さまよいびと
心臓がないとね、死ぬこともできないの。
近くの木に、古びた死体が吊り下げられている。イルソンは顔をあげ、灰色の目を細めて、死体が動かないことを確認した。
森の奥から狼の声が響いている。二つに分かれた道を見やった。近くの小さな村へ入る道と、遠くの町に向かう、森を突き進む道。日暮れまで時間はあるが、少し休みたい気分だった。黒髪を振って、村の方へ歩き出した。
村には、旅人向けの宿や食堂もあった。だが、未成年の少年が訪れるほど大きな宿場でもない。
「一人旅?」
あちこちで、不審そうに話しかけられた。そのたび、イルソンは「知り合いを探して旅を」と、ぎこちなく答える。
宿を決めて、食堂に入る。すぐ食べなくても問題ないのは分かっている。けれど、何か腹に入れていないと落ち着かなかった。食堂で少しだけつまむ。周りは年上の男女ばかりだった。
酔った男が、イルソンの横で立ち止まった。
「ちびすけ、こんなところで何やってる?」
「旅の途中です。気にしないでください」
男は、何がおかしいのか笑い声をあげる。面倒になり、イルソンは勘定を済ませようとして席を立った。だが、男がぶつかってくる。小柄な少年では、簡単に突き飛ばされてしまった。
「おいおい、足は大丈夫かあ? 何だあ。お前、ぼろっぼろだな? 旅なんて格好つけてるが、夜盗にでも襲われた後か?」
イルソンは顔をしかめる。ベスト、上着、靴。どれも擦り切れてぼろぼろだ。ところどころ、指の幅くらいの縫い目で乱暴に縫い止めてある。
「早く帰って、そいつを手入れしてくれたママに抱きついて眠りなよ」
野卑な笑いが起こったけれど、イルソンの耳には届かない。たとえば、ベストの傷。鼻歌を歌いながら、あいつが服を繕った……思い返すと腸が煮えくり返る。体を震わせたイルソンの肩を、男が押す。からかいの言葉はイルソンの耳を素通りする。
「その辺にしなよ」
店の女が、さりげなく割って入って、イルソンを店の奥へ連れて逃げた。店内では、赤ん坊だなと笑う声が響いている。
「大丈夫かい? 顔が真っ青だよ。宿は取った?」
「少し目眩がしただけです。宿はあるので大丈夫です」
「そうかい? あんた、手が氷みたいに冷たいけど。落ち着いてから宿で早く寝るんだよ」
触られて、反射的に払いのける。驚いた顔をされて、イルソンは内心舌打ちした。
「すみません、貴方の手も冷たくなってしまうから」
「そんなの、大丈夫だよ。ここであったかいものお食べ」
無理矢理食事を詰め込んで、外へ出る。
人の少ない辺りまで歩いてから、急に民家の裏へ駆け込んで吐いた。
小さな宿の部屋で、イルソンはうっすらと目を開ける。森の奥、獣が叫んでいる。あるいは男女の笑い声。女の、悲鳴。内臓がぶちまけられる音。首を振って、シーツをかぶる。気のせいだ、そうに決まっている。
翌朝、宿を出ると、村人の視線がやけに冷たい。他の旅人も同じような視線を受けていた。村内で惨殺死体が見つかったらしい。
食堂で薄いパンと野菜煮込みを食べて、周囲の話に聞き耳を立てる。死体は四つに割られ、内臓が綺麗に取り去られていた。鋭い爪で裂かれたらしい。
散歩を兼ねて、外を歩く。念のため死体の様子を見たかったが、すぐ埋葬されたらしく叶わなかった。
酒場は、入った途端に追い払われた。子どもだから仕方ない。一瞬、中を確認したが、店内には飲んだくれもいれば、どの町に行くか話し合う者もいる。見知った者の姿は見受けられなかった。
「あいつじゃないとしたら、ただの物取り? 個人的な殺意か、獣に襲われたか」
呟きながら歩いていると、強くぶつかられた。
「おい、いてえな」
古典的な因縁の付け方だった。
見上げると、昨日食堂で絡んできた男だ。
「ガキはさっさと帰れよ」
