1.
「あら、希くんじゃない!」
声をかけられたのは、鈴木希が初めて訪れた営業先から帰るために利用した駅の切符売り場だった。自動で切符を販売している機械でちょうど清算を終え、改札を通り過ぎようと思っていた時のこと。
息を切らしてこちらに駆け寄ってきた中年、というには少し目のあたりにしわの目立つその女性はまるで希のことを知っているようだったが、彼はその女性に全く身に覚えがなかった。
だから希は「人違いです」とだけ述べてその場を立ち去ろうとした。
何かの怪しい健康グッズの勧誘であったら困ると。今の時代、名前なんてどこからバレるか分かったものではない。特に営業の仕事なら余計だ。
するとその女性の連れであろう、女性よりもいくつばかりか年を取った初老、というにふさわしい風貌の白髪交じりの、けれども背中は丸くなっていないどころかまだ30代前半の希よりも背筋がピンと伸びた男性がこちらへと向かって歩いていた。
女性を迎えに来たのだろう。そう思い、今度こそ立ち去ろうと身をひるがえす。すると男性は希の予想と裏腹に、彼の腕をがっしりとつかんだ。
「希くん!」
男性も女性と同じように、希の名前を呼んだ。
男性の希だけを一点に見つめるまっすぐな目と、彼の腕をつかむ力強い手を交互に見比べ、希はこの場からは逃げられないことを悟った。
「すみません。手を放していただけませんか? 逃げは、しませんので」
希がそう主張すると男性は驚くほどに簡単にその手を放した。
「ああ、すまない」
「いえ」
それだけ述べて、希は自由になった手でもう片方の手で持っていたカバンを漁る。
そして、奥底に眠っていた携帯電話を探り当ててからメールボックスを開く。メールの送り先には、まだこの時間なら会社に残って仕事をしているだろう、同僚のメールアドレスをアドレス帳から読み込んで、内容欄には『直帰する』とだけ入れて送信ボタンを押した。
もともと同僚達には、今日は直帰すると告げていたのでこれはただの業務終了の連絡に過ぎず、電車待ちの時間にでも送ろうと思っていたメールだった。だから返信はあまり期待せずに送った。
けれども同僚からの返信は希がカバンの中に携帯をしまい込むよりも早かった。
きっと希からの連絡を予想していたのだろう。
内容欄には希の送ったメールと同じくらい簡潔な『了解』という文字だけが打ち込まれていた。
それを確認してから今度は携帯をスーツのズボンのポケットにしまった。
ポケットからはなくしてしまわないようにと適当に携帯につけた、コーヒーのおまけに付いてきた缶コーヒーの形をした赤いストラップが外を覗いていた。
携帯をしまい込んで数秒した後にずっと目の前でこちらを見つめていた2人が同時に口を開いてから、お互いの顔を見合わせて、女性のほうが口を閉じた。
「時間、あるか?」
男性は今更にも思える質問を投げかけた。
「…………はい」
決定権が希には与えられていないその質問に少し戸惑いながら了承した。
男性を先頭に女性はその後をついていった。時折、後ろを向くのは希がちゃんとついてきているのかが心配だからだろう。
希には告げられていなかった目的地に着くころには、希の前を歩いていたはずの女性は彼の隣を歩いていた。
狭い道を通る時ですら希の隣に並びながら車道側を歩いた。何回か逆の位置に立とうとしても女性は一向に譲ることなく、少しだけ俺 彼の方へと身体を寄せてくるだけだった。それも手に持ったスーパーでもらったものであろう、希の家の近くにもある有名なスーパーの名前が大きく書かれたビニール袋が彼の手に触れるか触れないくらいに少しだけ。
「持ちましょうか?」
つい口に出てしまったのはなぜだか希自身にも分からない。ただ初めて会ったはずのその人が見た目以上に小さく思えたからかもしれない。
女性は希の言葉に目を見開いてから
「お願いしようかしら」
と彼を見上げて微笑んだ。
そして右手につかんだ袋を希に差し出した後で、いつの間にか前からも無言で差し出されていた男性の手にも袋をひっかけてから嬉しそうに笑った。
男性は目的地であったのだろう古い喫茶店の前で足を止め、ドアについた金属製の板状のものを押した。ドアの上に設置されていたベルがドアの動きに合わせて音を鳴らす。そして男性はカウンターの方に顔を向け、
「3人」
とだけ声をかけてから一番奥のソファの席に腰かけた。
女性はそれに続くようにして男性の隣に並んだ。空いているのは男性と女性の目の前。どのあたりに座ろうかと考えていると店主は男性と女性の目の前にコーヒーを、そして男性の正面の席あたりにミルクコーヒーを置いた。
まるでそこに座るしか選択肢がないように感じて希はそこに腰をかけた。
希の隣には誰も居ない代わりに先ほど受け取ったビニール袋を置けば、正面の男性はビニール袋を差し出してきた。それを受け取り、同じように隣の席に置く。逃げるつもりはなかったが、自分で退路を断った形になった。
「久しぶりだろう」
男性はそれだけ言ってカップに口をつければ、こちらに目をやり希にも飲むように促した。熱い飲み物が苦手な希が何度かカップに息を吹きかけると男性は不思議な顔をした。そして女性のほうを見れば、男性と同じように不思議な顔をしていた。
「どうか、しましたか?」
不思議な顔を作る原因が気になって声をかければ
「もう飲めるわよ?」と女性が言った。それには「猫舌なんです」と答える。
「知っていますよ」
その返答に意外にもカウンターから声が帰ってきたことに驚いた。
「お前はコーヒーが飲めないくせにいつもコーヒーを頼んでは一口飲んでから、たっぷりのミルクを入れて、何度も冷ましてから飲んでいた」
「それで何度目からかマスターがミルクコーヒー、出してくれるようになったのよね」
「……」
目の前の、初めて会ったはずの男性の指す『いつも』が一体いつのことだかわからなかった。
けれども、カップの取っ手から手を放し、カップに直接触れればそれはすでに俺の飲めるくらいの、温かさになっていた。
カップに口をつけ、流し込めば、それは会社で入れてもらうミルクコーヒーとも、自動販売機で買う缶に入ったカフェオレのようなものとも、そして新しい場所に行くたびにいろんな場所で飲んだカフェオレやコーヒー牛乳、ミルクコーヒーとも違う、懐かしい味がした。
それはずっと探していたもので、探し続けていたものだった。どこに行っても見つからない。けれどもそれは確かに希の中に合って、似たものを飲むたびに彼の中で生まれていた違和感を包み込んだ。




