8.
「希君、よく眠れたかい?」
「ええ、まぁ……」
翌朝9時にホテルのロビーへと迎えに来てくれた哲男に希は言葉を濁した。
昨日はあまり眠れなかったのだ。いや、昨日に限ったことではない。頭にあの声が聞こえて来た日はいつだって眠れる気がしないのだ。
目を閉じても、なぜだか不思議と目は冴え渡り、そして次第に聴覚までも鋭敏になっていく。するとどうだろう、隣の部屋の物音や窓の外から聞こえてくる環境音、その全てが眠りにつこうとする希へと襲いかかってくるのだ。
そんなのはもう、慣れっこなのだが、昨晩過ごしたのはこの15年ですっかり住み慣れた自宅ではなく、初めて訪れたビジネスホテルだから余計に疲労感が溜まってしまって、今も抜けずに、希の背中にズッシリとのしかかっている。
「気は使わなくていい。眠れなかったって顔に書いてある。ご飯食べたら早速レンタカーで出発するから、寝てるといい」
「……すみません」
気は使わなくていいと言われながら、むしろこちらが気を使われてしまったと申し訳なくなる反面で、希はむず痒さを感じていた。
あまりにも温かくて、これが家族なのかと。
今の彼は体験したことのない、けれど嫌悪感を全く抱かせないそれに、どうしていいのかわからなくなったのだ。
「あ、そうだ。みどりには内緒なんだが、これ……義兄さんから希君に、って」
「どこかの家の、鍵……ですか?」
希の手にポンと置かれたのは小さな鍵だった。
それも希の薬指の第2関節ほどしかない、家の鍵にしては小さすぎる鍵だ。
だからといって『鍵』といえば家の鍵くらいしか想像のつかない希にとって他の使用方法は分からなかったのだ。
「いや、大きさからして家の鍵ではないだろうけど……私も何の鍵かはわからないんだ。義兄が生前、手紙と一緒に私の元へと送ってきたもので、希君に会ったら渡して欲しいと頼まれたんだよ。大事な鍵であることと、みどりには決してその鍵のことを伝えないこと、それだけしか教えてくれなかったんだ。その頃にはもう、彼は病に侵されていて、もしかしたら私達がもう一度巡り会うことを予感していたのかもしれないね」
「大事な、鍵……」
なぜ叔父は15年も姿を見せなかった俺に大事な鍵を残したのか――彼に関する記憶が全くといっていいほど残っていない希には分からなかった。
けれど病に侵されながらも義弟である哲男に、その鍵を渡すように頼んだことは何かしらの意味を持っているのではないかとは思えた。
もしかしたらそれが自分の眠った記憶を開ける鍵になるかもしれないと希はほんのちょっぴりと期待して、その小さな鍵を握りしめた。
今、希が所持しているビジネスバッグの中はお世辞にも綺麗にしているとは言えないが、けれどその鍵は絶対に失くしてやるものかと、近々チェーンでも用意して首から提げておこうと決めた。
2度目の訪問となるアパートメントの一室のドアを開けると、ふんわりと出汁の香りが鼻をくすぐった。
朝の弱い希にとって、朝食といえば食パンにバターを塗ったものと牛乳だ。
冷蔵庫からバターと牛乳を取り出して、昨晩洗ったグラスを乾燥棚から取り出して注ぐ。後は机の上に置いたままの食パンにバターを塗るだけでいい。
5分もしないで用意と食事が完了する、いい組み合わせだ。
もっと楽をするならば、そもそもバターがパンの中に入っているロールパンを買ってくるか、食パンにバターを塗らなければいいのだろうが、希は焼いていない食パンに冷蔵庫から出したばかりの固いバターを塗りつけたパンが気に入っていた。
どんなに時間がなくとも、どんなに面倒臭かろうがそれを食べるのが希の朝の始まりだった。
出張先でもそれを変えることはなかった。15年間も彼の朝食はそうであったはずなのに、希はその香りに懐かしさを覚えた。
昨日、喫茶展で飲んだミルクコーヒーと同じように。
玄関先で足が止まってしまった希を哲男は「入りなさい」と急かした。
「はい。……お邪魔します」
「いらっしゃい、希君。ご飯出来てるからね」
エプロン姿でこちらへと顔を出したみどりにペコリと頭を下げ、昨晩と同じ空席に腰を下ろす。
相変わらず、希は未希と大希に警戒されているようであったが、彼自身それに慣れたのか、はたまた昨日よりもその視線が鋭くないからなのかはわからない。
だがみどりの独壇場に近い話に耳を傾け、相槌を打てるほどに希はリラックスしていた。
「うちは特別な日は甘い卵焼きなの。父さんが、卵焼きにお砂糖いれるのは贅沢だっていって聞かなくてね。だから小さい頃から運動会の日とか、家族みんなで綺麗な格好してお出かけするだとか、そんな時だけ甘い卵焼きを食べれたの。哲夫さんと結婚して、甘い卵焼きなんていつでも食べれるようになったけど私の中で甘い卵焼きっていったら特別なもので……何となく普段はもったいない気がして食べられないのよ。でも今日は特別。希くんたち兄弟が揃ったんですもの。兄さんたちにもお供えしたから、みんなで食べましょう?」
『特別』な甘い卵焼きはふんわりと空気を含んで、上総に連れられ懐石料理を何度となく食べた希の舌を満足させた。




