65 日長椿殺人事件 -2
山や森というのは人間が楽しい散策をするためにはできてない。どことも知れない谷底は藪で覆われ、暗闇の中、それらを掻き分けて移動しても、進める距離はたかが知れてる。野生動物とかもいるだろうし。
だが、この谷底に釘付けになったまま、無為に時間を過ごして死ぬなんてとんでもない。自分ひとりで脱出できないのならとにかく現在地を把握して救援を求めるしかない。……なるべく敵ではない人物に。
『幸いここは森の中。ボクの得意な領域だ』
「でも、やたらと魔法を使うワケにはいかないよ」
『今のキミに魔法は要らない。よく御覧よ』
暗闇に目を瞬かせると闇に陰影が浮かび上がる。視界に入らないはずの遠い場所までもが《見渡せ》る。木々がどこにあり、地形がどうなっていて、空にどんなものが飛んでいるのかまで感覚で理解できた。それは人ではなく、獣の視界だった。
「お前に食われた目玉の正体がこれか?」
『それを言うならキミが食べたボクの目玉の正体だヨ。ボクはちょっと、金鹿に文句つけに行ってくル』
「えっ、僕をひとりにして!?」
『記憶を取り戻さなければ、どのみち敵に裏をかかれル。キミはキミで上手くやれ』
オルドルの反応が消える。
これで闇の中にひとり……いや、もともとひとりだったわけだけど。違和感に首元を撫でるとうっすらと血がついた。やばい。思ったより時間がない。
とにかく、合宿所の方向へと歩き出す。
腰のあたりまで生い茂った藪をかき分けながら進みはじめてすぐ、足の裏を鋭いものが刺さった。
「うっ……そだろ、おいおい」
靴が無い。投げ落とされたときに脱げたらしかった。
折れた木の枝を引き抜き、気休めではあるもののハンカチを巻き付けて処置。
合宿所まで、おそらく直線距離で二十キロほどだ。人間の歩行速度が時速四キロほどだから、ざっと五時間。障害物さえなければ夜明けまでに到着できる。
だが体中が妙に痛くなってきた。もしかすると、谷底に転落した負傷も《戻ってきている》のかもしれない。
そのとき、オルドルの視界に飛翔するものが入り込んだ。鳥みたいな小さな生き物ではない。たぶん、竜鱗魔術師の誰かがいなくなった僕を探しに来たに違いない。
咄嗟に木の影に隠れて息を殺した。
考えたくないけれど、合宿所の中には裏切り者がいるかもしれない。
僕を殺し、この谷底まで運んで来た人物。そしてカガチやサカキを出しぬくことができるとしたら、それは……。
ルートを変えて木々の生い茂ったところに踏みこむ。
妙な音が背後から聞こえた。
――――ざぶん。
何かが水に飛び込むような音だ。
おまけに、うっすらと――魔力の流れが見える。
それは木の葉の間を漂うほんのかすかな靄になって、オルドルの紅い瞳に写りこんでいる。
まさか、罠? 後ろを振り返ると、真っ黒な影が勢いよくこちらに迫ってくるところだった。
「うわッ!」
慌てて避ける。こういうときのコツは、避けた後のことをあまり考えないことだ。
木の根っこに背中を強打したものの、致命傷は避け……たかに見えるが、右肩に鋭い痛みが走る。服が避け、血が滲んでる。
影は再び、ざぶん、と音を立ててどことも知れない闇の中に消えて行った。
ざざざざざ……という音が森の中を走る。
僕は飛び起きて走り始めた。
「まずい、まずいぞ……! このままだと、本当に殺される」
木々の間を走っても走っても追走してくる。
助けを呼ばないと。でも、誰を、どうやって? 確実に敵ではない誰か……まず候補に挙がるのは部外者。金で買われそうなイブキは問題外、ウファーリ……がまっさきに候補に上がるけれど、イチゲとのトラブルの余波を受けて僕の株はガタ落ちなので、他にしたい。
「あいつ……しかいないかぁ……」
ざぶん、と間近で水の跳ねる音がする。
頭の中の地形図を読みながら、走る。
合宿所は遠ざかり、訓練で使っていた場所のあたりに出る。
水音がする。沢が近い。
「ええい、いちかばちかだ」
ポケットから、リストバンド型の追跡装置を取り出した。
落っことしてなくて助かった。もう使わなくなったものだけど、設定はそのままのはずだ。腕にはめて、電源を入れる。
その瞬間、相棒が近くにないことを示す警告音が鳴り響き、軽い電流が流れる。
「いった!!」
影のほうはというと、しつこく追走してくる。
無いはずの水が跳ね飛ぶ音がして、背中に衝撃が当たる。
「――――っ!!」
悲鳴を押し殺す。
叫んでもしょうがない。痛いものは痛い。でも死ぬよりはマシだ。
崖に添って白く細く滝が落ちている場所に出た。
気分はシャーロックホームズだ。
「来い……!」
それは願いであり、悲鳴でもあった。
「来い、天藍っ!!」
ざぶん、と幻想の水音が鳴り響くのがアラームに混じる。
それと、崖下に向けて踏み切ったのが同時。
背中の上を、やけにはっきりと感じられる影の質力が得物を捕え損ねて抜けていく。
落下しながら、振り向くと、そこには月光の下でぬらりと輝く影の正体があった。
あれは――……!
それを言葉にする前に、はるか天空から凄まじい速さで落ちて来た一羽の鳥――白い鳥が、僕を受け止める。僕も必死に、その体にしがみつく。
「…………前も言ったけど、僕のことを助けるのが趣味だったりする?」
翼を忙しなく動かし、上空に向けて離脱しながら、銀色の瞳が三日月の形に細く眇められる。
「声が聞こえた」
「僕の?」
天藍アオイはさらに上空を指差し、くるりと円を描いた。
どこかはよくわからないものの、とても肉声の聞こえる距離ではなさそうだ。
でも、竜鱗騎士はびっくり人間だから仕方がない。
なんだ。それじゃ、腕を焼き焦がしたのは無駄だったってわけだ。




