71 隠れ家 -3
狼男は極上の毛皮のソファへと早変わりしてしまったようだ。猫の目亭には哀れな犠牲者が折り重なって、その頂上につまらなさそうな顔をした天藍:人間モードが腰かけていた。
その光景はまるで、このまま犠牲者を積んで行ったら天上界に戻れないかな? と思案している天から落ちて来たアホな御使いのようでもあり、単なる猿山のボス猿のようでもある。ちなみに僕には後者に見える。
「竜鱗魔術も使わずに非人間を倒してしかも無傷って、お前は時代錯誤な神話世界の勇者か何かなのかよ」
「褒めてるのか貶してるのかどっちなんだ、それは」
どっちかというと、唖然としているのだ。
幸い、積み重なって意識を失っている人にしか見えない者たちもみんなニムエの眷属である吸血鬼なので、死んではいないらしい。それだけが救いだ。
あまりにも非現実的な光景を背後にして、ニムエは悲愴な顔で机の上のナッツを数えていた。その表情は羞恥と怒りが混ぜこぜだ。
僕を女にした罪は、これで帳消しにしてやってもいい。
さらにクヨウはひっくり返りそうなほど椅子にふんぞり返って座り、煙草をふかしながら、悪魔的な微笑みでニムエに訊ねた。
いや、この結果をもたらしたのは天藍の功績なんだけど。
「さて、それでは偉大な夜の女王、ニムエ殿。貴殿の従者グウィンが亡くなられた件について仔細お聞かせ願おうか」
とても《お聞かせ願う》なんて態度ではない。
ニムエは胡散臭そうな顔でクヨウを一睨みする。それから視線を逸らして会話を拒む。ミルクティ色の髪がさらりと揺れた。
「…………わしは、知らん。何も見てはおらぬし、聞いてもおらぬ。帰れ」
「ニムエ、何故そんな嘘をつくんだ」
ニムエの従者・グウィンを殺したのはキヤラ……そのはずだ。
彼女は腕を組み、クヨウを値踏みするような目で見た。
「この場で一番信用ならぬのは市警じゃ」
「クヨウ捜査官は、信頼できる人だよ……たぶんね」
ニムエは「どうだか」と言って、にべもない。
仕方なく、クヨウに退室してもらい、事情を聴くことにした。天藍がいれば、逃げられることはないだろう。
するとニムエは一転して、キヤラによる犯行を認めた。
そして、キヤラが誰かから血分けされた吸血鬼であることも。
「悪いが、わしも自分の命が大事なのじゃ。何年生きても生は生、しかも吸血鬼の長としてではなく呪術師に力を削られた小娘としてならば猶更な」
「名乗り出て法の保護を求めるつもりはないのか?」と、猿山のボス猿が問う。
ニムエは唾でも吐きそうな表情だ。
「学院のマスター・ヒナガは王姫殿下の臣下であろう。何故にこやつが一緒にいるのじゃ」
「それについては今のところ《だってこいつめちゃくちゃ強いんだもん》としか言いようが無いかな……」
それに僕は便宜上、紅華の騎士になっただけで、彼女に忠誠を誓ってるわけじゃないし政治的なことにも興味ない。百合白さんに対しては個人的な因縁が無いこともないけれど、そのことと《天藍アオイ》を同一に扱うのもヘンな気がしてる。
「で、この件に関しては、紅薔薇の騎士も竜鱗騎士団団長に同意するわけだけど、どうする」
「アホか。市警にはキヤラより強い魔術師も、わしを命がけで守ってくれる同族もおらぬ。市警の保護なんて紙切れより薄っぺらじゃ!」
「きみは誰より偉い《アルファ》なんだろ? そんなにびびって逃げ回ることなくないか?」
「わしが本調子ならな。それに、キヤラはグウィンより格下であった。じゃがグウィンは殺された。吸血鬼の血の束縛より、あの女の魔女としての素質が圧倒的に上回るのじゃ」
まあ、キヤラがやらなくても、五人姉妹の誰かがニムエにトドメを刺すだろう。
この国に来てみて思ったけど、魔法はとても人には御せない力だ。弱い者がよりあつまっても、より強い魔術を持った術者には敵わない。
「……で、あるからこそ、見逃されておるともいえるがな」
「ニムエ、仲間を殺したキヤラが憎くはないか? 僕と一緒に戦うつもりはない?」
安すぎる台詞だった。でも、本気の言葉だ。
「馬鹿者め。お主は戦いに行くというより、死にに行くようにしか見えぬ。そして死を受け容れているようにも見えぬ」
だから、お前とは行けない。それがニムエの出した結論だった。
引き留めている時間は無い。
天藍が護衛役をのしてしまったため、どうするのかと訊ねるとニムエはしばらく別のところに隠れている、と答えた。
残念だ。
天藍が猿山から下りてきたけれど、僕は間に割って入る。
「逃がすつもりか?」
「それじゃ、聞くけどさ。キヤラがテリハたちにしたみたいに、力づくで言うことを聞かせるつもりか? お前はテリハが弱いから、敵に寝返ったと思ってるみたいだけど……それはちがうよ」
向かい合った瞳は、竜の銀じゃない。青になってもまだ鋭い瞳だ。
