番外編6 医師と黒曜石
一葉の写真の中に、ひどく美しい女が眠っている。
閉じた瞼の白さはまるで真珠、陶器のような肌は長い闇色の髪を背景にぼんやりと光をはなつかのよう。柔らかく丸みを帯びたしなやかな体は確かに女であるはずなのに、薔薇色に色づいた頬は少女のようなあどけなさだ。
彼女はまるで夢か幻、あるいは物語に描かれた妖精のように儚い。
しかし腕や胸に繋がれた無数のコードや管が彼女が現実のものだと知らせ、深すぎる眠りについているのだと物語の末尾に悲劇を記すのだった。
「君、火は持っているかね」
黒曜ウヤクに訊ねられ、リブラは歪な顔で「いえ、喫煙者ではないので」と否定するのがやっとだった。
触れずとも指先を裂きそうなほど鋭い視線が、明らかにただものではない女の写真をじっと見つめているだけで、車内の温度は二度か三度は下がったような気がしたくらいなのだ。なにも知らずに健やかに眠っている椿少年が少し恨めしい。
「その……なんと言っていいかわかりませんが……」
リブラは声を発して、それが利口な選択ではないことに気がついた。合宿所まではまだかなり距離がある。
「気を遣ってくれなくて結構。彼女は私の母親だ。そして治療の見込みはない……あるならもっと早く君に相談している」
母親。写真の中に写る美女の肩書としては、もっとも意外なものだった。
「……生き別れたと聞いておりましたが」
「そう、まさしく生き別れだ。だが私をこの国に縛り付けておく人質として、黒曜家前当主が彼女を攫い、隠した。その場所は未だに知らない――探し当てたとは、大魔女の名は伊達ではないな」
写真には、他の者たちと同じくレンブとアニスの姿が写っている。
これは、キヤラから送られた脅迫の写真なのだ。
椿と同じく異世界人だが、滞在が長く地位も権力も有するため、弱みがひとつもないとは言い切れないだろうと考えていたがまさか。
「重ねて言うが、気遣いは無用だ。君のところにも脅迫は届いているだろう」
「ええ……遠縁の者ですが」
「彼女は死んだ。放っておいても二度と目覚めぬ眠りについた者を、生者とは呼ばない。ただの肉体に執着する道理がない」
黒曜は写真を丁寧に破り始めた。リブラは反射的にその手を掴んで止めていた。
「……だとしても、それは御母上の写真ではありませんか」
彼は見えぬ目をそっと閉じ、ため息を吐いて、再び開く。
「玻璃・ブラン・リブラ、目の前にいるウヤクという者は、お前だけに写真を捨てさせる男ではない」
しばらく、一葉の写真を粉々に砕く音だけがした。窓を開け、白いごみが風に流れていく。すべての過去の欠片が去ってしまうと、彼はまるで何も無かったかのような無表情だった。
何もかもを女王国に捧げた大宰相は、傍らから薄い封筒を取り、リブラに手渡す。
「これを、椿が目覚めたら渡してほしい」
「中身を確認してもよろしいでしょうか」
「構わない」
取り出したものも、引き伸ばされた荒い画質の写真であった。
ひとりの少年が写っている。
容姿はごく普通としか言いようがない。不細工というのではないが、印象が薄く、道を歩けば溶け込んで見失いそうなほど凡庸だ。
体躯は痩せていて小柄、肌は白く、印象的な黒髪は椿や黒曜を思わせる。
ただその四肢は千切れ、胸から下は焼け焦げた大地の別の場所に転がっていた。
内臓に深刻な損傷を受けていることも見てとれた。
「彼の名はシロネ。母親の家名はバナディナイト。キヤラたちの弟にあたる」
「………惨い」
傷口からその痛みや絶望を再構成しているのだろう。青年医師が噛みしめた言葉の向こうで、黒曜は苦笑していた。
シロネは既に死者であり、死の原因となったのが黒曜ウヤクであるからだ。
「何故、このような結果になったのです?」
「何、簡単だ。彼の亡命は女王国を含む三ヶ国の協議の末に行われたこと。裏切り者がいただけのことだ。キヤラと戦う上で、何が切り札になるかわからない。念のために開示できる情報を全て渡しておく」
隠された王子の情報は、華やかなキヤラ・アガルマトライトのそれとくらべ限りなく薄っぺらだった。父親の名は隠されたまま、母親の元でほとんど一般人とかわらない養育を受けていたことがうかがえる。学校の成績はやはり平凡で、魔術教育をうけた痕跡もない。
おそらく、シロネ以外にも藍銅公王の隠し子は数多くいるだろう。
才気溢れる若者は他にもいたはずで、何故、シロネがキヤラの気を引くにいたり、亡命の手続きまで取らせたのか、その理由は書類のどこにも書かれていない。
「キヤラが女王国を狙った理由は、この件にあるのでしょうか」
「あの女は私と同じだ」
「どういう意味でしょう」
「写真を真っ先に捨てる女だ、という意味だ。執着は弱みに繋がる。生きているときならともかく死体になった男など――だから、何かがおかしい」
それが何なのかが見えない。
そう言って、黒曜は厳しい顔つきで前方を睨んでいる。その眼差しの先で凶悪な魔女たちと死者、異世界の救世主や騎士たちが複雑に絡み合い、血を流しながら戦う様を幻視し、若い医師は我知らずに震えた。その眼差しの先にあるものはかつて自分が赴いた残酷な土地のあの物語の続きであり、シロネの写真のように、あるいは黒曜の母親のように締めくくられるかもしれない結末なのだ。
せめて今だけは、いい夢を。
座席を占有しながら眠る十五歳の少年の目蓋に触れ、眠りの呪文をかける。
どうか安らかでありますように。
痛みもなく、苦しみもない時間が、出来る限り長く続きますように。
切なる祈りが踏みにじられる予感をさせながら、車は夜の道をひた走る。




