1. おおぞらのかたすみで
よろしくお願いします。
空は、涼し気な青と、ところどころの白い雲で覆われていました。
山は風を受け、さらさらと木々が揺れています。その山の一部の開けた斜面、突き出した岩の上に、オオカミが座っていました。
立ち上がれば子供の身長を越す高さを誇る、大きなオオカミです。毛皮は灰色で、ふさふさでした。目は眠たげにしていますが、その突き出した岩の上で、じっと前を見ていました。
その目の先には、山から広がる草原がたっぷりと地平線の方まで続いていました。その地平線の近くには、人が住む町がわずかに見えます。
オオカミは時々あくびをしながら、その光景をじっと眺めていました。ただ、眺めていても、何の変化もありません。その山の斜面からでは、草原に何があるかは全く見えずに、一面の緑が風で揺れているだけでした。
その風は、この山まで流れていました。柔らかく、優しい風です。木々を静かに揺らし、そしてどこかへと消えていくその風は、一種の力のように、オオカミを段々と眠りへと誘っていきます。
途中までは眠らまいと頑張っていたオオカミも、次第に瞼が重くなっていくのに耐えられなくなっていきました。
その心地良さに負けて、完全に目を閉じてしまうまで、そう時間はかかりませんでした。
高い木々に空を覆われた、薄暗い場所がありました。ざあざあと、絶える事のない音が聞こえます。水飛沫を時々飛び散らす、力強い流れの川がその側にありました。苔むした岩々が長い間、その川に寄り添うように佇んでいます。
その川の近くの土はじめじめとしていて、土に還りつつある葉はどれも茶黒く染まっています。足跡からは、水が滲み出ています。
その足跡の先には、タヌキが鼻をひくつかせながら歩いていました。
丸っこくて小さい、毛並みはちょっとぼろぼろだけれど、元気な子供のタヌキです。
子タヌキは地面に鼻を擦り付けるかのように一心不乱に土を嗅ぎながら歩いていました。周りの事は一切目に入っていないようです。
暫くそうしていると、何かを見つけたようで、ある木の側で熱心に穴を掘り始め、その中に頭を突き入れました。更にそこから、もぞもぞと体まで土の中に入れようとする勢いで掘り進め、ふと、止まります。そして、顔を泥まみれにしながら頭を持ち上げると、その口には大きい茸が咥えられていました。前脚で掴み直して、がつがつとあっという間に食べ終えると、また食べ物を探しに鼻をひくつかせながら歩き始めました。
もう一つ、二つと同じようにして見つけて食べると、その小さい体はもう満足したようで、くぁ、と大きく欠伸をしました。
それから寝心地の良さそうな場所を見つけると泥塗れな顔のまま、子タヌキはすやすやと眠り始めてしまいました。
イタチがネズミを追い掛けていました。木々も疎らな山の標高も高い場所で、ネズミは必死に隠れ場所を探して走り回っっていました。
けれど、木も生えておらず、草もぽつぽつとしかないこの高所では、そんなところは、中々見つかりませんでした。
そのネズミの目の前で、唐突にパチッと火花が散りました。小さな火花でしたが、その目の前には正真正銘、何もありませんでした。驚いたネズミは思わず飛びあがり、そこにイタチは噛みつき、仕留めます。
首をぶちぶちと千切り、肉をむちむちと食み、口を汚くして体を満たすと、頭を上げ、空を見渡しました。
黄金色の姿と、細長くかわいい見た目をしていましたが、血に汚れている口から鋭い牙が見え隠れしています。
ひゅるるるる、と寂しいような音を響かせる一筋の風が、流れていきました。
この岩々が大半を占めている荒涼とした場所で流れるその風は、やや荒々しく、そして寒々しくありました。
冬は、まだ遠い、とイタチは思いました。夏がつい最近過ぎ去ったばかりでした。
イタチの目の前でまた、パチッと音が鳴り、火花が散りました。パチパチッと、今度は連鎖するように。
けれど、イタチはネズミのように驚いたりは、全くしませんでした。
まあ、いいか、とイタチは山を下り始めます。
眼下には、目を覚ましたオオカミが見えました。どうやら、寝ているようでした。
*****
どうしてそうなったのか、いつからそうなったのか。それを、誰も知りませんでした。記憶はなくなっていました。親がいた記憶も、子を為した記憶も、生まれた記憶も、死んだ記憶も、何もかもが、ありませんでした。
この山には、何かがありました。その何かに対して、獣達が知っている事は、ほぼほぼありませんでした。
