闇に潜む
ようやく。
ようやくここまできた。
そろそろ辺りは暗くなってきた。エルに聞けば五時過ぎだと言う。
この世界は不思議なことだらけだが、なぜだか言語と時間、日付は日本と同じだった。助かったというべきか、謎が深いというべきか。
未だ目的地には遠いらしく、姿形はまるで見えない。でも幽玄の城はまだ見える。それはあの城を中心にして、ぐるっと回ってきたからだ。
本来はあの山すら突き進んでくるのが一番速いのだが、それは無謀というもの。危険極まりない。流石に迂回し、結果この進み具合である。
とはいえ、ここからではもう石ころ並の大きさにしか見えない。遮るものがないこの地では、結構離れているとみてもいいだろう。
そろそろ休憩に入るということで、エルは荷物をある程度まとめている。別にに目的地ではないが、馬車からは降りるので必要なことだ。
「こうしてみるとホントに怖いね、あの城。肝試し向きというかなんと言うか」
日は既に地平線に隠れている。今はまだそれでも空は赤いが、すぐに夜に移り変わるだろう。
そんな中、あの城だけはいつまでも不気味である。明かりがつく気配もないし、頭上を旋回する怪物たちも変わらずだ。遠すぎるので砂粒のようにしか見えないけど。
「見ない方がいいわ。この辺りの国じゃあ、あれがある方角は不吉の象徴にもなってるもの」
あれからは安全な道程だった。大して異変があったわけでもないし、これなら案外どうってことなく終わるかもしれない。
「ほら、だから言ったじゃない。そんなに猛獣は出ないって。怖がるのもいいけど、節度も大事よね」
誰にともなくエルが呟く。まだ御者は御者席だ。大して大きくないこの声は聞こえもしないだろう。
「さ、あなたも準備なさいな、と思ったけれど荷物なかったわね」
「リュックとお金だけなら持ってるけどね」
エルが馬車の片隅に積まれていた荷物から何かをがさごそと取り出す。食料と水だ。そう長い距離移動するわけでもないので、乾パンとかそんなひもじいものではない。
「この辺りはまだ危ないわ。昼間のうちに一番危ないところは通り過ぎたけれど、安心なんて到底できない。せいぜい三十分程度だからしっかり休むのよ?」
馬車の中で食事やら何やらした方が良いのだろうが、火を扱うので危険すぎる。馬車を燃やして足がなくなってしまえば本末転倒だろう。
それに馬も休憩がいる。なぜかこの星の動物たちは基本的にタフなので、朝からこれだけ走ってもまだ元気なままだが、こちらも安心はできない。
他にも車輪の点検なんかもある。要はこのまま走行はできないわけだ。
「理想としては完全に夜になるまででしょうね。夜行性の猛獣や怪物も陽が落ちた直後から活動はしない」
「この時間からまたすぐに馬車に乗るってこたは、馬車の中でそのまま一夜過ごすってこと?」
「そうじゃないわ。ここが危ないから必要最低限の休憩で済ませようってだけ。もう二、三時間走ればもっと安全な場所になるから、そこで一泊の予定、だったはずよ」
「ははーん。ちなみに後どれくらいで着くの?」
「そうねぇ・・・・・・馬車で六時間くらいかしら?歩いていくなら二日くらい?」
「いや歩いては行かないけどさ・・・・・・」
もしかしてこの女、僕をここで降ろしてくつもりじゃないだろうな。なんてことを思ったが、流石に冗談だろう。
そんなやり取りをしている間に、次第に馬車が速度を落とす。
窓から覗けば辺りは草むら、少し離れたところに森がある。草の背丈は膝のあたりまでなので、大きい獣が潜んでいる可能性は少ない。道の上なら草もないので、安心して敷物もしけるだろう。
「あーーーーーー」
不意に、何か声が聞こえた気がした。風十は辺りを見渡すが、エルの顔があるだけだ。
どうやらエルには何も聞こえなかったらしく、特に反応はしていなかった。
だが、異様に何かが引っかかる。この声は・・・・・・
「そうだ!御者の人!」
はっと気づいたところで、次の異変が起こった。馬の嘶きが空高く響く。
遅れて馬車に衝撃が走る。何かに引かれるように道を逸れ、そのままの勢いで横転する。
「きゃっ!!!ーーーなに、何事!?」
「あ痛ッッ!」
突如としてひっくり返った視界に、エルが動転して声を張り上げる。風十は頭を強打していた。
だが自身の身の確認よりも、まずはすべきことがある。
一体今何が起きているのか。
御者台にあった明かりがかき消える。
一瞬にして、辺りが静寂に飲み込まれる。
