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愛妹弁当  作者: 斯波 志羽
3/12

3.

「俺はあの日視界いっぱいの真っ白な天井を眺めていました」

 希は向かいに座る男女にそう切り出した。

 きっと今の希の知らない、忘れてしまった彼の過去を知っている目の前の男女は驚くかと思っていた。

 だが希の予想を裏切って男性はひどく納得したように「そうか」とだけ告げた。女性は何も言わずにただ希の目を見つめた。彼は二人の姿に安心感を抱いた。そして話を続けた。

 

 


 ◇◇ ◇

 目を閉じると真っ暗で何も見えないのに、目を開けてもそこは真っ白で他には何もなかった。

 瞬きを繰り返しても他の何かが視界に入ることはない。

 耳には誰かの笑い声が聞こえていた。

 話声のようなものもしたけれど、遠くでのことなのか内容は分からなかった。小さな子どもの声のように高く、楽しそうな声が頭に響いた。その声をなんとなく聞きながらじいっと目の前の『白』を見つめていた。

 その『白』はゆっくりと、じっくりと色を変えていった。

 焦らすように、楽しませるように。

『白』といえば『白』であることに変わりはない。それは黄色っぽくなったり、赤みがかったり。かと思えば黒っぽくなったり。

 そんな変化を繰り返す『それ』をただ眺めていた。

 

『白』を見つめ続けるといつの間にか声の主は変わっていた。けれどもそれもすぐに聞こえなくなった。

 どこからか足音が聞こえ、何かの摩擦する音が聞こえ、そしてまた消える。また何も音がしなくなる。

 そしてまた音がした。

 足音。人の歩く音。

 耳を傾けるとそれはキュッキュと擦れるような音を含んで止まった。そしてコンコンコンと物を叩く音がしてガラガラという音が続いた。

 

「希、来たぞー。って聞こえてないな」

「……」

 音は近づいてきた。確実に近くに。

『希』――呼ばれたはずの誰かがきっとこの病室にいるのだろう。そう高をくくって声の方へ首だけ傾ける。

 向いた先も『白』だった。

 ひらひらと揺れる『白』。

 今まで見ていたものは全く動く気配はなかった『白』。そして今度のは動く『白』。

 ひらひらとゆらゆらと揺れる『白』を見ていると音は止まって次の音を奏でた。

 シャーって音がすると『白』は『黒』に変わった。

「希、起きて……」

『黒』はまた『希』という名前を呼んですぐにどこかへ行ってしまった。

 彼の視界には『白』のひらひらと動くものは無くなった。そして知った。隣には誰も居ないことを。

 彼の視界を阻んでいた『白』の先には誰も居なかった。あったのはその先を阻む新たな『白』。

 今度はその『白』を見つめる。真ん中あたりに『銀』を含むそれを見つめているとそれはすぐに開かれた。

『白』の先を見ようとするとそこからは先ほどの『黒』と共にたくさんの『白』が入ってきた。

『黒』は『白』に向かって何やら話をしながら俺の方へとやってきた。

「先生、早く来てください。希が、希が……」

「上総さん、今診ますから」

 息を切らしながら歩く『黒』は続いてやってくる『白』の中の背の高い男を『先生』と呼び、『先生』と呼ばれた男は『黒』を『上総さん』と呼んだ。

 

「鈴木さん。具合はどうですか?」

『先生』は隣に『上総さん』を、そして後ろには『銀』を運んできた『白』を2人ほど待たせてベッドで横たわる彼がに言った。

『鈴木』という名前は、『希』という名前同様覚えがなかった。

 けれどそれは明らかに彼に向けて発せられたもので、ここには彼以外には誰もいないということもわかっていた。

 そして理解した。


 彼は自身が『鈴木』であり、そして『希』なのだと。


 全く覚えのないのに、自分の名前ではないと思うのに、「ではお前の名前は何だ?」と聞かれてしまえば彼は反射的に口をつぐんでしまう。

 彼には自分の名前がわからなかった。

 思い出そうにも記憶の一部に靄がかかっているようで、何も思い出せなかった。

 

