徒桜の誓い
「好きだ。俺と付き合ってくれ」
桜の花がポツリポツリと見え始めた頃、彼は私にそう言った。
その日、卒業式を1週間後に控えた生徒達は皆その特別な瞬間までを特別な思いで過ごしていた。
1人で感傷に浸るもの、親友と語り合うもの、そして恋人と笑いあうもの……その誰もがある現実を理解していた。
私はある日その内の一枠に〝彼〟によって入れられた。それは完璧な不意打ちであり私の心をひどく揺さぶった。
私はもちろんその申し出を受け入れた。彼とは小さい頃からの仲良くしており、所謂幼馴染みというやつであった。
次の日の放課後から私は彼と一緒に下校するようになった。
横を歩く彼の手は男の子にしては柔らかく、それは彼の笑顔と合わさってとても温かかった。
河川敷に並ぶ桜の木の下を歩きながら私たちはたわいの無いお喋りを続けた。時より川から魚の跳ねる音や飛行場から飛びたった戦闘機のエンジン音が聞こえた。
「頭の上に桜がついてるぞ」
彼の声が耳元で聞こえる。その一瞬はそばを流れる小川の音も春の香りを運ぶ風の音も聞こえない。
「君にもついてるよ」
お返しとばかりに私は彼の鼻をチョン、と弾くと彼が怯んだすきに彼の花びらをとった。
私はその2人の最初の思い出である2枚の花びらを大事に胸ポケットに入れた。
私は私の心に〝あの現実〟への悲しみを埋めるように彼との幸せを詰め込んだ。けど、それは同時に最後の時の悲しみを増やしていった。
そして、あっという間に一週間は過ぎ、私たちは〝最後の帰り道〟を2人で歩いた。
2人の時間は終わろうとしていた……
「ちょっといいか?」
その日、それまで黙っていた彼はようやくその口を開けた。
「必ず生きて、君の為に帰ってくる……そう約束できない俺を笑ってくれていい。所詮俺はそれだけの男だということだ。でも、そんな俺に1つ誓わせてほしい」
彼は大きく息を吸いこみ私の目を確かに見つめしっかりとその言葉を紡いだ。
『君を守る────たとえそれが俺の最後となったとしても』
桜の並ぶ河川敷に春一番が吹いた。
後半の言葉は私の目に映る自分に言い聞かせたようにも聞こえた。
「これを」
それ以上は言えなかった。今言葉を出せば一緒に溢れてくるものを抑えることは出来ないだろう。
彼は何も言わずに私の差し出したものを受け取った。
それは告白の日の放課後、2人の頭に落ちた桜の花びらを押し花にしたものであった。
────1943年3月某日、私たちは高校を卒業した。男達は高校卒業後すぐに軍隊に入ることが義務付けられていた────
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あの日から1年と6ヶ月が過ぎようとしていた。私はその後、家の居酒屋で看板娘として家計を支えていた。
店は軍の飛行場の近くにあることもあり、よく繁盛していた。
そういう訳で店では度々地元の男たちが今どうしているのかを聞く機会があった。
遠い異国の地、海、そして空の話は時に待ち人の心を踊らせ、時に泣かせた。
場合によっては行方不明と言われていたものを見たという話もあれば、そいつならどこどこで死んだよという話もある。
この居酒屋で話を聞いた待ち人たちはかならずその目を潤わせてその帰途につく。それが悲しみのものであれ、嬉しさのものであれ、皆揃って
「ありがとう」と言う。
その姿には密かに胸を打たれる。
私自身も同級生の死の報告を受ける度にそう言葉にしたものであったが、一年半も経つ頃にはそういう機会も減りつつあった。
だがそれは感覚が麻痺したのではなく、ただ、ただ、単純に生き残っているものがいないからであった。
同級生のうちに確実に生き残っていると思われるのは5人ほど。
行方不明者を合わせても2桁にやっと足りるかというところであろう。
そんな中、彼はまだ生き残っていた。
彼の話題が最初に出たのは卒業して1年3ヵ月ほどたった頃であった。
この村から戦争へ行った男で、飛行機乗りとなり、初陣から敵2機を墜とした天才がでたという噂が流れた。
居酒屋にやって来る飛行機乗りたちに話を伺うと、それは事実らしい。その名が分かると、あっという間に私の耳にそれは入った。
確認の為に、とある飛行機乗りから渡された集合写真を見ると、それは確かに〝彼〟であった。
その日を境に彼の情報は度々入ってくるようになった。
そして彼はいつの日からかこう呼ばれるようになっていた────『徒桜』と
徒桜とは儚く散ってしまう桜のことを表しており。言わずとも散っていくとは、飛行機乗りの生存率の低さを表し、桜とは彼の機体の日の丸に被せるように描かれた2枚の桜の花弁を表していた。
彼の武勇伝を聞きながらさらに4ヶ月の月日が流れたある日、彼が近々、地元の飛行場に移動してくるという話が常連の軍人さんによってもたらされた。
村長は村全体で彼を歓迎することを決め、それは村人にとって全くの異論はなかった。
村人はそれぞれ家から少ない備蓄を少しづつ提供し、彼の移動に備えた。
そして、1ヶ月が経った。
「あっ、あれは!」
1人の少年が指を指したほうを見ると遥か遠くに豆粒のような点が見て取れた。やがてその点が野球ボールほどの大きさになる頃にはその力強いエンジン音が村へと響き渡っていた。
その夜、私の家の居酒屋に招かれた彼は昔からの温厚な性格は変わらず、そして偉ぶることもせずに、その夜を村人と語り合った。
頃合いを見て、私が酒を酌みながらそっ、と彼に合図を送ると彼は了承した、というように極上の笑で私を見返した。