イルソンは動くのも面倒で、ただ睨みつける。脇に集まってきた野次馬の中から、細身の男が飛び出してきた。酔っぱらいを羽交い締めにして、男はイルソンに「早く行って」と声を掛ける。
「こいつ、奥さんに逃げられてからおかしいんだ、君のせいじゃないよ!」
大声で事情をぶちまけられ、酔っぱらいが思い切り体をひねり、男を振りほどいた。
「うるせえ! あいつは、勝手に死んだんだ!」
酔っぱらいの拳が、男の顎に決まる。口を切ったらしく、男が血を吐きながら言い返した。
「死体は見つかってないんだから、村の外に逃げたのかもしれないじゃないか」
「死んだんだ、そうに決まってる! 俺は見たんだ!」
「酔って夜道を歩いてるときに、奥さんに似てる人を見ただけだろう? 家出かも、」
「次の日に、あいつを見失った辺りに血が落ちてた!」
言い募る男を、酔っぱらいが二度、三度と殴りつける。周りの男達がやっと間に割って入った。隙を見て、イルソンはその場を逃げ出した。
小さな村だが、鐘突き堂のある教会が建てられていた。近くの人に、教会に誰かいないか聞いてみる。行事のときに、近隣から教会関係者を呼んでいるということだった。
「ちなみに、村の入り口の、あれは……?」
「吸血鬼避けですか?」
古くから、動く死体とも呼ばれているのだが……人の血を奪う異形がある。便宜上、吸血鬼と呼ばれているが、生き物に噛みついて必要量だけわずかに奪うだけの者もいれば、人を切りつけて一気に全身の血抜きを行う者もいる。刺しても撃っても基本的には死なない。そして強い。最近はあまり目立って暴れることはない。
彼らへの対策をしているのが、教会に所属する、通称・猟師である。吸血鬼と通じた者の死体を吊すことで、ここは対策が万全であると喧伝する風習もある。
「あの吸血鬼避けは、古いものだそうです。教会の関係者が置いていったとか」
「もしかして、本当の吸血鬼の手下ですか」
村人が苦笑した。そんなものいるわけがない、という態度である。
「もしいたとしても、吸血鬼の手下はなかなか死なないっていうし。吊さずに、燃やして灰にするでしょう」
「そうですよね、変なことを聞きました。旅してると、村によって風習が違ってて、面白くって」
話を切って、イルソンは教会を離れる。
「ここはだめだな……戦う手段を持ってない。あいつがいないといいんだけど」
あいつ、を探しているのに、いても困る。難儀な話で、イルソンはため息をついた。
夕方、昨日と同様に食事をした。あの酔っぱらいがまた絡んでくる。一日、村を回っていたので、イルソンは自分が絡まれる理由を知っていた。彼の妻が行方不明になる前日、旅人と一緒にいたらしい。村人は、妻が家出したと思っているようだ。
酔っぱらいが酔いつぶれると、彼の近くにいた男がイルソンに謝ってくれた。昼間、イルソンが殴られないように止めた男だ。
「力がほしいなァ」
酔っぱらいは、テーブルにうつ伏せて呟いている。
「吸血鬼にでもなるつもり? 向いてないと思うけど」
面倒を見ている男が、苦笑して呟いている。
イルソンは黙って食堂を出た。
夜気が頬を撫でる。森がざわついている。不安な心を、懸命になだめた。大丈夫だ、あいつがいたとしても、辺りはもっと自然だ。イルソンは宿に戻って毛布にくるまる。
助けてくれえ、力がほしいよう。狼の遠吠えに混じって、男のうめき声が響いているような気がした。
翌朝、食堂はいっそう静かだった。連続して惨殺死体が見つかったのだ。誰がやったのかと互いの顔色を窺う、妙な空気だ。
イルソンは食堂の様子を確認して、何も食べずに外へ出た。
(殺しの間隔が短い。狩られないと分かって、大胆になってるのか)
森の木々がざわめいている。炊事などの日常のにおいに混じって、腐葉土や緑のにおいがする。