 彼は『色』を知っていた。

『白』も『黒』も『銀』も。見れば時間はかかるものの見ているうちにそれだと理解した。

『鈴木』だって『希』だって人名であると理解した。

『先生』と呼ばれた『白』の服に、白衣に身を包むのは病院の先生であると、医師であると理解した。

 そしてその後ろで何かを用意している『白』の二人はとっさにはわからなかったものの今では看護師であると言い切れる。

 

 わかるんだ。物も仕事の名称も。

 だから確かに記憶があると言えるはずなのに、彼は自分の名前がわからなかった。黒のジャケットを着ている男がわからなかった。

 男は彼の知らない彼の名前を呼ぶのに。


 なぜ自分にはわからない?

 

「鈴木さん?」

「あの……」

「はい?」

「『鈴木 希』というのは俺のことですか?」

 そう尋ねてしまったのは仕方のないことだろう。理解しても実感できずにいたのだから。

 医師はすぐに彼の頭を検査した。

 

「脳の一部を損傷しています」

 医師は彼と『上総さん』にそう告げた。

『鈴木希』であることを認めることにした彼はその結果に「そうですか……」としか答えることはできなかった。

 希は検査の結果を待つ数日間で、何とか記憶にかかった靄を払おうとした。

 せめてずっと隣にあるパイプ椅子に腰かけて彼と同じく検査の結果を待っていてくれる『上総さん』と呼ばれる、希と同じくらいの歳の男のことくらいは思い出せるようにと。


 けれど結果から言えばそれは無駄足に終わった。


 薄いと思っていた靄は、すぐに払えると思っていたのに手を伸ばしても、望んでもどこかに行ってはくれなかった。

 ずっと『鈴木 希』に関する記憶の上を漂い続けた。

 

 自分が何者なのか、そして自分にかかわった人達は全て思い出せなかった。


 自分に関する全ての記憶を失っていた。


 その代わりに『上総さん』が腰かけているものは『パイプ椅子』だとか、手首につながっているのは『点滴』だとか、そういうことは次々と思い出せた。

 

 その現実を受け入れるしか選択肢のない希の代わりに『上総さん』はひどく落ち込んだようだった。そして何も発せないでただ茫然としている『上総さん』を医師は

「今後記憶が回復する可能性はありますが、それがいつになるのかははっきり言ってわかりません」

 と励ますような、それでいて事実を告げるような言葉を発してから「失礼します」とドアから出て行ってしまった。

 

「ええっと……『上総さん』?」

 希は『上総さん』と2人で残されて、何を話せばいいのかわからなかった。

 それはそうだ。希は過去の自分と『上総さん』とはどんな関係にあったのかも、そもそも『上総さん』はどんな人物なのかも思い出せないのだから。出来ることといえば、こんなにも親身になってくれる相手に何の言葉も紡ぎだせずに目をそらす事くらいなものだろう。

 すると『上総さん』が口を開いた。

「上総でいい。『さん』なんてつけるなよ、気持ち悪い」

「えっとじゃあ、上総」

「なんだ」

「その、君のことを思い出せそうにない」

「ああ。記憶、ないんだろう?」

「ああ」

 パイプ椅子を床に擦らせてから席を立つとすぐに背中を向けて先ほどの医師に続くようにしてドアに手をかけた。

「……また明日来る」

 そして背中を向けたままドアハンドルに手をかけて、それだけを言い残すと部屋から去っていった。

 顔は見えず、声には抑揚を感じなかった。

 怒っているのか。それとも違う感情を持っているのか。

 彼に関する記憶も無くしてしまった希には、これだけの会話で彼の気持ちを理解することが出来なかった。


『また明日来る』――その言葉を信じて待つしかないのだろう。その時にでも聞くことにしよう。

 気分を害してしまったのならば謝ろう。聞くことでしかそれは解消されない。希には記憶がないのだから。上総がどんな感情を向けてこようとも受け入れることしかできないのだ。

 

 そして目を閉じるとすぐに視界は『黒』に染まり、彼は眠りへと身体をゆだねて行った。深い眠りに落ちていく。

 医師の説明では希は何カ月も意識をなくしており、その間ずっと眠りについていたはずなのに再び眠りにつくのは簡単だった。


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