流石にそこまであからさまな行動に周りが気づかないはずもなく、そう時間も空かずに彼は店の外へと出てきた。
「ただいま」
「おかえり」
彼はあの日帰ってくると約束はできないと言った。でも、彼は今ここにいる。私の手が届き、体温が感じられる距離に。
どちらかともなく私たちの距離は縮まり、そして無くなった。私の唇に暖かいものが重ねられる。私たちの、あの桜の日に止まっていた時間は再び動き出した。
「心配、したんだからね」
わざと聞き分けのない子供のように言ってみる。見た目だけでも強気でいないと、私の見せかけの平常心は一瞬で崩れてしまう事だろう。
「ごめん」
彼は素直にその謝罪の言葉を口にする。それが、彼の良いところでもあるのだけど、久しぶりにあった彼女との会話に混ぜる言葉としては間違いであろう。
「違う」
気づいてよ。私のわがままな心は全ては伝えない。
場に空白ができた。ちょっと、言葉に足らずだったかな? 怒った……かな? 私の胸に嫌な予感がよぎった。
その瞬間
「……っ!」
私の体は大きく、たくましく、暖かいものに包まれた。
「ずるいよ」
私の声は涙でかすれていた。
「もうすぐこの戦争も終わる、そしたら一緒に暮らそう」
その言葉が駄目押しだった。一線を超えた涙はとどまることを知らずに頬を流れ落ちた。
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彼が帰ってきてから半年、あの桜の日から2年の月日が流れた。
彼は飛行隊のエースとしてこの空を守っていた。敵の超大型爆撃機は、その数を日に日に増すばかりであったがそれは彼の撃墜数を伸ばすだけであった。
桜の日からちょうど2年後の今日、私は無理を言って昼間に彼と会う約束をしていた。但し、現状はいつ緊急出動がかかってもおかしくない状況のためその時間は限られていた。
私は今日、数ヶ月前に涙によりきちんと伝えられなかった言葉を伝えるつもりであった。
あの時と同じように私たちは河川敷を歩いていた。そして、いざあの桜の木の下に着いた瞬間、その音は村全体に響き渡った。
敵機来襲を告げる警報であった。飛行場のほうでは出撃準備を整えた味方戦闘機の姿が見えた。彼は心配そうに一度、こちらを見た。
「行って」
私がそう言うと彼は弾かれたように飛行場に向けて走り出した。故郷の空をそして、私を守るために。
彼が飛行場に着いたころ既に敵大型爆撃機は撤退中であるという報告を受けた。
しかし……
空からエンジン音が聞こえてきたのである。その音は彼の耳を鋭くつついた。
それは、慣れ親しんだ愛機やその仲間たちの機体のエンジン音ではない、それでもそれと同じほどの因縁をもつ音であった。
私は桜の木から少し移動し、飛行場の見える丘の上に立っていた。ちょうどその時、空からあの音が聞こえた。
その音が聞こえだして数秒後、飛行場から1機の戦闘機が飛びたった。その戦闘機には日の丸に被せるようにして大きく2枚の桜の花弁が描かれていた。
機体は機首を上げ、急上昇を行うと今にも爆弾を投下しようとする敵機の真下に潜り込み、そのまま敵機に突っ込んだ。
まさに間一髪のタイミングであった。その体当たりがなければ今頃見渡す限りが火の海となっていたであろう。
「……っ!?」
言葉も出ないとはこのことを言うのであろうか? 私の思考はそこで停止した。
空中には火を吹きながら落ちていく敵機の姿のみが残った。『徒桜』の機体は体当たりの衝撃によって粉々になり、空中の塵となっていた。
「どうして。どうして、あなたは?」
誰に言っているのかも分からない。何に言っているのかも分からない。ただ、ただ、思いは一度は停止した私の思考で回り続ける。
伝えられなかった言葉が、想いが、私に終わらない後悔を与える。
その時、まるでこの後悔を吹き飛ばすかのような風が吹いた。
私の視界が桃色に染まった。河川敷の桜の木が一斉にその花弁を空に放っていた。
自然と私の視線は上を向いた。
桜吹雪。その多数の〝散る桜〟によって構成される現象は無理矢理に嫌な想像を掻き立てる。
その数ある花弁を目で追っていくうちに私は不思議な花弁を見つけた。
その花弁は風に流れることなくその場にとどまっている。何となくその花弁を見つめていると、花弁は次第にその大きさを増していった。
花弁の真ん中に人が見えた。
否、花弁に見えたのは真上から降下してくるパラシュートで会った。
彼は体当たりの直前、その身を機体の外に投げ出していた。
「死んだかと思ったじゃない!」
私は頬を流れ落ちる涙を拭くことも忘れて彼に怒りをぶつける。もちろんそれ以上に彼が生還したことへの嬉しさを込めて。
「言っただろう? 生きて帰るとは約束できないけど、必ず君を守ると」
「それでも、それでも……っ」
「俺はここに、君のそばに居るよ。これからもずっと」
桜の木だけが彼らの様子を見守っていた。
散った花弁はそれでもその美しさを失うことなく、どこまでも続く絨毯を作っていた。
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その後、彼は病院に入院することになった。どうも私のために相当無理をしていたらしく、飛行場に戻るのと同時に意識を失ったらしい。
彼はそのままベットの上で終戦をむかえた。
『徒桜』と呼ばれたその飛行機乗りは命を散らすことなくその使命を終えた。
徒桜の使命が終わった彼は、今度は私の夫という使命のもとに歩み出した。
〝残る桜も散る桜〟
────私と彼もいずれは散る身、されどその時はまだ遠い。人生は長い、紡がれた想い出はその一幕。
想い出の蕾がまた、花開く。