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88 プリズムハート

*****


 炎の前には、鋼鉄でさえ無力だった。

 横倒しになったバスが音を立てながら燃えている。

 街中が火の海だ。

 見渡すかぎり、死体の山と、瓦礫の山……。

 死の異臭が振り撒かれ、絶望と狂気が満ちている。

 そこに《彼女》は佇んでいた。

 薄紫色のドレスを着た少女が絶望の夢を見つめている。

「君はここから来たんだね……」

 声をかけると、マリヤは振り返った。

 絹糸のような髪を熱風に翻しながら、微笑みもしないでいる。

「……なんて言って欲しくてここにいらっしゃったの?」

「夢の中のきみは、僕を責めてくれたね」

 マリヤは卑怯者だと僕を罵った。

 それは、僕がそうしてほしかったからだ。

 何故殺したのだと言ってほしかった。

 殺す必要なんて無かったじゃないか、と。

 でも、いまなら理解できる。

 僕が思う彼女と、実際の玻璃・ビオレッタ・マリヤは全くの別人だ。

「きみは僕を責めたりしない。恨んだりもしてない」

 彼女は手段を選ばずに百合白さんから《理由》を聞き出すと決めたとき……誰からも恨まれないとか、報復のために殺されないと、そんな都合のいいことを考える愚かな少女ではなかった。

