66 日長椿殺人事件 -3
あの影は、もう追っては来ないようだ。謎の水音も消えている。
天藍が確認するが、竜の感覚器官にも引っかからないようだ。もちろん、キヤラのことがあるから安心はできないが……。
「いったい何が起きた?」
「詳しいことはまた…………」
後で、と言いかけた口元から、紅い液体が噴き出す。モロに限界だ。
天藍は僅かに眉を顰めると、突然裂けた首を無理矢理抑え込む。
そして翼を広げ、全速力で合宿所の方向に向かう。そこでも異常が起きていた。
駐車場で何かが起きている。爆発音と、炎……。
誰かがバスを取り囲んでいる。
その前に立っているのはマスター・カガチで、彼を二十人ほどの男たちが遠巻きにしていた。何をしているのかは朦朧としてきて理解できない。
カガチは僕を連れて飛ぶ天藍を見つけ、あからさまに驚いた顔をした。特訓のときよりはよほど、彼を驚愕させることに成功したらしい。
天藍は僕を連れてバスに乗り込む。
「先生! ……ひどい怪我だ。誰にやられた!?」
ウファーリが真っ青な顔で、血塗れの僕の体を抱き寄せた。続いてリブラが駆け寄ってきて、傷口に手を当てる。すぐに治療が始まるが、心安らかとはいかない。
この中の誰かが裏切り者なのだ。
「イネス殿、出せ!」
カガチが外から叫ぶのが聞こえ、バスのエンジンがかかる。
ハンドルの握るのは、行きの運転手ではなくイネスだ。
乱暴にバックし、直進。
取り囲む男たちの車に車体をぶつけ、道路に出る。
凄い加速だ。
リブラはその中で黙々と出血を止め、心臓を治し、全身の骨折を繋げていく。
その最中に、衝撃がバスを襲った。追い縋る車が体当たりを仕掛けてきたのだ。
「誰が追って来てるの?」
気を抜いたら眠ってしまいそうだ。リブラは淡々と治療を進めながら、出発時刻になっても僕が現れず、代わりに男たちがやって来たこと、彼らは《雄黄市解放同盟》と名乗り、匿名の情報を得て僕たちがここにいることを掴んだのだと説明する。
同盟とやらの目的は試合の妨害だ。
そして匿名の情報とは要するにキヤラのことだ。
彼らは救世主を翡翠宮から救い出し、そして雄黄市を竜から救うことを目的に掲げる市民団体、と名乗っている。
二度、三度と、連中は車体をぶつけて来る。
その度に治療は中断する。
天藍がリブラの体を支え、治療を続行させていた。
「余計なことを考えるな。奴らは与えられた餌に食いつくだけしか能がない当たり屋だ」
誰かに聞かれたらたちまち大炎上しそうな台詞を吐く。
カガチはバスの外を飛んで並走しているが、いくら暴力的だといっても市民に竜鱗魔術を使うことはできないみたいだ。できれば僕もそんな場面は見たくない。
捜索に散っていた天河たち四人が戻って来る。
飛翔しながら、窓ガラス越しにハンドサインで合図を送ってくる。ヒギリの表情が何かヘンだ。
天藍が素早く後方に背を向け、僕とウファーリ、そしてリブラを抱え込むようにする。
次の瞬間、激しい銃声とともに後部硝子が砕け散った。
キヤラは彼らに情報だけでなく兵器を与えていたらしい。対してこちらは何の装甲もない普通のバスだ。
銃弾がタイヤのひとつに命中し、バスが蛇行し始める。
激しい衝撃と爆発音がして、後部右側に大穴が開くまでは。
銃弾なんて甘いものじゃない。擲弾、グレネードだ。
「ね、燃料に引火したらどうするつもりだよっ!」
戻ってきたイチゲが、逆に相手の車のタイヤを狙い撃った。
後部がやっと静かになったのも束の間、今度はイネスが切羽詰まった声で怒鳴った。
「前方にバリケード、どうする!?」
仲間がいたようだ。前方に不審物があった際の鉄則は加速の後直進だが、相手が相手なだけに轢き殺すわけにもいかない。
「止まって!!」
バスは大きく後部を横滑りさせながら、車や鉄板のようなもので道路を塞ぐ者たちを下敷きにする直前で停まった。感謝されてもいいくらいなのに、彼らは横向きになった無防備な車輛の横っ腹に容赦なく銃弾を浴びせかけてくる。
薄っぺらな壁を突き抜けて弾丸が飛び込んでくる。
その多くはウファーリの海音で射線をゆがめられ、残ったものは天藍が僕らを包んだ結晶の翼が受け止めた。
銃弾を受けているというより、純粋な悪意を浴びせかけられているみたいだ。