ふと木々の間に人影が見えた。
「来るな!」
酔っぱらいの舌足らずな口調だが、はっきりとした拒絶だった。
あの酔っぱらいだ。彼を何度か止めていた男が、彼を抱えるようにして立っている。
「来るなって言ったろ……ちびすけ」
男の腕が、酔っぱらいの胸を貫いている。イルソンの目の前で、彼の心臓が抜き取られる。
「こいつが、俺の嫁まで殺した、吸血鬼だなんて……」
血を吐き出しながら、不明瞭な声で酔っぱらいが呟く。
イルソンは右手を翻した。銀のナイフで、吸血鬼の腕を狙う。
「その心臓を返せ!」
「何で? 君はよそ者だろ、こんなもの要らないじゃないか」
「吸血鬼ってものが、俺は大嫌いだ」
手足は、少年であるイルソンの方が短い。けれど、素早く動ける。吸血鬼の手首を切り落とし、転がった心臓を取り戻した。心臓を元の胸に入れたところで、息を吹き返しはしないけれど。
「人間のまま埋葬してやって」
聞いてくれるとは思えないが、恐れて逃げていく他の人間に声をかける。
吸血鬼は叫びながら逃げていった。血の跡を追って、イルソンは移動する。
イルソンが素早く銀のナイフを投げる。相手は当たるわけがないと鼻で笑う。
数度繰り返した頃、吸血鬼の足が止まった。一本の銀のナイフが、吸血鬼の影を地面に縫い止めている。
「くそっ、野郎!」
「お前は親じゃないな? 吸血鬼には複数ある。強い奴と、感染して変化した奴、吸血鬼に心臓を取られて、死ねなくなった人間……お前は半端に感染しただけか」
イルソンは相手に近づく。もう一つ、銀色のナイフを上着の裏から取り出して、男に向けて振りおろす。男の口の端が、にいっと上がった。
「貰った!」
イルソンのナイフの先が届く前に、男の振りあげた腕が、イルソンに当たる。途端に、肩口から血しぶきがあがった。鎖骨の下部が折れて、赤黒い血が吹き出している。
「あははっざまを見ろ」
イルソンの足がふらつく。目の前が薄暗くなって、手からは力が抜ける。
(でも、こいつは殺さないと)
イルソンは、うつ伏せに倒れ込みながら、ナイフを男に突き立てた。残念ながら、男の腕を刺しただけで終わる。
罵られているのが分かる。耳が痛い。自らの血溜まりに沈みながら、イルソンは。息を、わずかに吸って。
「あぁ?」
男が変な声をあげる。
「誰だお前、」
言葉が途切れる。男の首がぽんと飛んで、草むらに落ちる。血は遅れて散らばった。
「手がかかるね」
誰かが近づいてくる。背中に羽でも生えているのかと思うほど、軽やかな口調だった。
「吸血鬼には親と呼ばれる者がいる。人を吸血鬼に変える者や、人の心臓を抜いて食べる者。親が死ぬか、心臓を取り戻すくらいしか、配下の人間には死に方がない」
まだ若い、青年と言ってもいいくらいの、男の声。柔らかく、けれど素っ気なく、声は続ける。
「君には全く、呆れるね。もう少し、自分を大事にしたらどうなんだい? こっちが来なかったら、損傷箇所は損傷したままになるっていうのに」
心臓を抜かれた人間は死なない。それを不老不死と勘違いした人間が、一時期進んで吸血鬼に心臓を差し出した。けれど、実際には違うのだ。心臓を抜かれるとほとんど時間が止まる。だから、壊れたら二度と戻らない。もがれた手足はそのままだし、首を切っても、それぞれの部位が生き続ける。修復するには親に会わなくてはならない。
イルソンは、ちぎれかけた手で、目の前に立った男を掴み止める。
「見つけた、ディレイ」
名を呼ばれた男は、少し目を細めた。
*
時は少し遡る。
イルソンが気づいたときには、それは始まっていた。
妹が、森の端で人に会っている。その旅人は、病人かと思うほど痩せていた。かわいそうだからと、妹は彼に、わずかなパンとスープを与えた。
