72 未だ遠き理想の王国
テリハはキヤラの望みを大筋のところで叶えてしまった。
マスター・カガチをテリハが足止めする、という構図を。
でも、それにしてもどうして……カガチの足止めをしたい気持ちはわかり過ぎるほどにわかるけど、それをテリハに任せた理由は謎だ。脅迫した時点では、裏切るかどうかは未確定。実際にイチゲは最後の最後でこちら側についてしまった。
裏切りの件だけじゃない。
これまでキヤラたちは魔術のプロフェッショナルである自分たちはいっさい動かずに他人を動かして来た。証拠を残せない、という前提条件があるからそれは矛盾しているわけじゃないけど、何かが引っかかるような気がする、というのは考えすぎだろうか。
「ツバキ。こちらで用意できることは何かないか。私は望まれぬ王姫だが、私のために命を賭ける男も少しはいるのだぞ」
紅華はこの上なく真剣なまなざしだった。が、冗談として受け止めておく。
戦力の増強を頼むことも、これまでにも少しは考えた。でもその人物は試合にエントリーした時点でキヤラが設定した無茶振り過ぎるルールと人形化のリスクを負うことになってしまう。優秀であればあるほど、代償は大きい。
「キヤラたちはこっちに向かってるの?」
紅華は首を横に振った。
「連絡手段は断たれたままだ」
彼女がそう答えた瞬間……だった。
会場に、黒服の男が飛び込んで来る。黒曜の使っている私兵のひとりだ。
「王姫殿下、キヤラ公姫より緊急通信です!」
「繋げ」
間髪入れず、劇場の設備だろう。
空中に巨大な女性像が投影された。
《はぁ~~~い♪ 紅華ちん。私よ~、みんな元気してた? あらぁ、ずいぶん減っちゃったのね。王子様がふたりだけなんて寂しいわね♪》
そこには平然と白々しい台詞を連ねるキヤラ・アガルマトライトがいた。
映像の中でも、彼女の輝きは色あせることがない。桃色の髪が輝き、ふっくらした唇が毒を吐く。
彼女はバスローブ姿で長い髪もヘアバンドでまとめ、しどけなくどこぞに寝そべっているポーズだ。心もとない着衣の裾から、はりのある太腿が露わになっている。うれしいけど……いったい何故? 誰向けのサービスなんだ?
「どちらにおいでです、殿下」と紅華が問う。
《んふふ、ダメよダメよダメよ、紅華ちん。劇場に仕掛けをしたでしょう?
これは女王国の未来を決めるための戦いなんだよ? そんな大事なコト、国民のみんなを抜きにできないと思うの!》
彼女は豊かな谷間を何故かぐっとカメラに近づけ、子供のように《イヤイヤ》をしてみせる。でもその裏で、とても邪悪な策略を巡らせるってわかる程度には、彼女の思考が追えるようになってきた。
《とゆうわけで、会場を別の場所に変更しちゃいたいなって思いま~す! 開始までに三十分以上の余裕を持って告知するなんて、私ってばなんて親切なのかしら♪》
「その変更は認められない。貴方がこの場を主張したのですよ、公姫殿下」
《一度は条件を飲んだから、今度はそっちが言うことを聞く番だ、という主張と交渉ね。でもどうかしら、この戦いのルールを決めるのは私なのだもの》
画面の中に黒いアイツが姿を現す。姿形が変わってしまったカリヨンだ。
紅華の様子をうかがうと、彼女はぞっとするような目つきでキヤラを睨みつけていた。これでもかというくらい唇を噛みしめ、紅の瞳は噴火寸前まで燃え上がり、視線が《ぶっ殺す》と言っている。全力で見なかったことにしたい。
《さて、あと五分でこっちに来ないと、そこの二人は人形になっちゃいます♪》
「五分!?」と声を上げたのは僕だ。
会場がどこに移動するにしても、時間が短すぎる。
《拒否しないわよね? あなたはしないはずよ、マスター・ヒナガ》
キヤラはそう言って、一冊の本を手に取る。文庫本サイズの大きさになった青海文書だ。ぞわり、と予感が背筋を下から上に撫でていく。
なんだろうと思う間もなく金杖が身震いするように震え、甲高い音を発する。文書が輝きをはなち、眩しい光が目に入った。
昔々、ここは偉大な国……。
闇夜に劇場が開くよ、オルドル。
あなたは鏡の宮殿に招待された。
昼と夜は逆転する。
ねむりにつく名前は秘密。
めざめるあなたの秘密は名前。
わたしはだあれ?
あなたはだあれ?
そんな語りの声が聞こえてくる。誰とも知れない、老いているようにも、若いようにも、男のようにも女のようにも聞こえる、重なり合った大勢の声だ。
誰かが近くで青海文書を使った。しかもかなり大掛かりな魔法を使った。
その力に《原典》が共鳴しているのだ。
「オルドル、感じてる?」
『ああ、青海文書のケハイがする。しかも今の今までぜんっぜん気配も感じなかったヤツがいきなりネ!』
「誰の読み手か、わかるか?」
青海の魔術は共感する魔法使いによって発揮される効果が違う。
どの登場人物の読み手なのかが推測されれば、それだけ不利になる。
『正しい名前を意図的に隠してるヨ。でもこちらの名前は割れてル……ということは、読み手はアイツしかいない!』
映像の中のキヤラが微笑んだ。
「きみなのか……?」
《じゃ、またあとでね♪》
彼女は立ち上がり、帯を解いてバスローブを滑らかな両肩の線の上で滑らせる。
脱いだ、と思ったが、そこにはきちんと服を着た彼女の後ろ姿が写っていた。軍服を模した黒地に金の刺繍の上着、それにピンクのミニスカート姿がちらりとうつり、通信がぶつりと切れる。
五分。キヤラがどこにいるかわからないのに、迷ってる暇はない。
「天藍、ノーマン副団長に連絡を入れて。彼女は僕と同じ青海文書を使ってる。今なら位置が観測できるはずだ」
「もうやってる」
彼は両腕の腕輪を外した。
遮断されていた白鱗天竜の魔力が彼の体を満たしていく。闇色の髪は色を失い、無垢な白に変化する。瞳は銀に、光を受けて仄かに輝きをはなつ。
剣を抜き、魔術を放つ。彼の背中には毎度おなじみ一対の翼が現れた。
「行くぞ」
伸ばした手を取ったのは、僕ではなかった。
重ねられたのは一回り小さい、きれいにマニキュアが塗られた紅華の掌だった。
「……何のつもりだ?」
「決まっているだろう、連れて行くのだ」
紅華はさも当然、という顔だ。
天藍が救いを求めてこっちを見て来るが、どうしたらいいのかなんてわからない。
リブラを連れて来るべきだった、と本気で後悔した。