この山には、獣と同じ姿であれど、獣ではない何かになった者達がいました。
そして種族が違えど、獣から、何かに変わった自分達の臭いは、何故か区別がつきました。
臭いと言っても、体臭ではない、何と表せば良いのか分からない何かの感覚。その互いが遠くに居ても感じられるそれは、肉体の奥底で繋がっているような心地良いものでもありました。
ふと、冷たい風が走り抜け、オオカミが目を覚ましました。
眠ってしまったのはどれ位か、ほんの少しだけ後悔をしました。けれど、寝起きの心地良さには勝てずに、うーん、と背伸びをして凝り固まった体を解しました。
欠伸をして、前を眺め、立ち上がります。
木々の生えている方へ歩いて、臭いを嗅ぎます。少しの時間の後に、オオカミはあった赤く細い棒のような植物を見つけました。その植物は、誰の手も触れられていないのに勝手に引っこ抜かれ、宙に浮きました。
――その何かに変わった獣達と、ただの獣の一番の違いは、超常的な力を持っている事でした。
イタチは、熱を操れるような力を持っていました。火花を散らしたり、物を温めたり、燃やしたりする事が出来ました。
オオカミは、空気を操るような力を持っていました。物を浮かす事に始まり、風を吹かせたり、柔らかいものなら切り刻む事も出来ました。
そしてオオカミは、浮かせたその植物を宙で切り刻み、粉々にしました。そして、その粉末になった植物を浮かせたまま、山を下り始めました。
イタチが山を下っている最中、川の流れの音が聞こえてくると共に、その方向に誰かが居る感覚がしました。
多分、タヌキだろう、とイタチは思いました。
良く川沿いに居るそのタヌキは、他の皆と違い、まだ幼体でした。そして、成体であるイタチやオオカミと同じく、普通の獣とは一線を画す、よりはっきりとした自我というものも持っていました。
イタチは、自分が何かになったと気が付いた時、既に成体だった事は覚えていました。けれども、タヌキは子供でした。それにどういう違いがあるのかは、分かりません。
イタチは、こうも思います。
自分に限らず、誰もが、獣から何かになった理由を知りたいだろう、と。
自分は同じイタチ達から敬遠されたりする事は無いけれども、その何かとしての違いを感じるのか、雌争いとかで、同じイタチと戦いになろうとするものなら、相手が先に逃げて行きました。そして、いつの間にか外敵に狙われる事もなくなっていました。
見通しの良い場所にいて、空にタカが飛んでいようと、わざと腹を出そうとも狙って来る事が全くなかったのです。
寝ても多分大丈夫なのだろうけれど、流石にそこまで無防備になるのは怖くて出来ない、とイタチは思っていました。
ほどなくして、その子タヌキは見つかりました。顔を泥だらけにしたまま、イタチがこう目の前にまでやってきても、すぴー、すぴー、と寝ています。
けれど、体を揺らして起こすのは危険でした。子タヌキもまた、力を持っていました。
それは、体をビリビリとさせる何かの力でした。それが何なのかは、空気中で力を出すことができないようなので良く分かりませんが、子タヌキはやろうと思えば、川の魚を沢山気絶させられる程の力を持っていました。
起こそうとしたとき、驚かれてビリビリと全身が弾けるような感覚に襲われたのは、余り良い思い出ではありません。
枯れ枝を咥えて、離れたところから投げました。当たった瞬間、タヌキが飛び起きると共に、ヂッ、と焦げるような音がしました。
おお怖い、とイタチは思いながら、タヌキの泥まみれの顔を少しだけ毛繕いした後で、一緒に山を降りて行きました。
風に乗って、ワシが空を飛んでいました。黄色いクチバシと、渋みのある茶色の翼、それから真っ白な尾羽を持つ、大きなワシです。
その眼下には、人の町がありました。オオカミが座っていた場所から、地平線に僅かに見える町でした。
毎日毎日、同じ時間に起きて、同じような事をして、同じような時間に眠りに就く、そんな営みを、ワシは偶に眺めに来ていました。
時々、ひゅるひゅるとした聞いていて何となく心地の良い音や、どんどんとした強く響く音と共に、妙な事をしていたり。山と反対側にまた広がる平原では、その人達に飼われているワシ達が他のウサギやらキツネやらを狩っていたりとしています。
ワシは、他の獣とは一線を画するその動物の営みに、興味をそそられていました。そして、それと同時に恐怖も抱いていました。
