぴき、と小さく音がしました。
……?
欠伸を止めて、また、うとうとしていたタヌキを起こします。
…………。
ざあ、ざあと風の音、揺らぐ木々の音。
そしてまた、ぴき、と音が確かにしました。鹿の死体から、その音は鳴っていないか。
オオカミは集中しました。とても強く、深く。この場所に何か異変が起きていないか。
……。
…………。
ぴき、とまた音が鳴りました。
けれど、何も感じられません。
オオカミは鹿により近づきました。何かが起こり始めていることは確かでした。そしてそれは多分、何かになる過程でした。
ぴき、ぴき。
それはオオカミが折ったシカの首から鳴っていました。
耳を澄ますと、じゅわじゅわという音もそのシカの体から感じられました。そして、地面からシカに、静かに吸い上げられるようにして何かが入り込んでいました。
それが、すぐ近くに居れば、微かながら感じられました。
皆、興味津々に、そのシカの周りに集まります。体は全体がぴくぴくと動いていました。首からは、その折れた骨が再び繋がろうとする音がはっきりと聞こえました。
喰い散らかした死体もちゃんと治るんだろうか? オオカミはそうも思いましたが、流石にそれはないだろうと考えます。
失った血や内臓まで元通りになるとは流石に考えられませんでした。
けれども、やってみようとは思いました。
タヌキがその肉体に触れようとしたのを、オオカミは止めました。復活しようとしている、生き返ろうとしている。自分達と同じ何かになろうとしている。
今、目の前で起きていることはそれでした。しかしながら、どういう理由で、どうして復活しようとしているのか、何かになろうとしているのか、それは全く分かりません。
ここで死ねば何かとして復活する。それまでは分かっても結局、何かは何かでしかなく、それがどういうものなのかは何も分かっていないのです。
人を簡単に殺せさえできるその力が、体に入っている。
それを邪魔すべきではないとオオカミは感じました。
暫くして、シカの体から震えは収まって行きました。首からももう音はしません。
オオカミ達はまた、距離を取りました。
記憶の無い、そのおぼろげな時間があったこと自体は皆、覚えていました。そしてそれもやはり、邪魔すべきではないと皆が感じました。
生まれたばかりの草食獣が必死に立ち上がろうとするように、鳥が初めて翼をはためかせるように、それは手助けをしてはいけないものだと直感したのです。
風の音が鳴り、枯草が舞い、月明かりが雲に何度か隠れ。
そんな時間が幾ばくか過ぎた後、シカは虚ろに立ち上がりました。
ふら、ふら、と。まるで、何かに操られているように。タヌキはあのときのキツネと同じだと思いました。キツネも、あのときの自分と同じだと感じました。
シカは、そのままどこかへと歩いて行きます。
目の前に木がありましたが、意識があるようには見えないのに何故か避けて、歩いて行きました。
その後を、オオカミ達は歩いて行きました。
そして、シカは目を覚ましたその直後、ふと後ろを振り向いて、とても驚きました。
*****
さらさらと初雪が降り始めていました。
オオカミは今日はネズミを殺して自分だけで食べていました。ワシも、自分だけで獲物を獲って食べていました。
シカを食べることはやはり、避けるようになりました。
シカは元々オオカミに狙われる立場だったからか、食べていたのだろうとは薄々勘付いてはいるようですが、それでも目の前でそのただの獣であるシカを食べる気にはなれませんでした。
もう、皆で何かを食べるということはできないんだろうなあ、と思うとオオカミは、せめて雑食の獣を選ぶべきだったと少し後悔もするときがありました。
でもそれは、些細なことした。
争いに負けて死にかけていたオオカミ、オスに殺されたらしき子供のクマが同じ何かとして仲間として新しく加わり、静かだった数匹だけの集まりは、賑やかになりつつありました。
それはやはり、嬉しいことでした。
しかしながら、意図的に何かである仲間を二匹も増やした後も、分かったことは多くはありません。
死ぬ前の記憶は相変わらずなく、そして傷の激しい死体は生き返らないということだけです。
泥まみれになりながら幾ら穴を掘ろうとも、何も分かりませんでした。
それ以上のことはやはり分からず、イタチの老いは増していました。肉体の衰えは驚くことに殆ど見られなくても、毛並みはぼろぼろになり、体は痩せていくのが目に見えていました。
それは何かが肉体を支えようとも、老いには勝てないのだと示していました。
激しくなる老いは、その内何かの補助を追い越すのでしょう。そして、やはり死んでいくのでしょう。
音もなく白く染まり始めた景色に老いというものは何故か似合っている気がして、何だか悲しくなります。増えているとは言え、数少ない仲間が死ぬのはやはりとても辛いことでした。
