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89 プリズムハート -2



 虚構の城が消え、風景が修練場に戻る。

 僕たちが戻っても、誰も口をきかなかった。

 何を見せられていたかは知らないが、観客たちは高揚するでもなく、ただ呆然としていた。

「天藍、ツバキ!」

 紅華が駆けて来ようとするのを手振りで制する。

 戦いに決着がついたのかもわからない。おまけに天藍は暴走しかけてるし、僕の死体は転がってるしで、猶予はどこにもない。

 何かが違っているとしたら……だ。

 ただひとつだけ、大きな変化があった。

 藍銅の魔女たちがいるべき場所に、琥珀を飾った杖を持ち、美しい銀の刺繍が施された藍のマントを羽織った少年がぽつんと佇み無言の観客たちを見上げている。

 僕は天藍の瞳を通して彼を見ていた。

 その名前を知っている。


「シロネ……シロネ・バナディナイトか……!?」


 乾いた声でその名を口にしたのは、会場に残っていた黒曜だ。

 死んだはずのキヤラの弟。

 シロネと呼ばれた少年は節目がちな瞳をこちらに向け、呪文を紡ぐ。

「《昔々、ここは偉大な魔法の国》……」

 パチンと指を弾いた。

 次の瞬間、再び修練場の風景が、紅華や観客たちが消え去った。

 次に認識できた現実の風景は、どこかもわからない薄暗い劇場だった。

 きい、きい……と小さな軋む音がする。

 薄暗がりに揺り椅子が置かれている。

 シロネはそこに腰かけ、眠たげに瞬きを繰り返していた。あまりキヤラには似ていないが、つんと上を向いた小ぶりな鼻に少しだけ面影があるだろうか。

「昔々……」と彼は透明な声で語った。

 青海の魔術師の物語を。


 昔々、ここは偉大な魔法の国。


 勇者と魔法使いは竜を倒すために旅を続けておりました。

 しかしその間にも竜の炎は王国を容赦なく焼き払います。街は崩れ去り、畑を焦がし、人々はしだいに竜そのものよりも飢えや不和に苦しむようになりました。


「勇者は果ての地に向かいました……そこは追いつめられた者たちの最後の拠り所。理想郷。永遠の土地、約束の果ての場所。魔法使い――《理想郷のルレオリ》が住むところ」


 そこでは作物や果実は四季のめぐりを待たずに実り、家畜たちは餌が無くとも増え続け、たとえ跡形もなく家々が崩れ去ったとしても、次の日にはまた元に戻ってしまうのです……。


「だけど、勇者と魔法使いは気がついた。そうして人々が遊び暮らしている間、ルレオリは眠ったまま《一度も目覚めない》ことに……。果ての地は、ルレオリの夢の中にあったんだ」


 そうしてシロネは瞼を開き、起き上がる。


「お見事でした、マスター・ヒナガ。血と勇気の祭典の勝者は貴方だと認めましょう」


 透明な声が劇場に響く。

 彼は勝者に贈られる予定の《鍵》を放り投げて来た。

 天藍がそれを受け取り、魔術によって確かめるのを間近に感じる。

「夢みたことを現実にする。それがルレオリの力なんだね」と、僕が訊ねた。

 天藍は言語に関する行動の優先順位を僕に譲ってくれている。

 体ひとつに人格が二つ。この状況はものすごく不安定で難しい……気を抜くと、僕と天藍の人格がごっちゃになって、二度と分離不可能になってしまうだろう。

 その境界線を、オルドルが必死に守ってくれている。

 微妙で繊細な均衡の上に、僕と彼の会話があった。

 シロネは眠たげに答えた。

「否定はしません。どこで気がついたのですか?」

「キヤラはずっとヘンだったからね。誰にも知覚できないのに消えたり、現れたり……極めつけはノーマン副団長の監視網にも引っかからなかったことだ」

 その感覚を、ノーマンとオルドルは共に《何かが根本から間違っている》と表現した。

「つまり、前提が間違ってたんだ、僕たちはキヤラをずっと探していたけれど《キヤラは本当はどこにもいない人間》で――つまり、それは、《君がルレオリの力で生み出したキヤラ》だったんだ。違う?」