「彼らは僕らとおんなじだ。テリハは弱くなんかないけれど、誰かを守ろうと必死になるとき、強さはどうしようもなく脆くなるものなんだ。……もしもキヤラが人質にとったのが百合白さんだったら、君はどうする」
青い瞳が僕への怒りに満ちるのが、ゼロ距離で感じられる。
天藍の求めるものは戦いだ。それだけだ。でも百合白さんは自分だけに忠実なこの騎士に「戦え」とは言わない。絶対に命じたりしない。――彼女は《天藍アオイ》を竜鱗騎士というシステムに人質に取られて、他の多くの魂を犠牲に捧げることを選んだ人だ。
「最後に聞かせてほしい。キヤラたちは強いのか?」
ニムエは考えるふうだ。
「わしが見たのはキヤラと、シウリとかいう女だけじゃが、強いぞ。それに……何か、妙じゃな。ただの魔女ではない。何か計り知れないものがある」
永遠に近い時間を生きる吸血鬼をして、《計り知れない》と言わしめるものがなんなのか、想像もできない。
「生きていればまた会いもするじゃろう」
そう言って、彼女は体を煙に変えた。クヨウは怒るかもしれないが、彼女を縛りつけてまで証言をさせることはできない。ミィレイみたいに、犠牲者の数が増えていくだけだ。
死を受け容れているように見えない、と言った彼女の言葉が耳にやけに強く残る。
それでも戦わなければいけないはずだ。
いま、この瞬間にも、カガチは、テリハは、イチゲは。みんな戦っている。
戦わなければ、こぼれ落ちていって無くなってしまうもののために。
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開始一時間前。銀華竜戦のときほどのプレッシャーは感じていない。
キヤラは情報を操り、人々を操ることに関しては天才的だが、竜やマスター・カガチの圧倒的な戦闘力に比べれば小手先だ。今すぐカガチとまた戦えって言われるほうが、胃痛で穴が開きそうなプレッシャーを感じる。
凛音歌劇場は押しかけた海市市民に取り囲まれており、厳戒態勢だった。
好奇心にかられた野次馬と、真面目な顔した野次馬によって埋め尽くされている。まるで人の大海だ。その中にはキヤラたちのファンだってやつらも混じってて、それから……雄黄市解放同盟の呼びかけによって集まった年齢も性別も様々な人たちがいた。彼らはじっと睨むように歌劇場を見つめていたり、口汚く僕らを罵ったり、横断幕を掲げたりと大忙しだった。
幕の文字を読んでみると、そこには『私たちの痛みを誰も知らない』と書かれていた。雄黄市を喪った人々の痛みと怒りは、たとえ同じ女王国の民であっても同じではないと言いたいのだ。
それは瓦礫の山と恐ろしい竜に支配され、この世の地獄と化した雄黄市にいた者たちの嘆きだ。彼ら、彼女らは《他の人々には絶対に理解されないだろう》という悲しすぎる孤立と推測によって立ち上がった。故郷を取り戻すのは自分たちだと。復讐をなすのは我々だと……。
あの人だかりの中に、あの日、翡翠宮で話した人たちがいるのだろうか。
もしもマリヤが生きていたら、あの中にいるだろうか。
彼らの怒号を聞いているのは二重にも三重にも痛くて辛い。
彼らが会場に侵入できないよう取り囲んでいるのは、市警ではなく軍人たちの仕事になっていた。市警もかなりおっかない武装を使うが、やっぱり格が違う。
さらに紅華の《天律魔法》によって何重にも結界が張られ、参加者以外は入れないようになっていた。
ここは茨の城だ。いずれの扉も締切同然で、空路を使っても侵入不可。徹底的に部外者を排除し、危険が及ばないように工夫されている。
『おまけに内部で起きていることは絶対に見聞きができないようになっているヨ。あのお姫様に花丸百点をアげなきゃ!』
紅華は紅色のドレスに痩身を包み、僕たちを待ち構えていた。円形劇場の中央に立ち、小さな鈴を携えている。
その周囲の何も無いところから紅薔薇の花弁が舞い散って、華奢な足下に降り積もる。胸の前で組んだ両手が優美な仕種で開かれた。律の音によって舞い上がった花弁は広い会場の隅々にまで届き、魔術による防御壁をより堅牢にしていく。
「紅華……」
声をかけると、彼女はゆっくりと振り向いた。
「着いたようですね、ツバキ、アオイ」
短い黒髪も、冴えわたる紅玉の瞳を目にして《懐かしい。もう随分会ってなかったような気がする》と感じている自分を発見する。
異世界からこの国に来て初めて目にした女王国の少女は、今でもいっさいの甘えのない厳しい表情で、目の前の何もない空間を睨みつけていた。
「マスター・カガチはいまも天河テリハと交戦を続けている。そちらの対処はあくまでも学院のこと、カガチ先生にお任せした」
彼女は切れのいい発音で端的に事実を告げる。試合開始にカガチが間に合う、という望みは捨て去ったほうがよさそうだ。