 聡明であるからこそ、誰かが止めにくるはずだと考えたはずだ。

 僕に殺されるときも、なぜ僕なのかと疑問に思いはしただろうけれど、結末は想像の範疇だったと思う。

「君はずっと、僕と同じなんだろうと思ってた。憎しみの心でサナーリアの力を使ってるんだと……でもそうじゃないね。君は全く別の思考をした、違う人間なんだから……」

 他者を理解したいと望むとき、《自分ならこう思うだろう》という考え方は通用しない。

 決してわかりあえない、理解などできない。それが他人だ。

 ただ想像することだけが許されている。

 僕と彼女はちがう……その差異のむこうに立っているのがマリヤだ。

「今なら君がよくわかる」

 マリヤがゆっくりと手を伸ばす。

 僕も彼女の掌に触れる。

 握りしめる。

 柔らかな感触、滑らかな肌のすべり、すべてがただの夢なのに、夢じゃないみたいだ。



******



 目の前で命がこと切れようとしている。

 それはまるで泡のひとつが弾ける瞬間のような頼りない情景だった。

 昔から、キヤラは命というものの輪郭をはっきりと捉えられなかった。

 世界の全ての物事は何ひとつ独立しておらず、あらゆる出来事は関連し一繋がりに見え、他人と己の境界線は、他人が思うよりも曖昧だった。

 そして彼女は、そこに手を伸ばし、触れるだけで、全てを変えられると知っていた。

 壊すことも生かすことも、姿を変えることさえも思いのまま。

 それが大魔女としての才能だった。

 キヤラ・アガルマトライトを取り巻く人々は、それを《偉大なこと》と捉え、教育を施した。

 高名な魔術師が次々に宮殿に呼ばれ、師となった。しかしキヤラが学んだのは魔術というより彼らが抱いている思想だった。

 彼らは命には価値があると考えていた。

 そして個人と個人の間で、王族と平民で、才能と平凡の間で、その価値は変動する。魔術師ですらそう考えている。

 五人姉妹の間でさえ、揺るぎない価値の差があった。

 一番貴重な存在はキヤラだと言われた。

 それが、ずっと不思議だった。

 人々は、美しい言葉を口にしようとする。生きとし生けるすべての人間に価値があると言う。

 それなのに何故、命に値段をつけるという愚かしく薄汚い作業をしてしまうのか……。

 壊れゆく命も、これから壊してしまう命も、等しいものなのに。


「やめろ、天藍!」


 彼女と白騎士の間に飛び込んで来た魔術師もまた、命にありもしない価値を見つけたのだろう。

 この場で生き残るべきは誰なのか。

 より強い者は誰なのか。

 それは間違っている、と彼女は感じる。

 そうではない。

 誰にも価値は無い。

 生きているということに理由などない。


 だからこそ。


 キヤラは力を失った椿の体を引き寄せ、首筋に牙を立てた。

 柔らかい肌に牙が食い込み、血管を破る。

 流れる熱い体液を本能のままに啜る。

 魔剣が、そして魔性の牙が同時に血を吸い上げていく。

 不意に止まった時間が動く。

 その刹那、彼女の元に白い吹雪が殺到する。

 彼女はそれを後退して避ける。


「思ってたよりつまらない男ね、貴方♪」


 地面に白い蓮座を咲かせながら、騎士が進む。

 一歩、強く踏みこむ。急成長した結晶が剣を形作った。

 それを引き抜き、投擲する。

 同じことを繰り返しながら、キヤラとの間合いを急速に詰めていく。彼女は椿を刃から引き抜き、捨てて、墓標のように突き立つ純白の剣の群れから抜け出した。

 唇を濡らす紅い液体を舐め取りながら、彼女は微笑んだ。

「微かにオルドルの情報を感じはするけど――味は普通のニンゲンの血だわ♪」

 投擲された武器がキヤラの元に届くと、それは浮き上がって止まる。

 そして、一拍置いて翻り、天藍アオイに殺到する。

 天藍は急成長させた結晶の盾で受け止めた。

 白鱗天竜の力で生み出された刃は脆く砕け散った。

 攻撃が止んだとき、そこには日長椿の《遺体》を抱えて俯く騎士がいた。

「容姿がどうあれ貴様が畜生だということは知っている」

 その言葉には怒りが滲んでいる……気がする。

 キヤラにはうまく読み取れない複雑な感情だった。

「だが……それでも訊ねる。戦いのない世界を想像したことはあるか?」

 突然の問いかけだった。

 キヤラは不思議そうに首をかしげる。

「ないわ♪ 人生とは生存を賭けた戦いよ、形式が違うだけ」

「他人が己と同じ価値を持つ対等な存在だと感じたことは?」

「全ての人間に対してではないわね♪」

「では……救えないもののために戦っていると感じたことはあるか?」

 答えを求めるように見上げるその瞳は、天井に穿たれた穴のその向こうを見つめていた。

 再び俯いた天藍はその白い指先で、魔術師の乱れた長い黒髪を払ってやる。

 そういう思いやりは、キヤラに意外な印象を与えた。

 死者の髪が乱れていようがいまいが、気にも留めない男だと思っていたのに。

「暗い部屋で震えていた。助けを求めていたのに……」

 静かな声音だった。

 けれど、ぞっとするほど冷たく怒っている。

「戦わなければ何も得られない。だが、私はいつも戦いでは救われないもののために剣を振るっている気がする」

「そう」とキヤラは応じた。「私もよ」と。

 それだけだった。

 そして、キヤラの想像をも超えたことが起きた。

 騎士が大きく口を開け、椿の首筋に《噛みついた》のだ。

 肉を裂き、骨を噛み砕いて引きちぎる。

 わずかに残った血液の飛沫が、白い容貌を汚した。それを舐め取りながら、立ち上がる。

「…………どうしたの? 気でも狂った?」

「お前を倒す。そして、その先に何があるのかを見たい」

 騎士は汚れた顔をキヤラに向け、切っ先を地面に突きつける。

 地面が白く結晶化していく。

「五の竜鱗、《竜翼飛翔》」

 竜の翼を生やし、飛翔の竜鱗魔術を発動。

