5.
「退院後、俺は上総の伝手を頼って生活してきました。住む場所も働く場所も全て彼が用意してくれたんです
一通り、心配をかけないように少し端折って話し終えてから、恐る恐る2人の顔を確認するように顔をあげた。
「記憶……は今もないのかしら?」
「はい」
「そう……か。それは悪いことをしたな。私たちのこともわからないのだろう」
「……はい」
「ごめんなさい。私、知らなくて……。そうだ、じゃあ自己紹介……しなきゃ、ね。私はあなたの、希君の父親、文彦の妹のみどり。そしてこっちが私の旦那さん、哲男さんよ」
「それから希君、君はどうしていたんだ? 18から、というともう10年以上も経っている。その間、君はどうやって過ごしていたんだ?」
哲男と紹介された男性は責めるわけではなく、ただ心配するような目でこちらを見つめた。希はそれに答えるようにして話す。
「上総、が住む場所を用意してくれました。働く場所も、今は違うところで働いてますが初めは上総の家族が経営している会社でコピーを取ったり買い出しに行ったり、簡単な雑用をしてお金をもらっていました」
雨風がしのげればいいと思っていたら、連れて行かれたのは高層マンションの最上階だった。そこで管理人でもしてくれればいいと言われたときはひどく驚いた。
こんな立派な場所に暮らせないと希が言うとここが一番狭いんだ、我慢しろという。
後で詳しいことを上総から聞き出せば、そこは彼が小学生の時に祖父から誕生日プレゼントでもらったマンションだというのだから、もう何とも言えず彼の言葉に甘えて今も希はそこで暮らしている。
何とか家賃だけでも渡そうとしたが、とてもじゃないが上総の放った正規の金額が払えるわけもなく、毎月1万円だけ払っている。その1万円というのも水道光熱費ほどにしかならないのだが、それ以上はしっかりとした給料が毎月会社からもらえるようになった今でも受け取ってはもらえない。
上総曰くそれが最大限の譲歩だと言われてしまえば借り家暮らしの希にはもうぐうの音もでない。
働く場所は、退院したばかりの自分の記憶すらも曖昧な希がすぐに決まるわけもなく、結局心配してくれた上総の家の所有しているグループ内の会社で数年働かせてもらっていた。けれどある程度できるようになってから、上総の勧めで転職をした。
なんでも希は彼の父と祖父にすっかり気に入られたらしく、今のうちに逃げなければ社長に祭り上げられるぞと脅されたのだ。
実際彼らがそんなことを企んでいたのかはわからないが、仕事の帰り道に、はたまた休日の外出中に、希の姿を見つけると黒塗りの車を端に寄せて顔を見せてくれるくらいには気に入られているのだろう。
「………そうか。その上総さんにはよくしてもらったんだな。それは、挨拶に行かなくっちゃならないな」
そして何を持っていくか……と左手を顎に当てて考える。そんな姿をみどりは見上げるようにしてから
「そうね。私たちが帰国するまでにお会いできればいいけど……。お時間あるかしら?」
と希に向かって首を傾げた。
「帰国?」
「ああ。私たちは今、アメリカに住んでいる。希君が中学校に入るまではこの近くに住んでいたのだが、仕事の都合でそれからあっちに住んでいる。今回は1週間の休みを取ってこっちに来ているんだ」
「休みを……」
「ええ。正彦兄さん。あなたの叔父さんが亡くなったの。それで遺品整理と子どもたちを引き取りに来たの」
「希君、君の妹と弟だ。今後こっちに来る予定も立っていない。だからあっちに戻る前に会ってもらいたかったんだが、2人のこと……いや12年前だから大希君はまだ生まれてないか……。妹の未希ちゃんのことも覚えては、いないよな。未希ちゃんは希君ととても仲が良かったのだと義兄さんから聞いていたから」
だから『時間がない』と。
一週間。それはあとどれくらい残っているのかは分からなかった。けれど会ったばかりの2人はとても焦っているように、時間はないように思えた。
今はゆっくりと、気を使っていてくれてもその事実は変わらないのだろう。
俺が今、どこにいるかもわからなくて、この十年以上の時間、家族の誰とも会っていなかったというのに、そんな俺を家族と認識していてくれたのか――それが何だか申し訳なくて、希は2人へ向けて深々と頭を下げた。
「…………すみません」
「いいのよ。事故じゃ仕方ないもの。それにしても生きていてくれてよかったわ。……生きて、会えて本当に良かった」
とどまることを知らないみどりの涙は零れ落ちて机の上にたまっていた。みどりの肩を哲男はそっと抱いて、もう片方の手でアイロンのかかった白のガーゼのハンカチーフを手渡した。みどりはそれを受け取り、目を抑えた。
そして「よかった」と何度も繰り返した。
それを聞くたびに希は『家族』について本気で知ろうともしなかったことを少しだけ後悔した。
上総も、一度だけ会った名前も知らない男性も「知らなくていい」「気にしなくていい」と言ってくれた。
それでも熱心に問い続ければきっと答えてくれただろうに希はその言葉を信じ続け、言い訳の材料にして、過去から逃げ続けていたのかもしれない。
怖かったのだ。
今の自分が知らない、思い出したくとも思い出せない過去の自分が。
目を覚ました時に目の前にいてくれた上総と同じように記憶をなくした希を、誰もが好意的に受け止めてくれるとは限らないのだ。
今の自分を否定されたら?
そう思うと知ろうとは思わなかった。知りたいとは思えなかった。
だけど、蓋を開けてみればずっと待っていてくれた人がいた。
優しい空間を用意していてくれた。また以前と同じように与えてくれた。
今の自分を受け入れてくれた。
「希君……」
みどりはハンカチーフを抑えている手と逆の手でカバンの中から桜色の花の刺繍の入ったハンカチーフを希に向けて差し出した。
「あの……」
「これ、使って?」
「え……」
「涙、出てるぞ」
哲男の言葉に弾かれるようにして手の甲を目に押し当ててから外す。するとちょうど目に当たった部分が濡れていた。
そこでやっと気付いた。
俺は泣いているのか、と。
信じがたかったがそれは紛れもない事実だった。
「ありがとう、ございます」
希のカバンの中にも出勤する前に入れたタオル地のハンカチーフが入っていた。けれど、みどりの好意を受け取ることにした。
それは希のごわごわしたハンカチーフよりも柔らかくて、みどりや哲男のようだった。
覚えてはいないけれど、きっと過去の自分もこんな空間にいたのだろう。
上総もあの時の男性も、目の前の二人も、この店の店主も。
希の言葉を待ってくれた。
見守ってくれた。
止まれと思っても涙は止まらなかった。抑えても出てくるばかり。
けれど泣いている顔を見られるのは不思議と恥ずかしいとは思わなかった。




