85 クレイジー・ジーニアス -5
クマ道化師玉はとにかく巨大だった。
道路の横幅を左右数メートルずつオーバーした玉は、一旦、ビルの間に挟まって停止した。
だが前進は止まらず、あろうことか先程よりも速い回転運動を行うことで速力を上げ、コンクリートを削り盛大に火花を上げながらこちらに迫ってきたのだ。破壊されたガラスやコンクリ塊が雨のように降り注ぎ、街路灯や車両やコーヒースタンドを踏み潰しながら迫って来る。
もちろん、逃げ惑う人々も、恐怖に引きつれた表情で巻き込まれていく。
「…………これって! 毎度のことだけどメチャクチャまずい!」
僕はオルドルの脚を借りて、車輛や人の波を飛び越え、とにかく逃げるしかない。
でもそうすればそうするほど、街は破壊される。
銀麗竜に破壊され尽した本当の雄黄市みたいに。
そして僕に失望した人々は、また、キヤラに期待して《共感》を高めるのだ。
「逃げるだけなの? マスター・ヒナガ♪」
行く先で、箒に腰かけたキヤラが一定の距離を保ってついてくる。
「オルドルから聞いていると思うけれど……こちらの能力は万能なの。神の領域よ♪ 望むものはなんでも手に入る。物理世界に出現させることができる……それがルレオリなの。いったいどうやって勝つつもりなの? さっさと降伏したほうが身のためよ♪」
「降伏はしないっ!」
交差点に進入する。その途端、右方向から別の球が襲ってくる。
銀の茨で車輛やトラックをかき集め、簡易なバリケードを構築。
さらに銀巨人を作成し、待ち受ける。
…………五秒ほどで、全てが巨体の下でプレスされてしまった。
こんなことを繰り返してたら、プリムラ先生の治癒術が台無しだ。
「しかも、なんかデカくなってる気がする!」
共感が高まったせいか、勢いも凄い。
ビルの足元を盛大に削ったせいで、その土台が揺らいで倒壊しはじめている。
嘘だろ。
あまりの恐怖に悲鳴も上がらない。幸い、倒壊自体は両者のビルが重なりあうことで止まったが、割れたガラスのシャワーが降り注いでくる。
「《昔々、ここは偉大な魔法の国》!」
茨を進路先の街灯に巻きつけ、急速に体を引き寄せて虐殺地帯から脱出する。
勢いあまって正面のショーウィンドウに背中から突っ込むハメになったが、ミンチになるよりはマシだ。
埃の中で目を開くと、地面に這いつくばる僕の上にズッシリとした質量が落ちて来た。
「みぃ~つけたぁ~っ!」
暗闇の中でもオルドルの瞳が敵影をくっきりと浮かび上がらせる。
肉感的な太腿に上半身を固定されて、ちょっと動きたくな――いや、動けない。しかも今度は本物の女性だ。
シウリは腰を浮かせて女豹のように顔の方へとにじり寄って来る。
「よくも妹たちをヤってくれたわね……一瞬で廃人になりたい? それとも私の魅力に溺れて一生性奴隷にでもしてあげましょうか。どっちがいいかしらね」
彼女はやけに鋭く長い、茶色のネイルが施された両手を見せる。
その先端部に薄くさり気なく、何かが塗布されている。
十中八九、毒であることは疑いようもない。
「ヤってません誤解です!」
「遠慮しなくていいのよ。どちらがいいかは選ばせてア・ゲ・ル」
彼女は両腕を突き出し、僕は手首をつかんで抵抗する。
しかし不思議なことに、彼女の体のにおいを嗅いでいるとそれが堪らなく魅力的な提案に思えてくる。そんなわけない。要するにフグの毒でこの世とオサラバするんだぞ。いやでも……ポジティブに考えよう。
キヤラほどではないが、シウリは魅力的な女の子だ。女性らしい肢体と、ふっくらした唇が堪らない。
「ちなみに、性奴隷って何をするんでしょうか!」
「特別に毒は弱めにして、意識のあるまま毎晩あたしの寝床に入れてあげる。そして屈強な男奴隷に後ろから突いてもらうの。ね、考えただけで震えちゃうほど最高でしょう?」
「なにそれ考えただけで涙が出て来るほど最低!」
お尻のピンチ! いや実際は尻どころじゃないが、想像するだけで本気で……。
これまで腕が飛んだり内臓食われたり色々辛いことはあったんだけど、これは最高峰に位置する辛さだ。
『――――ね? 魔女ってこんなモンだヨ。思い知った?』
「もしも僕がそういう運命を辿ったら、突っ込まれる瞬間に絶対お前と《共感》してやるからな」
『がんばれツバキ君! 全力で抵抗スレばなんとかなル、相手は女だロ!』
事態の重大さをようやく理解したらしい。
僕が死なない限り、オルドルだって僕から解放されないんだから、非常に汚い話で各方面に申し訳ないが尻の運命は一蓮托生だ。死なないのに死ぬよりひどい苦痛の予感がする。
「だけど、抵抗しろって言ったって……!」
たぶん、シウリはなんかの魔術を使ってる。
彼女がすごく魅力的な女性に見えて堪らない……ブードゥーの女神には愛の女神エジリというのがいる。彼女の魔術は恋愛成就に関するものも多い。もしかしなくても、それか!? 魔術に使う髪や血は向こうは手に入れ放題だ……あの晩餐会でひどい目に遭わされたからな。
ああ、かぐわしい彼女の香りに包まれて眠れるなら、それが彼女の望みなら……早まるな、自分!