「まだ戦うというの……♪ 貴方も私も、戦いによって得られるものと、本当の望みは違うと知っているのに」

 キヤラの眉が静かに顰められる。

「竜鱗騎士団団長、天藍アオイ――――参る!」

 衝撃波の輪を生み出しながら、地面の上を光速で滑るように走る。

 逃げるキヤラを追いかけ、柱の列に飛び込む。

 浮遊術の間合いのギリギリを飛翔し、地下空間を支える柱を切り裂き、力任せに蹴りつけた。

 さらに地面に降り立ち、両の剣が床を払うと切り裂かれたコンクリが結晶化し、轟音と瓦礫の波濤を引きつれてキヤラに向かう。

 砂嵐がやみ、崩れ落ちる瓦礫がふわりと宙に浮いて、そしてゆっくりと落ちて来る。

 時の流れが歪んだ砂色の舞台で、彼女は踊り子のようにつま先で立ち優雅に掌を差し出している。


「来なさい。あなたを、貴方が信じるすべての価値を終わらせてあげる」


 天藍は翼を広げ、剣を手に飛び込んだ。

 キヤラは魔剣を持つ手を持ち上げようとして、そうできないことに気がつく。

 視線をやると、その手に、そして杖に、銀の茨が絡みついている。

 吸血鬼の体が煙を上げ、熱に灼けたような傷が生まれた。

 茨は油断していた彼女の手から杖を奪っていく。


「――――何っ!?」


 引きちぎるのは容易い。だが起きたことを理解するほうが数倍難しい。

 銀の茨。

 これは、銀でできた茨なのだ。

 金銀を自由に操るその能力は、天藍の力ではない。

 オルドルの魔術によるもの、師なるオルドルにしか為せぬ技だ。

 力任せに叩きつけられた《牙折り》が床を割り砕き、破片を舞い上げる。

 その埃のむこうで、キヤラを見上げる白騎士の……その左の瞳が、紅く染まった。

「まさか。竜鱗騎士が青海文書を使うっていうの!?」

「それは違うよ」と、薄い唇が異なる声音を発する。「僕がわからない?」

 左手の牙折りが、金杖に変わる。

 オルドルの幻術でまやかしを見せられていたのだ。

 ただし、半分だけ。

「なんてこと。あなたなの? マスター・ヒナガ……」

「勘違いするな。半分、体を貸してるだけだ」

 次は天藍アオイの声が応えた。

「まさか……まさかだわ!」

 からくりを理解したキヤラが、嫌悪感に表情を歪めた。

 オルドルの魔術は血に宿る。日長椿の記憶も、魂も、全ては血の中にある。

 だから、彼は賭けたのだ。

 天藍アオイは死にかけの椿の体を食い千切り、残り少ない血液を竜の体内に入れた。

 誰にも奪われない頑丈な檻に隠したのだ。


「お姉様、逃げて!」


 起死回生を賭けて、柱の影から小柄な少女が飛び出す。

 盾をひとつ残したまま遁走したはずのアニス・アガルマトライトだ。

 彼女はキヤラを救おうと、鮫の神霊を放つ。

 だが、それはほとんど読まれ切っていた攻撃だった。最後の最後、ここしかないというタイミングの攻撃では、不意打ちの価値はない。

 鮫は竜鱗に引き裂かれ、ほぼ同時に黄金の剣がアニスを襲う。

「クソッ。ごめん、キヤラ姉!」

 天藍が翼をはためかせ、姿勢を制御する。

「これが僕の使う最後の魔法だ」と椿が言う。

「オルドルの魔術は通じないわよ!」

「残念だけど、使うのはオルドルの魔法じゃない。《あるところに美しい娘がいました。娘の名はサナーリア》」

 金の杖が震え、形を変える。

 現れたのは白い小さな十字の杖。

 それは、竜に踊らされ、哀れに死んだ娘のあの杖だった。

「何故!? 貴方がその魔法を使えるはずがない――!」

「サナーリアの心は……けっして己を省みない、無私の心」

 キヤラの否定も虚しく、紡がれた物語が魔法になり、魔法を生み出し、現実になる。

 家族を探してさ迷い、灰になったサナーリアの魔術は、《物質移動》の魔術だ。

「誰かを想い続ける献身。これが《彼女》の愛だ!」

 浮き上がっていた瓦礫や砂埃が、一瞬で別のものに変わる。

 虹のような輝きを放つ、無数のプリズムと、銀の欠片に。

 天藍が立ち向かってくる直前、剣を地面の下に向けていた。

 あれは金杖のほうだったとキヤラは気がつく。

 地面を見ると、椿の亡骸から腕と足が消失していた。

 代償を支払ったのだ。

 オルドルなら、必要なもの全てを地面の下に形成することができる。

 天藍が紅色の石を地面に放り、竜の魔力を流し込み、呪文を紡ぐ。


「竜騎装、《白鱗天竜》!!」

「《解放リベラシオン》っ!!」


 放たれた鉱石魔術の光条は空中に分散させたクリスタルに当たって乱反射し、収束しない。

 ゆえに、爆発は小規模にすぎない。

 即死しない程度の、幾百の爆発が、ごくわずかな時間差で巻き起こる。

 当然、塵の範囲にいる天藍もこの爆発に巻き込まれるが、竜鱗の鎧を纏えば耐えられる。

 だが彼女は違う――キヤラ・アガルマトライトは。

 吸血鬼の弱点である銀の一片の攻撃は避けられたとしても、ランダムに襲い来る全てを避けることはできない。

 彼女は傷つく。死ぬこともできずに。

 吸血鬼の再生能力が発動するが、関係ない。これは根競べだ。

「もう一回ッ!」

 それは僕の声なのか、それとも天藍の声なのか、わからない。

 同じ体に魂が二つ。でも、魔術を紡ぐ意志はひとつ。

 僕の代わりに、天藍が代償を支払うことになるが、マリヤがそうしたように竜の魔力が傷を癒す。

 何度でもそうして戦うつもりだった。

 魔力が装填される。

 発動する直前だった。


 目の前の光景に亀裂が走った。


 鏡を力任せに殴りつけたように、仮初の雄黄市が砕け散る。


 絡みついた結び目が解けるように。

 舞台の幕を引くように。


 城が消え、道化師が消え、全てが消えて失われる。


『真なる敵が目覚めタ……』


 やっと、長い悪夢が終わる……!

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