……きっと、老いて死んだイタチをあの場所に置いても何も起こらないのだろう、とオオカミに限らず、誰もが思っていました。
そして、何かによる復活は全く新しいものではないのだと。
死んで果たせなかった残りの命を、代償とおまけが両方付いて、また果たせるようになる。
そんなものなのだと、段々と理解が深まっていました。
代償も、おまけも、どちらも大き過ぎるものではありましたが。
体に降り積もりつつあった雪を振り落して、オオカミは立ち上がりました。
流石に雪も降ってくれば、毛皮があれどじっとしていれば寒くなってしまいます。
人間は相変わらず、もう来ることはありませんでしたが、それでもオオカミは半ば習慣のように、地平線近くの集落を眺め続けていました。
終わりと思えないのは、杞憂なのだろうかと、何度も思いました。ワシももう、人里に行くことはほぼほぼなくなりました。けれど、ほんの僅かな不安が、自分が山頂で殺した人間の最後の行動がオオカミをずっと縛っていました。
あれは、本当にもう来ないように、という合図だったんだろうか。それとも、何か、もっと別なことを知らせるものだったんじゃないか。
それは恐怖でもありました。発せられた黒い煙を唯一見た、オオカミだけの強い恐怖でした。
冬が、やってきています。雪は容赦なく積もるでしょう。凍える寒さがこの山を覆うでしょう。それでも、自分はここで人里を見続けなければいけない、と思いました。
常にずっと、とまではいかなくとも。自分が感じたその恐怖を覚え続けている為にも。
背伸びをすると、ぽきぽきと関節から音がしました。湿り気を含んだ毛皮は風が吹いてもそうは揺れませんでした。
……流石にネズミだけじゃ、腹が減るな。
空腹さえもが何かによって補われますが、空腹はそのまま残ります。
また何か狩ろうと思いました。
*****
気付いた臭いを辿っていけば、そう時間を掛けることなく獲物を見つけることができました。
音を立てずに歩いて来たオオカミに気付かないまま、ウサギが雪を掻き分けてまだ瑞々しく生えている草を食べていました。
オオカミは風下から、そろり、そろりと近付いて行きます。
そのとき、同じ何かの気配がして上を見るとワシが居ました。気付いたときにはもう、ワシは急降下を始めていて、ウサギを掴んでそのまま仕留めました。
横取りとはひどいな。
そんなことを思った束の間、ワシはそのウサギを放ったまま急ぐようにオオカミに乗って、来た方向を戻るように急かしました。
……。
一瞬戸惑いましたが、それが意味することはただ一つでした。
人間が、やって来ている。
オオカミは駆けだそうとして、その前に折角仕留められたウサギは咥えていくことにしました。
見晴らしの良い、崖から突き出した岩場までまた戻って来て、そして人里の方をじっくりと見つめました。
目は余りよくありませんが、それでも誰かが人里からやってきているようだとは何となく分かりました。
白い大地に、ぽつんと色のある何かが僅かながら動いているのが見えたからです。
それは、まっすぐこの山を目指していました。
…………。
オオカミは、あの煙の意味を再び考え始めました。
あれは、本当に何だったのだろう? 人間は、あれを見て何をするのだろう? 何か、したのだろうか?
けれど、ワシは急かすように頭に足を食いこませました。
……まあ、やることは決まっている。
オオカミは、猛毒の植物を探した後に、それを風で粉になるまで切り刻み、そしてワシに慎重に渡しました。
ワシは、それを受け取るとすぐに飛んで行きました。
オオカミは、ワシが飛んで行く様を見ながら、ウサギを食べ始めました。
その不安は収まらないまま。大丈夫だろうと思いながら。
*****
段々と、人の姿が大きくなっていきます。
見た限りでは、集落で暮らす他の人々と違うような特徴はありませんでした。
懲りないな、とワシは単純に思いました。何度殺せば来なくなるのだろう。気持ちの良いことでもないのに。
人間が、足を止めて自分の方を見てきました。
しかしながらもう、こんなだだっ広い草原で、ばら撒かれる毒を避ける方法はありません。その植物は、口に入れずとも触れるだけで獣が死ぬほど強い毒を持つものでした。
布で身を覆っていても、隙間から忍び込むその粉がくっつくだけで到底動けなくなります。そして、口に入ればもう、助かる術はありません。
向かい風の中、ワシは人間に近付いて行きます。
人間は立ち止ったまま何をする訳でもなく、ただただ、じっとワシを眺めていました。
距離が、段々と近付いて行きます。鮮明に姿が見えてきます。
向かい風だから、もう少し近付かないと……。そう思いながら、ワシはもっと近付こうと翼で風を掴み、前へと進みました。
……。
……ん?
……いや……。
…………え?
ワシは、そして気付きました。
その人間が同じ何かであることに。




