57 英雄の条件
「イチゲさん……ちょっとだけ男に戻ってるよ」
「戻りもするよぅ、なんなの先生、異世界人ならそうだって言えばいいじゃない。なんかさぁ、そういうの、かっこいいじゃんか! 先輩には負けるけど隅に置けないぞ~ぅ!」
やたらテンションが高い女装男子が、腹のあたりをグーで殴ってくる。ホントにかわいい女子なら愛らしいじゃれあいなのだが、相手は天藍に匹敵する適合率の竜鱗騎士である。生命に関わる。
「げふっ……。もしかしてあれか、翡翠宮のデモのこと言ってたりする?」
「当たり前じゃん。悪いけど、これはチャンスだと思うよぅ」
「チャンス?」
「そ。英雄になれる最後のチャンス」
「英雄?」
あなたは英雄になるべきなのよ、という声を思い出したが、無視。
あれは不安定な精神状態と、オルドルの介入がもたらした幻覚だ。
「英雄の条件って知ってる? カガチ先生曰く《戦場に間に合う》才能らしいんだよ」
どきり、というか、ぎくりとした。マスター・カガチの言葉は、いつも天からの啓示みたいに降ってきて、痛いところを突いてくるんだ。
「戦いにまつわる天賦の才能を持って生まれる才能は、意外と多い。千人の戦士がいたら、百人は大天才だ。でも彼らのほとんどは英雄にはなれず無名のまま死ぬ。なぜか? 戦いに間に合わないからだ。相応しい戦場が無い、あるいは謀略によって戦場の外で命を散らす――英雄は天がもたらす」
イチゲは可愛らしい声音でカガチのモノマネをしている。
意外と似てるので、自然と苦笑が浮かぶ。内心は複雑だ。竜鱗騎士たちは雄黄市壊滅という悲劇に間に合わなかった。先代王姫、星条百合白が騎士の派兵を拒み続けたせいだ。
ふと気がつくと、イチゲの硝子玉みたいな瞳が僕の間近にあって、こちらを覗き込んでいた。
呼吸と呼吸が近くて、部屋が薄暗くて、なんか変な空気だ。
「先生、おねがい」
甘えた声が肌を撫でていく。
そんな声を聞くのはテリハだけだろうと思ってたのに。
「先輩やヒギリたちを英雄にして。そのためならなんでもする」
「な…………なんでも、とは」
「文字通り、なんでも」
魔女ともちがう。かといって男ともちがう。僕が「じゃあここで死ね」と言っても「うん」と答えて笑いながら死んでしまいそうな、ひりつくような真剣さが、そこにあった。
なんでだろう。キヤラとの戦いが、それほど彼らにとって切実なものなのだとは、どうしても思えない。
女王国のため、という側面はある。でも学生である彼らにとっては、これは巻き込まれた戦いであって、己の生命を守るための戦いなのだ。
なぜ、そんなに真剣なのだろう。
テリハたちを英雄にして、というのはどんな意味なんだろう。
「ねえ、おねがい」
甘い声音が、背筋に電気を走らせ、思考がまとまらない。
「…………考えとくよ」
僕はイチゲの体を押しのけ、ベッドから抜け出た。眠気はもうほとんどない。
「僕が寝てる間に何が起きてるんだ、いったい……?」
体調は最高にいい。寝不足や合宿の疲労も完全に回復しきってる。……なんでかはわからないけど。考えても、魔術通信網に接続してからこっちの記憶がうまく思い出せない。
不吉な予感がする。状況もわからないまま、とにかく扉を開ける。
一歩踏み出した途端、人の気配があって足が止まる。
まず、赤くて長い髪が見えた。
そしてこちらを恨めし気に見上げてくる、金色の瞳も。
「……何か弁解は!?」
「べ、弁解?」
「勝手に一人で行って、勝手に死にかけた弁解だ!」
瞬間、雷光の速さで飛来したビンタが僕の左頬で炸裂した。
痛い。
*****
ミィレイの世界で、僕はオルドルと分かたれていた。それは最早懐かしいとさえ言っていいような感覚だ。自分の中にいるのが自分ひとりだなんて、素晴らしい贅沢だ。なのに、途中から記憶が飛んでいる。
最初はオルドルに乗っ取られたのかと思った。
でも、なんだか、それも少し違う気がする。
すごく似てはいるんだけど……。
オルドルが僕の体を使うときは僕の心は彼と完璧に溶け合っている。オルドルが僕であり、僕がオルドルになる。青海の魔術の究極の形だ。
昨日の晩、何が起きたのかについてクヨウ捜査官から簡潔なメッセージが送られてきていた。
《ミィレイは意識を取り戻した。》
《だが長時間の意識の拘束と肉体からの離脱という精神的拷問により、実生活に戻るには支障を来している。》
たったそれだけ。もちろん、不自然すぎる。
もちろん、ガレガに達する手がかりも無し。夢の中でガレガの姿を見たはずだが、あれは別人が乗っ取られた姿だったそうだ。
「オルドル、何かしたのか?」
『なになに? なんのコト? ボクわかんない』
コップの中の水からは、わかりやすく誤魔化すオルドルの声が聞こえた。
「惨澹たるありさまだな」
同じ報告メールを閲覧した天藍はそう評した。もちろん……オガル先生にはとても報告できそうにない戦果だってことは、自分自身でよくわかっている。
「僕のせいだ」
「先生のせいじゃないだろ。マスター・サカキは人形のまんまで、他に候補はいないんだから」
慰めの言葉を口にするウファーリは、怒ってビンタをかましてきたときとまったく同じぶっきらぼうな表情だった。腫れた頬がじくりと痛む。
「一応弁解するなら、別に勝手に行ったわけではないよ」
足がないので、送って行ったのはイブキである。彼女は僕の行き先を確実に知っていたはずだ。ただ、何をしに行くのかは伝えなかったが。
キッチンの方を覗くと、イブキはさっと隠れてしまう。
竜鱗騎士でも、怒ると何をしでかすかわからないウファーリのうらみを買うのは嫌なものらしい。僕としても、誰が悪いとかそういうことを言いたくはないけど。
「……次の手を打たなくちゃ。合宿の残り時間も少ない」
ミィレイのことを後回しにしてそう口にすると、自分がひどく冷たい人間になってしまったような気がした。
「また無茶するつもりじゃないだろうな」
ウファーリが睨む。
「今回のことはどちらかと戦いを回避するための作戦だった。でも、上手いこと躱されて被害が出ただけで終わった……。だったらもう戦いは避けて通れない」
戦わなければ何も得ることはできない。その通りになってしまった。
「さし当たって天藍、協力してもらいたいことがあるんだけど」
相変わらずというかひとりだけというか、傍目には何の悩みもなく、ただひたすら《美しい》という言葉の純粋無垢な結晶であるかのような顔で朝食を頬張る白騎士が、ひどく嫌そうな顔をした。
「構わない。だが、自分のことは何とかしろ」
食堂の扉が開いて、テリハたちが入ってくる。
イチゲはにこやかに微笑んで手を振り、天河やナツメは完全に無視。
ヒギリは立ち止って僕をピンポイントで睨み、椅子を蹴飛ばしてから席に着いた。
イチゲは僕のことを知っていた。抗議活動のあの場で何が起きたのかも。
天市から離れたこんな場所でも、人の口に戸は立てられない。
よく考えたら、ウファーリだってそのことを知っているのかも。でも何も言わないでくれてるんだ……。
もしかしたら、僕は魔術学院の教官じゃなくなったのかもしれない。
ここにいる僕は、ひとりぼっちの異邦人なんだ。