 ノーマンも、クヨウも、ずっとキヤラ・アガルマトライトを探していた。

 でも本当に探さなければいけないのはシロネだった。

 だから、違和感を抱えたまま、いつまでも彼女を捕えられなかったんだ。

「まさか死んだはずの《弟》だとは思わなかったけどね……」

「白々しい人ですね。直前で気がついたからこそ、あんな手を使ったんでしょう?」

 シロネは指を鳴らす。

 すると劇場が消え、今度はなにかが焼ける強烈な臭気と熱風が感じられ、目の前に炎の海が広がった。

 何かの残骸。たぶん飛行機だと思う。

 灼熱のカーテンの向こうから、会話が聞こえる。

《大丈夫、絶対に君を守るよ……!》

 シロネの声だった。

 今よりもずっと若い彼は、ぐったりとしたキヤラを抱えて必死に呼びかけていた。

《守らなくていい》と彼女は力なく応えた。《守れるわけない》

 それは……黒曜の手引きによる亡命が失敗に終わったときの光景だった。

「ぼくはこのあと殺されました。肉体は再生不可能なほど破壊されて……。そして、キヤラも」

 それは矛盾した悲劇だった。

 だとしたら、僕が話しているのはいったい誰だというのだろう。

「誰が裏切ったにしろ、そいつにはひとつ誤算があったのでしょう。即ち、青海文書という予期せぬ要素のことです」

 困惑する僕に、オルドルが話しかける。

『ルレオリの《読み手》は二人いたのサ。シロネとキヤラだ』

 オルドルのつまらなさそうな種明かしに、天藍がひどく顔を顰めるのを感じる。

 事実に対する反応というより、オルドルの存在を感じたのが不快だったみたいだ。

「キヤラは最後の最後に、ルレオリの力で愛する弟の《肉体》を願ったのですよ……自分の命ではなくて、ね。そして永遠の眠りについたのです」

 シロネの表情が歪む。

 キヤラは死んでいたのだ、とっくの昔に……。

 驚きよりも、そうだろうな、という寂しい納得があった。

『でも、それで終わりじゃない。コイツは生き延びて、同じことを願ったんだヨ。わかるだろ、ツバキ』

 僕は幻影の炎に燃えるふたりの影を見つめていた。

 キヤラのおかげで生き延びたシロネが、次に何をしたのか……彼はルレオリの力を使って、《夢を見る》ことにしたのだ。

 遺されたキヤラ・アガルマトライトの肉体に《魂》を宿す夢を。

 シロネが《理想郷のルレオリ》の力を使い《眠っている》間、キヤラは生き続けた。僕の前に現れて、翻弄し、デートだと言って少女のように微笑んでいた彼女は、それはシロネの見ていた《夢》だったのだ。

 事故直後の医療記録には、シロネはほぼ即死、キヤラの肉体は奇跡的にほぼ無事であると書かれていた。

 これは、推理なんて上等のものじゃない。キヤラはずっと、意味不明なくらい弟に執着していた。

 それは何かのメッセージにもみえた。

 そこからふと、こう考えたのだ。

 もしかしてキヤラは魔法によって作り出された存在で、他の何者かが裏で糸を引いているのだとしたら?

 それが死んだはずのシロネだったとしたら……僕はそこに賭けた。

 即死するダメージは盾によって受け流せる。

 でもそれ以外は体に残る。キヤラの肉体は喪われたら、もう二度と元には戻らない。

「翡翠女王国にやってきて、たくさんの人を殺し、世論を操作していたのも、キヤラを操っていた君、シロネのしたことなのか?」

「そうかもしれない。ぼくの望みは、キヤラのほんとうの魂……彼女が生きて、この世界に存在すること……」

 彼の望み通り、ルレオリの力で復活させたキヤラは生前と同じように行動した。

 美しい少女として振る舞い、暴虐のかぎりを尽くし、大魔女として魔法を振るう。それは彼女が本来持っていた性質そのものだ。

「そうでなければ、彼女はただの操り人形になってしまう」

「都合が悪くなれば目覚めて存在を消し、シロネとして逃走する。都合のいいことだ。操り人形以外の何者でもない」

 そう、天藍が吐き捨てるように言う。

 シロネはこちらを睨んだが、だがそのことに気がついていないわけでもないのだろう。悲しそうな目つきで、ルレオリの杖を握る手に力をこめる。

「それでも、キヤラがどこにもいない世界なんて耐えられない……」

「ほかの姉妹たちは……?」

「彼女たちなら、殺されましたよ。キヤラよりずっと前にね」

「殺されたって……どうして……?」

「もともと彼女たちの存在そのものが、壮大な実験だったのです」

 シロネがこちらを睨む。

 そして怨嗟の声音で信じられないことを告げる。

「藍銅の持てるすべての魔術技能をすべて詰め込んだ、五人の姉妹。各国に派遣されて破壊のかぎりを尽くす。彼女たちはその目的のために育成された捨て駒……」

 公姫としての特権を活かし、愛らしい容貌で世間を騙し、破壊工作に従事する。

 奔放な性格でさえ、幼い頃から受けた教育のせい。それどころか、母親の胎内にいたころから受けて来た魔術のせいだという。

 世間は誰も彼女たちのことを疑わない。

 公姫だから。何より彼女たち自身が、己の行動に疑問ひとつ抱かなかった。

 そして――さすがに騙し続けられなくなったなら、殺害し、数多いるシロネのような別の王子や姫にその座を譲る。

 それがシナリオだった。

 命を命とも思わない所業に、僕は絶句してしまう。

「なんのために」

「理由などない。それが藍銅公王という男だ」

 シロネの恨みが、怒りが、ひとりの人物に焦点を合わせる。


 それと同時に、僕にはいろいろなことがわかってしまう。


 あなたに魂はあるの? と聞いたキヤラのこと。

 私を殺して、と言った彼女のことを。

 戦いでは救われないもののために戦っている気がすると言った天藍アオイに、私もよ、と答えた彼女を。


 なぜ彼女はヒントになりそうなことを次々にさらけ出して、ひとつひとつ見せてくれていたのだろう?


 ずっと、キヤラは終わりを望んでいたような気がする。

 藍銅の捨て駒としての自分。

 そして、シロネの操り人形としての自分。

 まがいものの命の、そのすべての終わりを。

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