イルソンは、彼のことを気味が悪いと思っていた。けれど、足を引っかけたらすぐ転んだし、この程度なら、自分で妹を守れると思っていた。
過信していた。
男は森の遠くを見つめていた。薄いブルーの目が、仲間のいない狼に似ていた。背筋が凍り付くような光景だった。その感覚に従っていたら、イルソンは妹を失わなかったかもしれない。
妹は、手首や首筋の薄い皮膚から、男に血も与えていた。
ごめんね、お兄ちゃん。放っておいたら死んじゃうんだもの。
そのとき彼は、妹から手を離して、申し訳なさそうに微笑んだ。
ごめんね。こういう生き物だから。
妹を餌にされることには嫌悪感しかなかった。けれど、ソーセージなどを与えて、自分自身をごまかした。妹の代わりにこれを食べろ。
うん。いや、君は、面白いね。
彼は、まぶしそうに目を細めて。
苦笑した。
何がきっかけだったのだろう。ある日、彼の気が変わったようだった。
ばからしくなった。吸血鬼狩りもいるけれど、つまらないし。だから、心臓を貰うね。
なんて気軽な申し出だったのだろう。
意味が分からなくて、イルソンはぼんやりと立っていた。
手始めに、彼が妹を手元に引き寄せた。ダンスに誘うような優雅な仕草で、実際、妹は何の危機感も持たなかったと思う。
彼が妹の首筋に軽く噛みつく。妹の、そらされた首。突然金切り声があげられた。妹の四肢が突っ張って、ぎしぎしと音を立てる。妹の胸に、彼の腕が突き立っている。引き抜かれると同時に、妹が、ばしゃり、と自らの血だまりに身を落とした。
「まずは、一人」
ふうっと笑って、彼が心臓を口に運ぶ。
呆然としていたイルソンの耳が、急に痛んだ。彼の手から、口をつけ損ねた心臓が離れて飛び、近くの木にぶつかった。
「猟師か」
呟いて、彼が両手をひらひらと振る。
「こんなところにも出張だなんて、暇だね」
「黙れ」
現れた男は、山に入る猟師の格好だけれど、持っている銃器が露骨に大きい。
イルソンの耳が痛むのは、さっき、あの弾丸が耳たぶをかすめていったからだ。
「あはっ。でも君一人でどうしようって言うんだろう」
彼が薄いブルーの目で見つめると、猟師の体が硬直した。猟師が舌打ちして、イルソンを睨んでくる。視線で告げる。動けるなら、銃でもナイフでも何でもいい、武器を取れ。自分の身は守れ。
イルソンは震える手で、猟師がさっき投げた、こぼれた銀のナイフを取ろうとする。けれど、
「それで、どうするつもり?」
ごく近く、息のかかる距離で、背後から彼に囁かれて、ナイフを取り落とした。
その隙に猟師が無理に体をひねり、もう一度、銃を撃つ。
撃ったときには猟師の首は胴を離れて、イルソンの体には、彼の腕が差し込まれていた。
「どこまで、きれいごとがまかり通るのかな」
ぞっとするほど静かな独り言が落ちてきて。
イルソンは、痛みの中に溺れて沈んだ。
目が覚めたとき、辺りは血の海だった。
悪い夢だと思いたかったのに、猟師の首と胴は別々に転がっていたし、妹は心臓をなくして息絶えていた。
己の胸を探る。服は破れているけれど、体に、穴は開いていない。
ほっとしたが……周囲に立っている村人の視線に気づいて、心が凍り付いた。
お前がやったのか、化け物。
違う、俺じゃなくて、あいつが。
叫んでも、誰も聞いてくれなかった。石を投げられ、追われながら、必死で走った。村人たちの中に、母親もいたような気がする。
それからは、あちこちをさまよい歩いた。
初めは、居場所がなくて。やがては、彼を探すために。
旅をするうち、夜盗に切り捨てられたり、体中から臓器を持ち去られたこともある。人間ではないと知られて、人柱代わりに埋められたこともあった。
これで、終わるのかもしれない。何度も思った。けれど、いつでも、うつろな意識の端に、あの鼻歌が聞こえてくる。