理性と朦朧した自我の葛藤が、僕の中でせめぎ合い、腕の力がどんどん抜けていく! やめろ、どう考えてもロクな未来じゃないぞ。
「誰か助けて!」
「相棒にも見捨てられたじゃない、誰が助けてくれるっていうの」
シウリがおかしそうに笑う。
その通りだ。その通りなんだけど……。
りん。
鈴の音が聞こえた気がする。
「紅華……」
むせかえる薔薇の香りを思い出す。
生きていて、と、僕の生を願ってくれた。
僕でさえ、誰かが帰りを待ってくれているんだということを思い出す。
一瞬だけ……だけど、それで十分だ。
「僕は君の思い通りにならない。よくもテリハの家族をやってくれたな!」
強く、深く、彼の怒りを思う。
その瞬間、オルドルと繋がる。
魅惑をかけられているのは僕だが、オルドルは自由だ。
金杖が鳴り、魔力を放つ。そして掌から小さな石が零れ落ちた。
それは赤い石だ。酸化アルミニウムの結晶。クロムが混入することで赤色に染まる。
そしてインクルージョンとしてルチルが混じることによりアステリズムが発生し、赤色の煌めきに六条の白い星の筋が浮かぶスター・ルビーとなる。
サカキのものは没収されたが、イチから作り直すのならばルールは破ったことにはならない。
『金鹿の力を借りればカンタンなんだケド、ゼロ距離ならコレでいいよネ!』
僕はシウリの体を引き寄せ、両足で腰をガッチリ挟みこむ。
「そんな……ウソ、まさか自爆する気……っ!」
「《解放》!」
魔力が流し込まれると同時に腹部に膨大な熱量が発生、炎を上げて大爆発を引き起こす。
通常ならば、全身ひき肉よりも悲惨な事になるだろう。
熱と衝撃をやり過ごすと、あたりは瓦礫の山となっていた。
埃が立ち込める中、辛うじて勇気の盾に救われた体を引きずり、屋外に脱出する。
「天藍……は……!?」
こことは違うところで、爆音が発生する。
《天藍選手とキヤラ選手が激突~~~~!》
会場内にVTRが流れる。
再現された雄黄市の限界ギリギリの高さまで上がり、竜騎装を展開。そこから狙いを定め、キヤラに飛び蹴りを食らわせる天藍の映像が映し出される。
大雑把すぎる攻撃だが、対峙するキヤラは避けなかった。
ビルの屋上に陣取り、片手で受け止めるところがスローモーションで再現される。
天藍の蹴りはビルそのものを突き抜け、瓦礫を吹き飛ばして地上のアスファルトに広大なクレーターを形成する。
もちろん、受けた方は無事ではいられない。
左手は掌から肩まで引き裂かれ……血化粧に濡れてはいたが、キヤラは立っていた。
勇気の盾も減ってはいない。つまり、致命傷になっていないということだ。
彼女は尖った八重歯を見せて笑う。
引き裂かれた筋線維が、骨が、欠陥が、みるみる内に再生してゆく。
そして掴んだ天藍の脚を乱暴に振り回し、地面に叩きつけた。
「………っ。行かなくちゃ!」
音が聞こえた場所に向けて走り出す。
そのとき、カフスが光り、着信を告げた。
黒曜からだ。
《そちらはどうなっている?》
「見ての通りだ! お前と紅華は離脱したんだろうな」
《それが…………な。まだ会場内にいるのだ》
「なんだって!?」
修練場のほうの映像が、大宰相から送られてくる。
そこには、天律魔法で防御結界を張る紅華と、その中で暇そうに胡坐をかいている黒曜ウヤクがいた。
《彼女の魔術がお前を魅了の魔術から守る……。だからお前が帰ってくるまで粘ると言い張って動かない。なんとかしてくれ》
鈴の音が聞こえた気がしたが、気のせいじゃなかったんだ。
結界に道化人形がぶつかる度、紅い薔薇の花びらが散る。彼女は苦しそうな表情を浮かべている。
「なんとかって……どうやって?」
《勝て!》と苦痛の汗を額に垂らしながら、紅華が叫ぶ。《一刻も早く勝って帰れ!》
簡単に言ってくれる。けど、彼女がいてくれなかったら、僕はまた大変な目に遭っていた。
みんな戦っている。僕と一緒に、そして僕の知らないところで。
ひとまず合流だ。
僕は天藍のもとに急いだ。