すぐさま、カガチとサカキが車体横に周り、カガチは竜鱗の盾、そしてサカキは碧姉妹に使わせていた防壁魔術を張り巡らせた。
「イネス、生きてる!?」
運転手は地面に這いつくばり、こっちにハンドサインを送ってくる。
軽めの地獄、といった状況の中、銃弾の雨あられも意ともせずに、マント姿の騎士が後ろの大穴から入ってくる。黒鴉の仮面は、天河テリハのものだ。
「皆さん、ご無事ですか? ――天藍、この車輛は放棄する。二人一組で散開し、本日正午、現地にて集合するぞ。リブラ医師と――」
「拒否する。命令を受ける理由はない」
「緊急事態なんだぞ天藍、お前はまた、そういう強情を……」
いつも通りすぎる天藍を嗜めつつ、彼は治療を受ける僕に目をとめ、複雑な表情を浮かべる。
「マスター・ヒナガ……ご無事でしたか……」
苦み走った声。
リブラに抱えられながら、僕はオルドルの気配が意識の表層まで上がってきているのを感じていた。
『見つけたぞ、ゲス野郎。ツバキ――きみに《記憶》を返す』
再生の枷になっていると金鹿が判断し、一時的に取り除いた記憶。僕が《もう目覚めたくない》を考えるに足る根拠を、オルドルが解放する。
それは僕の脳内に画像となって投影され、床にぶちまけたコップから水が流れ広がるように恐怖と困惑が体全体に広がっていく。
あのとき、何が起きたのか……。
合宿所で僕は会った。どうしてこんなところに? と間抜けに訊ねる僕に、困ったような表情を浮かべるのを見ていた。
「試合に誰が選抜されるのが気になって、抜けて来ました」
「ああ、そのことか……実は、君に相談したいことがあったんだ」
そのとき、僕は嘘をついた。
「紅華から聞いたんだけど、実は女王府は今度の試合に適合率の高い竜鱗騎士を選出することを嫌がっているらしいんだ。つまり、マスター・カガチと――君と」
なんの根拠もない、全くの作り話だった。でも、瞬きもしないうちに僕は殺された。思えば兆候はずっとあった。ずっと妙な違和感があった。
どうして、と呟く声は自分でも驚くほど乾き震えていた。
「どうして裏切ったんだ、天河テリハ」
銃声が遠ざかったように感じる。
テリハは仮面の奥の瞳を、苦し気に歪めた。
そのとき、天藍が疾風のように動いた。車内の細い通路を走り、座席の背もたれを蹴って飛び上り、横に回転。結晶の翼をテリハに叩きつけ、続け様に前蹴りを食らわせる。
両手で受け止めたテリハの体が車体の外に放り出され――天藍がまた走り戻ってくる。
「退避っ!」
直後、目の前が炎に包まれた。
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テリハが燃料タンクを狙ったらしい。
爆発炎上した車体から、どうやって抜け出たのか、はっきりと記憶がない。気がつくと天藍に抱えられ、もうもうと煙を上げる車輛を眺めていた。
いきなり爆風を上げて炎上したバスから逃れようと、同盟とやらの人々も逃げ腰だ。
「リブラっ! ウファーリは!?」
天藍はカガチの元に降り立った。
イネスは自力で脱出したらしい。リブラやウファーリも無事だ。
カガチは吹き付ける炎の風の向こうを睨んでいる。
天河テリハは、爆風で半ば吹き飛んだバリケードをかばうように背を向け、その手前に立っていた。同盟の連中は、天河が味方かどうかを計りかねている態度だが、撃っては来ない。
「申し訳ありません。《家族》を人質に取られては、こうするより他に道はない」
空から、仲間たちと、仲間だった者たちが舞い降りる。
「…………考え直す時間を与えよう。武器を置いて投降しなさい」
カガチの声はまだ教師のものだ。
「家族を人質に……って、どういうこと……? まさか、キヤラに?」
「そうだよ」と答えたのはウファーリだ。
悪い予感がする。
予感なんてものじゃない。
「ここにいる全員だ」と、彼女はテリハを睨みながら続けた。
やっと、事態を理解する。そして遅すぎたことを悟った。
「動揺してはなりません。その程度は想像の範囲内です。脅迫状が送られて来た者には護衛がついております」
そう、カガチは言うが、だとしたら何故テリハは裏切ったのだろう?
誰よりも竜鱗騎士らしくあった、彼が。




