55 ワットウィルユア・プレジャービー? -2
「卑怯もの」
マリヤはそう告げて可憐な花のように微笑んでいた。
あまりにもリアルな夢だった。
輝かしい金色の髪も、瞳に宿る知性の光も、彼女そのもの。今にも触れられそうで、ここが誰の夢の中なのかということさえ忘れてしまいそうだ。
「僕はこの国の人たちのために何かしたかっただけだ」
「そうして自分を犠牲にしても、貴方は英雄にはなれないのよ」
「英雄になりたいわけじゃないよ」
「そうじゃない。むしろ貴方は英雄になるべきだった。これ以上、己の不実さで戦いを汚すべきじゃないと言っているだけ。私は最後の選択だけは間違わなかった。貴方はどうなの?」
マリヤは静かにこちらを見つめている。
足元には崩れた工場街がある。錆びた風が吹く。
これは僕の夢だ。
*****
青い地の上着に金の刺繍。
まだ少年のような顔立ちは学院の最年少教官マスター・ヒナガのものだということに男は瞬時に気がついた。天才の称号を塗り替えた天才。竜殺しにして王姫殿下の薔薇の騎士。
翡翠の王国で最も魔術に優れた魔術師が、ミィレイを救うために現れたのだ。
だが――男の目には、それが正しい存在のようには映らなかった。
人の形をし、服を着ているが、その紅色の瞳は何も見つめてはいない。
ただ虚空に向けられているだけだ。まるで人形のようで、隣にいる闇から生まれ出たかのような使役魔のほうが、生々しい気配があるくらいだ。
彼は教え子を救うという大義のために働いているのに、正義を為そうとかそんなことはかけらも考えていない、そんな雰囲気だった。
ではなぜここにいるのか? それは誰にもわからない。
けたたましい悪魔の哄笑と、殺せ、と叫ぶ物語の登場人物たちの叫びが共鳴する。
「さあやろう、ツバキクン。ボクらの万能を証明しよう! ――んンッ?」
調子のいい口上の終わりが疑問符に変貌する。
オルドルの紅の瞳に、異様なものが写っていた。地面から伸びた銀の茨がオルドルの腕に食い込んでいる。
「……あれれ、参ったナ」
次の瞬間、地面が砕け、同じく銀色の巨大な花が現れる。花弁には不整合な牙がついている。
花はオルドルを頭から飲み込むと、鮮血を噴出させた。
獣の血が青白いガレガやミィレイの顔にも降りかかる。
殺せ! と大合唱が続いている。
この空間はガレガが用意した罠だ。使役魔が得意げに告げたように、ミィレイを殺すしか、ここから生きて現実に帰還することはできない。泣き叫ぶ娘に対して罪悪感が無いわけではないが、背に腹は代えられない。男の手に銀色のものが閃く。
次の瞬間、背から腹までを抉られ、ミィレイは悲鳴を上げて崩れ落ちた。
「悪いな、俺は現実に戻る!」
銀色のナイフが何もない空間を引き裂く。三角形に切り開かれた空間の向こうは、最初に入った何の変哲もないマンションの一室だった。
金色の杖がゆっくりと持ち上がる。
それと、男の伸ばした腕が上空から落下してきた質量に圧し潰されるのが同時だった。
「――――うグッ!」
厳密には、そこに痛みはない。
折れた腕を乱暴に引き抜くと、バキバキと音を立てて骨が折れ、血肉を引きずって千切れる。
ここは空想を現実にする魔法使いの力のみが存在している世界であり、落下してきた本棚に潰されれば骨が粉砕されるだろう、というリアリティだけが存在している。
それに対して男には痛覚を遮断する技術があった。
それは《これは夢だ》と認識する能力、と言い換えてもいいかもしれない。
これは夢だから、肉体は傷つかない。絶対に……そう信じる心が、他者の意識から己を隔絶する防護壁になるのだ。
だが、その本棚はあまりにも現実じみていた。
詰め込まれた本は色形ともに脈絡なく、読めない言語が用いられている。収納されているそれらに真新しいつやのある表紙などかかっていない。どこかくたびれて読みクセがつき、陽に灼けていて破れがあるものが混在している。
そして本棚自体も傷のひとつひとつまでもが、まるでどこかにあるものをそのまま移し替えたかのように存在しているのだ。
「…………クソッ!」
男は本棚に向かって刃で切りつける。
しかし刃はその表面に食い込むことすらなく弾かれた。
ここは誰にとっても他者の意識の中だ。経験からいくと他人に取り込まれている間に、他人の意志を防ぎ、現実の物理法則を無視するほど強い想像力を働かせることはできない……はずだった。
轟音を立てて、周囲に同じ本棚が落ちて来る。
気がつくと市松模様の地面も本棚にすり替えられた。床の上にはベッドと学習机、地球儀やボールが乱雑に転がっていて、これが少年の心象風景の再現だということは明らかだが――どうすることもできない。
ここからは逃げられない、という、ぞっとする絶望感がこの場を支配している。
黴臭いにおいが手足をその空間に縛り付け、体がひどく重たく感じられた。
「――と、取引だ! お前たちはガレガの情報が欲しいんだろう!?」
男が叫ぶ。部屋の中心でぼんやりとしているマスター・ヒナガは、その声を全く聴いていない。
ひんやりとした空気が肌を撫でる。
背にした本棚がパキパキと音を立てて氷に包まれ、一瞬で砕ける。その向こうから、銀の枝葉が溢れ、大量の水が雪崩れこむ。
マスター・ヒナガが杖を向け、再び落下してくる本棚を、長い爪の細腕が受け止めた。人食い花に食われたはずのオルドルが、茨の中から戻って来る。
「冷静に考えて、姿そのものをガレガにされてることにも気がつかナイお前からほしい情報なんて無いケドね~」
男ははっとした表情を浮かべて華奢な両手や肉体を見回している。
「お前たちは何者だ、これが本当の魔術師の力なのか……?」
「冥途の土産に教えてあげるけれど、想像力を現実にする能力の持ち主は二種類あるんだ。ヒトつは魔術師。もうヒトツが――《狂人》だ。上を見て御覧よ、おじさん。怖いものが見えるヨ」
無事だったはずの空がさっと翳る。
また本棚かと見上げると、そこには巨大な瞳があった。長い髪がだらりと垂れ、肌は血色に汚れている巨大な女が、こちらを見下ろしているのだ。
つばき、ここにいたのね。
「――――か、母さん…………」
その言葉は、男の唇から漏れた。
それが最後だった。
女は身を引くと、輝くものを振り上げ、力任せに振り下ろす。
硬質な破砕音が、絶叫に聞こえた。