その、獲物を高所からでもはっきりと見分けて仕留められる目は、人々の営みを鮮明に見ることができました。
毎日のように、規則正しく植えられた植物の手入れをする人達がいました。その植物は、実りを迎えると、その人達によって一斉に刈り取られ、最終的に上空からは見えない建物の中に収められていきます。
やや遠くの川では、道具を使って川の上に立ち、そして道具を使って一気に沢山の魚を捕えている光景がありました。一匹一匹捕まえるより遥かに多くの魚が、その道具の隙間からビチビチと跳ねているのが見えました。
ことことと、煮込まれる食べ物が大抵のときに見えました。その良い匂いがこの上空まで伝わって来たことがあります。
その食べ物を切り裂いている光り輝く、人の手で作られた鈍色の爪は、どの獣の爪よりも鋭く、そして巨大でした。
すっぱりすっぱりと、植物が綺麗な断面を見せながら切り裂かれて行きます。魚の頭が落とされ、内臓を取り除かれ、綺麗な三枚に分けられています。
そして一際長い、人の半分の高さ程の爪を持つ人も居ました。それを持つ人は、何故かは分かりませんでしたが、同じ人の首をすっぱりと切り落とす事もありました。
骨をもすっぱりと切り落とす鋭さの作られた鈍色の光り輝く爪。それは、見ているだけでも恐怖を抱くものでした。
そして、山と反対側で行われている狩りの方では、植物の弾性を生かして、細長いものを飛ばす人がいました。それを飛ばす人は、遠くから一回で、獣にそれを突き刺していることがありました。
目にも留まらない速さで飛んで行く細長いもの。先は尖っていて、そして尻尾につけられている何かは、自分の尾羽と同じものでした。
とても怖いものでした。
興味がありながらも、ワシは決して近付こうとはしませんでした。
そんな最中、ワシは、自らが住んでいる山の方へ行こうとしている人達を見つけました。背中に多めの荷物を背負い、何やら物々しい雰囲気です。
それを見て、ワシは山へ帰る事にしました。
オオカミが植物を集めながら下っていく最中に、イタチがタヌキを連れてやって来ました。イタチはオオカミの背中にささっと這い上って、体を丸めました。オオカミはそれに対して少し嫌な顔をしましたが、半ば諦め気味に、そのまま歩き続けました。
この山の何かとなった獣の中で、一番体躯が大きいのはオオカミでした。他は、イタチだったりタヌキだったり、今日はまた人里の方に行っているワシだったりと、オオカミよりは全て小さいです。
そして、時々全員乗ってきます。
また、イタチやワシはともかくワシに乗られると、その爪が痛いから正直止して欲しいと言うのが本音です。
でもまあ、あからさまに嫌がるほどの事でもないよな、とオオカミは思っていました。
特に、オオカミにとっては、同じ何かとなった皆といるのは、心地の良いものだったのです。群れの仲間といても、何かとなった自分と皆の間では、どうしても隔たりが感じられてしまっていたのです。
もう暫く歩いて、オオカミ達はまた、崖の先に着きました。ワシが丁度、帰ってきました。
滑空して、崖の先に突き出している木の枝に、すっと着地しました。
そして、オオカミの目の前で浮いている植物の粉末の量を見て、軽く頷きました。
オオカミは慎重に、ワシの方にその植物の粉末を動かしていきます。飛び散らさないように、慎重に、ゆっくりと、ゆっくりと、力の加減を間違えないように。
ワシの方にまである程度近付いた後に、今度はワシが自らの力を行使し始めました。
ワシの力は、オオカミと同じく風を操る力でした。
風で包まれていた植物の粉末を、ワシが慎重に受け取り、そして、また翼を広げて飛び立ちました。
高度をそんなに高くせず、また人里に向って飛んで行きます。
翼を動かす必要もありません。その気になれば、力を使う事で翼を広げる必要もなくなるのですが、今は崩してはいけない植物の粉末を抱えている以上、無駄な事に力は使いたくありませんでした。
暫くすると、山へ向かって来る人達が目に入りました。
*****
ワシが帰って来ると、太陽は赤みを増した夕日になっていました。
オオカミがいつの間にか鹿を狩っていて、血の臭いが強くしました。
ワシはオオカミの頭に乗り、オオカミはいつものように鬱陶しそうな顔をしつつもそのまま鹿を引き摺って山の中へ歩いて行きました。
草原には、数人が倒れていました。
オオカミ:
・ふさふさ
・灰色
・大きい
・局所的な強い風の力を持つ