灰色の髪、薄いブルーの瞳。いつも楽しげな男が現れる。
どこで見ていた? お前を探している、お前を殺したら、俺は、やっと。
指先が土を掴む。笑いながら、彼が見下ろす。
するりと、気に入りの陶磁器を可愛がるようにして、ディレイはイルソンの頬に触れる。血と脂まみれの肌は、それだけで、正常な皮膚を取り戻している。痺れて動かなかった四肢も、波が引くようにして不愉快さが拭われる。
爆発よりはマシかな、とディレイが呟く。
以前の試みを、イルソンは思い出した。人目につかない廃屋の近くで、火薬を大量に積んで、己の身を爆発させたことがある。粟粒並みの欠片になって、しばらくは夢も見なかった。死ぬことがなくても、森で羽虫に蝕まれながらも、二度と、ひどい痛みも苦しみも味わわなくて済む。薄暗がりで、イルソンはようやく安寧を得た。その、つもりだった。でも。あの、鼻歌が。機嫌の良さそうな独り言が。聞こえたから。
残念だな。まだ足りない。
何が足りないっていうんだ。お前を殺すための、術が? そんなことは分かっている。
そうじゃない。君には、絶望が全く足りない。残念だ。
イルソンの意識が、悲鳴で真っ黒に塗りつぶされる。痛い、痛い、痛い、痛い、どこだ、どこが痛いんだ、生き物は生命を維持するために危険があるとき痛みを覚えるはずだけれど、いったい、どこが、痛いんだ、脳味噌全体がずたずたに切り裂かれているようだった。
さすがに、戻すのに時間がかかる。
ディレイは呆れたふうに呟いた。
いくらか修復され、骨に血肉が巡らされつつある、人の形を戻しつつあるイルソンは、こわばった体で、どうにか言った。
もう、殺してくれ。
ディレイは微笑む。気弱げでもある、ごく普通の青年の姿でありながら、たった一つ、イルソンの願いを叶えようとしない男。
残念。足りないよ。
そうして暗闇の奥へ去ってしまう。
*
だから、今度こそは。
イルソンは必死に掴んだ銀のナイフで、ディレイを撃つ。
自分が壊れたとき、修復作業が必要だ。ディレイはイルソンに接近して行う。残念ながら多くの場合、イルソンの動きが回復する頃にはディレイの姿はない。けれど、今回は。
まだ、イルソンは動けるし、距離が近い!
「食らえ……!」
どぶり、と、ディレイの腕に、血の波が現れる。妹に似た声で、さざ波が語りかけてくる。
「お兄ちゃん」
「あ」
「残念。君には絶望が足りてない。やり方が違うのかな」
ふいに、ディレイが破顔する。華やかに開いた花のようで、つかの間、イルソンは見とれていた。
「絶望の反対は?」
「きぼう?」
うつろに、反射的に呟くと、相手はゆっくりと頷いた。
「そう。だったら次のやり方を考えよう」
鋭い痛みが、胸を締め付ける。今は胸にない心臓が、潰される感触がした。イルソンの視界が暗くなり、意識がすとんと途切れてしまった。
*
またディレイを見失った。イルソンは目を覚ますと、地面を殴りつけた。だが、長くは後悔していられない。吸血鬼の感染者が一人死んだので、状況を調べに教会の連中が来るはずだ。それに自分が巻き込まれるのはごめんだった。
イルソンは村を後にする。
広大な森は、深さだけ見れば、人が隠れるにはうってつけだ。ディレイもおそらく普段は森を経由して、足がつかないように、さまよい歩いているのだろう。イルソンの妹がそうしたように、人の哀れみによって血を受け取って。
許さない。絶対に。あいつを殺して、心臓を取り返して、死んでやる。
*
幾日が経過しただろう。たまに森を出て、農作業の手伝いで駄賃を稼いだ。数日ですぐに森に戻り、旅を続ける。
変わらない日々に目眩がする。本当に、ディレイを殺せるのか? 自分は、死ぬことができるだろうか?