「・・・・・・どういうこと?襲撃?それとも事故?・・・・・・おじ様?何があったーーーーーー」
前方の壁に埋め込まれた窓を開けて、エルが顔を出して声を掛けた。そしてーーーーーーその途中で絶句した。
人が倒れていた。馬が倒れていた。
白目を向いて、呼吸を止めて、鼓動を止めて、ナイフが突き立ち、そして血が、堰など知らぬとばかりに流れでていた。
「・・・・・・!!」
遅れて風十も目を向ける。あの平和な日本では、まず目にしない光景を、否が応でも目に焼き付けられる。
不快感が身体を走り、頭が真っ白になる。今起きていることを理解できないしようとしない出来の悪い頭を、どこか遠くから自分で叱責した。
「だ、大丈夫!?い、います、すぐに治療を!!」
冷静ではない。それは誰がどう見てもわかっただろう。だが一体、誰が責められよう。こんな光景、普通は貴族様が目にするものではない。
エルは慌てたように一度手を中空で右往左往させ、すぐに窓から御者へ向かって突き出した。
術式を起こし、魔力を流す。対象を決め、癒す部位を決め、どう治すのかを決定し、傷一つない完成形に近づけるように少しずつ計算をしながら傷を癒していく。
もし、この場に熟練の傭兵でもいたなら、即座に注意したに違いない。ナイフは首に突き刺さっている。これで死んでいないならひどい地獄を味わうことだろう。だがそうではない。人間の身体は、なんとも脆いものなのだ。つまり、御者が死んでいるのは間違いない、死人の怪我を癒して何になる。今は、自身の身を守ることを考えなければならない。
もし、今の状況に陥れた敵が手練だとしたら、間違いなく今、馬車の窓から半身を出している間抜けな人物を狙うことだろう。
「ーーーーーー躱してっっっ!!エルっっ!!」
風十が反応できたのは奇跡でしかない。いや、危機的状況になったことで、普段回らない分まで頭が回ったのかもしれない。
ともかく、それに気づけたのは幸運だった。朧気な夕焼けを走る銀の煌めきは、一瞬にして風十に叫び声を上げさせていた。
反射のようにエルの身体がビクリと震えた。そしてその数瞬後、その美しい顔の真横を鋭い何かが通り過ぎる。次いで、ストンッという軽快な響きが後ろの壁から聞こえてきた。
血の気が引く。
いや、既になかった血の気がさらに引いていく。当然だ、今エルは殺されかけた。
それを風十は横で眺めている。彼の身体は、ピクリとも動こうとはしていなかった。
しかしそれでも、そんな情けない姿でも、エルに比べればまだマシな顔色で、精一杯の気力を振り絞る。
何が起きているのか。
働かない頭で必死に考える。でなければ死ぬ。
このままではマズイ。それだけは分かる。
暗器が飛んできた。それはつまり相手が『獣ではない』ということにほかならない。
相手は人。もしくはそれに準ずる頭脳を持つ何か。エルに向かって投擲したということは、この馬車の中にいる存在に気づいている。
ここにいては死ぬ。まず間違いなく。
逃げなければならない。幸い近くには森がある。視界だけは遮ってくれるだろう。問題はそこにいる化け物の類だ。
しかし考えたところでどうにかなるはずもない。今気にすべきなのは、襲われたらどうするか、ではなく、この襲われた状況をどうするかなのだから。
方針は決めた。あとは動くだけだ。
だが肝心の身体は一切反応しなかった。恐怖というものがこれほど恐ろしいものだとは知らない。頭と身体が切り離されたように思考に行動が一切伴わなかった。
しかし、それでも、口だけは動いた。
「エルッッ!!」
この声は先と同じ回避を促すものではない。
風十はきっと、『君だけでも逃げろ』と伝えたかったのだろう。しかし、言葉はそこで途切れた。
情けなかった。このままでは、二人とも危ないだろう。それがわかっているのに、言葉はそこから先を言おうとしないのだから。
しかしエルは反応して見せた。青ざめた顔で、震える脚を激し、そして必死に立ち上がる。
そして震える声で、声量を限界まで抑えた声でこう言った。
「・・・・・・風十、た、立ちましょう・・・・・・逃げるの」
それに、その言葉に、どれだけ風十は助けられたか。
目の前の少女が、まだ年端も行かない女の子が。
この状況で、自分のためではなく、人のために声を発した。
風十と大して年の変わらない少女が、風十よりも勇気を持ち、風十よりも強き心を持っていた。
身分が違う?魔法が使える?
関係ない。そう、全く関係がない!
何より重要なのは、風十の心がそれを許せるかどうかなのだから。
もはや身体の自由は取り戻していた。
今は夜だ、視界は暗い。でも風十には、何よりも真っ赤に染まって見えた。
☆
標的は、未だ馬車の中にいる。
それは確実だ、間違いない。
全身を黒いローブで覆い隠した五人の男達は、互いに距離を保ち、横転した馬車を半円になって取り囲むように移動する。
本来ならあの扉ごと消し飛ばすのがいいのだろうが、生憎この場に魔道士はいない。しかし必要ない。そんなものいなくとも、恐らく簡単に命を奪えよう。
何よりも、相手がすぐに行動しようとしないのがその証拠だ。
もしある程度経験があるならば、即座にこの場から離脱し、体勢を立て直すなりそのまま逃げるなりするはずだからだ。
それをしないということは、怯えて動けないのか、はたまた油断を誘い、あの馬車に近づいたところで攻勢に出ようとでも思っているのか。
まあ、どちらでも問題はなかった。後者ならば多少の犠牲を覚悟で吶喊すればすぐに片がつくだろう。もとより、上からは多少の人員の欠落は多目にみると言われている。つまり、肉を切らせて骨を断て、というわけだ。
「このまま出てこないのであれば、合図の元に一斉に突撃する」
彼らの頭らしき人物が指示を出す。暗闇に近いが、全員が頷いたのが何となくわかった。
男が心の中で数秒数える。あと十秒もせずに仕掛けるつもりだ。時間はなるべく与えない方がいい。
しかし、あと三秒程度だというところで、不意に馬車の扉が軋みを上げて開かれた。
横転しているので、上方に向けられた扉から、二つの影が飛び降りる。
夕焼けは、既に地平の彼方へと消え去りかけている。
さっさと始末して帰らねば、自分たちの命も危ない場所にいるのだ。男は知らずして焦っていたのかもしれない。
「・・・・・・あ、あなたた、ちの、も、目的は私、でしょ、う?」
飛び降りてきた影のうちの一人が声を発する。声は少女のものだ。怖いのに、必死に取り繕おうとする様は健気なものだが、容赦はできない。
「何を言いたいのかはわかるが、許容できんな。目撃者は排除、それは鉄則だ。いや、そもそもーーー」
恐らく少女は、自分の命を差し出すから、隣の奴は助けて、とでも言うつもりだったのだろう。
だが無理な話だ。何よりもまず、少女は勘違いをしている。
「行くぞ」
何かを言いかけていた男は、一度別の言葉を挟んだ。
それは合図だ。襲撃前から決めていた、五人全員による一斉攻撃。
全員が走り出す。体勢を低くし、半分草木に隠れるように。風が流れ、手に持つ暗器が不穏に輝く。
「ひっ・・・・・・」
向かう先の二人から、悲鳴が漏れた。瞳には恐怖がある。身体は震えている。それでも少女の方は、隣の人物を庇うように半歩前に進み、短杖を構えた。
隣にいるのは男、それも少年だ。まだ随分幼さの残る顔立ちだが、既にその外見の特徴は聞き及んでいる。
女の子に庇われる男を、軟弱だと笑おうとは思わなかった。いやむしろ、この場において少年を庇おうとする少女の方が異常なのだ。
怖いだろう、恐ろしいだろう、泣きたいだろう、叫びたいだろう、逃げたいだろう。
既にほぼ目の前にいる少女は、どう思っているのだろうか。
だが、先に殺すべきはそちらではない。
「ーーー我らはそもそも、女、貴様を殺しに来たのではない」
風のように駆ける怪しい五人は、誰一人として、少女に見向きもしなかった。少女もまた、呆然とする。
目的が違う、優先順位が違う。
彼らは初めから、エルを殺しに来たのではなかった。ついでなのは彼女の方。目撃者としていずれ消されてしまうのは、彼女の方だ。
「覚悟を!」
ぬらりと湿った刃が奔る。万全を期すため、わざわざ毒まで塗ってきた。
一人は首を狙い、一人は腹を狙い、一人は脚、一人は腕、一人は顔を狙って飛びかかる。
真っ赤に充血した眼を持つ少年目掛けて。
躱せない。絶対に。少なくとも相手が人間であるならば、肉体能力の限界として、今更躱せるところにはもうない。
刃は走る。この限りない一瞬にあって、未だに誰も油断はしない。しかし、誰もに確信はあった。
『取った』と。
一瞬後に全てのナイフが突き刺さり、首を断ち切られすぐさま絶命する様を思い浮かべた。
誰もがそう、幻視した。
一人が、ふと眼を見た。何の気なしに、一切の感情も込めずに。
それを見て、すぐには何もわからなかった。何も思わなかった。
風十の瞳は恐怖に濡れ、怯えに震え、今にも泣きそうで・・・・・・唐突な死を、心の底から恐れていた。
良心の呵責がない訳では無い。だが、そんなものは役に立つことがないということも理解していた。
その観察が功を奏したか、災厄を呼んだか。
ーーー風十は、見つめていた。
ーーー迫り来る刃を、確かに瞳に捉えていた。
「ーーー!?」
怖がっている、怯えている。心はすでに涙に塗れているだろう。それは確信を持って言える。
だが問題はそこではない。
その瞳が、この、風切り音を限りなく小さくし、高速で飛来する死の刃を、見つめていることが問題なのだ。
途端、彼は不安に埋め尽くされた。このナイフは本当に風十の喉に届くのかと、肉をえぐり死に溺れさせることが出来るのかと。
何か、とんでもないことをしでかしているような・・・・・・
果たしてーーー
「・・・・・・・・・・・・」
ーーー嫌な予感は的中した。
ゆっくりと、いや、この引き伸ばされた一瞬の中で、ゆっくりと、そしてギョロリと。
少年の、風十の真っ赤な瞳が蠢いていた。
ここら辺から大事ね。戦闘だけどあんまり自身ございません。
まあ、日常会話よりは得意です。