あるとき、イルソンは背後に気配を感じた。振り返れば、誰かがついてきている。
銀色の髪、痛々しいほど細い手足。少女が、こちらを睨みつけている。敵意を持っているようだ。
「俺をつけてるのか?」
「誰だ、お前!」
険しい口調で、高い声が叫ぶ。少女は体に包帯を巻き付けていた。自分でやったのだろう、端がほどけてぶら下がっている。
やたらと突っかかる少女だった。行き先がたまたま同じだけだと主張した。彼女はたびたび、足場が悪いせいで転びかけ、イルソンは最後にはため息をついて、彼女の隣に並んで歩いた。なぜだか、とても近しい気がして。
妹に似ているのだろうか。甘やかな思い出が、ゆるゆるとイルソンの胸底に穴を開ける。もう旅を続けたくないような思いもする。けれど。数日経っても少女の傷は癒えなかった。
「君が俺についてこようとするのは、君も心臓がないからか?」
少女が、ぎくりと体をこわばらせる。
「俺はディレイを追っている」
「同じだ!」
肩を跳ね上げて、少女がイルソンにしがみついた。
「あいつが村を壊した。私のせいだ、私が引き入れたから、だから、私が何とかしなくちゃ、」
「君のせいじゃない、たぶん」
彼はそうやって被害者を増やしているのだ。イルソンは眉をひそめる。
「どうやったら戦える? 私一人ではできなかった、だから、仲間を捜していたんだ」
彼女の呟きに、イルソンも急に納得がいった。一人ではできない、だったら、二人でやればいい。他の被害者も仲間に引き入れればよいのだ。二人で思案する日々が始まった。別行動することもあれば、三人目が増えたこともあった。イルソンが妹を失った日に見た猟師に似ていた(この男も猟師だった)。
そして遂に。三人がかりでディレイを罠にかけた。月夜の晩、冬枯れの森の奥。銀色の落ち葉の上で、追いつめて。
「やった!」
少女が飛び跳ねる。ディレイは倒れて、動かない。ひとしきり勝利に酔ってから。
「親が死んでも、私たち、死なないね? 殺されないと死なないのかな」
だったら、と少女が猟師に向かって手を広げる。猟師が銃を撃つ。少女の髪が四方に広がって。ゆっくりと仰向けに倒れていく。満足そうに微笑んでいた。
吸血鬼の親もいない。だから、安心して死んでいられる。
猟師に促されるまま、イルソンは猟師を刺し殺す。猟師もまた、うっとりと笑っていた。
取り残されたイルソンは、殺してくれる者のいなくなった世界で、ひざまずいて震えていた。失敗した。これでは自分が死ねない。あぁ、だけど、今ならどんな死に方も試せる。直されることはない。これで静かな眠りが訪れるはずだった。
イルソンは拳で地面を叩く。
「ふ、あははははは!」
ようやく、解放が訪れた。踊り狂った。叫んで、転がり回った。体が悲鳴をあげるくらい乱暴に騒いだ。
あぁ、だって。ついにたどり着いた。心臓をなくして死んだ妹の、敵は取った。自分自身も自由だ。世界中が祝福してくれているような多幸感が体に満ちる。これで、死ねるのだ!
目の端で何かが動く。何が動いた? 視界にあるのは、血塗れの少女、血の海の中の猟師。それから。
「希望の味はいかがかな」
「ディレイ?」
ぽかんとしたイルソンに、にこやかにディレイが話しかける。
「いい線を行っていたけれど、足りなかった。今度はどうかな?」
親が望んで触れて力を与えない限り、子は死にきれずに倒れたままだ。……少女と猟師は生きている。痛みの中に倒れて、動けないだけだ。
ディレイがイルソンの頬を撫でる。イルソンの視界には、少女と猟師。少女の開いた瞳孔に、涙の海がかぶさっている。猟師の唇は怒りでわなないている。
「さぁ、次を始めようか」
「ディレイ、お前は、どうして」
「どうしてかな?」
丁寧に、ディレイの掌が、イルソンの頬の泥と血と、涙を拭う。その手つきは、いっそ優しい。
「そうした絶望が新しい怪物を生むのかもしれないよ」
「俺は、ただの人間だ」
「ただの人間だった、ね」
「殺してくれ。せめて、あいつらだけでも死なせてやってくれ」
イルソンの願いは叶えられない。ディレイの微笑みは、いつもイルソンの心を打ち砕く。ディレイは立ち上がって、森の奥へ去ろうとする。少女と猟師を、直さずに行くつもりのようだった。
イルソンは、猟師の投げ出した銃を手に取った。
「なぜ、俺たちだったんだ」
きっと理由はない、偶然だ。イルソンの場合は妹が彼を拾った、それだけだ。
ディレイを撃つ。弾は森の奥へ吸い込まれて消えていった。
名を呼び、叫んで、怒りに任せて転げ回った。叫び疲れた頃、銃の存在を思い出した。
ディレイがいる以上は、どうしようもない。でも、一度くらいは死ねるのではないか。イルソンは銃口をこめかみに当てる。引き金を引く。つかの間でもいい、今はただ。
この痛みの奥に、死の安らぎがあることを願いながら。




