53 夢の中へ行ってみたいと思いませんか?
気がつくと、知らない家の玄関にいた。
靴箱には女性の靴と男性の靴が混在してる。壁に家族写真がかけられていて、ここがミィレイの家なんだとわかる。視界は鮮明で、手を伸ばした陶器の置物の感触まできちんと感じられた。無いのは嗅覚だけだ。
《――――聞こえているか、マスター・ヒナガ。段階を踏んでいる時間はない。五感を全解放するぞ》
どこからともなくクヨウの声がして、次の瞬間、何か透明で重たいものがどっと体に流れ込む感覚がして、強い吐き気が襲ってくる。それを数秒堪えると、知らない家独特のにおいが感じられてくる。
グルグル回る視界の焦点がひとつに合わさって、廊下の壁に並べられた家族写真に合う。ポニーテールを揺らしながら、ミィレイがこっちに微笑みかけてきていた。
感覚がひとつ加わるだけで目の前の光景は《もの凄い再現度のゲーム空間》ではなく、現実そのもののように感じられてきた。ここが現実なのか、そうでないのか、そのちがいがどこにあるのかの区別はおそらく不可能だ。
でも、ここが魔術通信網の中。ミィレイの中なのだ。
そして僕が感じている《僕自身》は、肉体から切り離された《意識》っていう、ひどく曖昧なものでしかない。
《待たせたな》
肩を掴まれ、痛みが走る。見ると一羽の鴉が肩に留まっていた。
「うっ。クヨウの式神か……」
クヨウ上級捜査官は式神にピンを打ち込み、間接的にこの世界へと接続している。
五感を共有することはできないがナビゲートくらいはできるだろう、と鴉の嘴が語った。
「これ、どうやったらもとに戻れるの?」
《ミィレイを発見するか、もしくは危険が及ぶようなら薬物投与で強制的に覚醒させる》
「あ、そう……」
《不満かね》
不満は不満だ。すると袖につけていたカフスが輝き、空中に映像が投影される。それは現実の映像で、病院の待合室らしきところで悄然と項垂れているミィレイの家族が映し出されていた。
「――わかった、わかったから!」
導入はかなり無理矢理かつ勢いだったわけけれど、キヤラの犯罪の証拠を得たいってこと以上に、なんの罪もなくこんなことに巻き込まれたミィレイを助けたいという気持ちは人並みにあるつもりだ。
しばらくすると、どこかふわふわしていた手足の感覚が少しだけはっきりしてきた。両足で床を踏みしめる。スイッチに手を伸ばすと明かりがついた。
「うええ、めちゃくちゃリアルだな……」
《魔術通信網の世界は肉体の存在しない想像力の世界だ。言ってしまえば想像したものはなんでも存在し得る》
「本当に?」
僕はすぐさま金塊を思い浮かべた。すると宙の何もないところに、黄色の卵焼きのようなものが現れ、地面に落ちた。
あまりの重量に耐えきれなくなった床に突き刺さっていた。
「金塊じゃ……ないね……」
《すぐさま金目のものを想像する浅ましさもさることながら、黄色い色と重さの他はあやふやなまま反映されているようだ。君、才能ないな。本当に魔術学院の教官か? ……いや》
努力家タイプなのだ、と弁解しようとした矢先、何かに気がついたようにカラスの瞳が細められる。
《そうでもないようだ》
僕の右腕がゆっくりと持ち上がり、その上にずしりと重く冷たく、小ぶりな延べ板が置かれる。
暗くて明るいなんともいえない魅惑的な艶のある光沢。
亡者どもが涎をたらして群がりそうな完璧な黄金がそこにあった。
しかし、僕の視線は、僕の右手を握っている青白く冷たい掌に吸い寄せられていく。
「魔法のランプを三回擦って下さったなら、これくらいのことならお安い御用で御座いますれば……ご主人サマ♪」
「オルドル!」
森の植物を染め抜いた美しい絹の衣装、黒く艶々した髪、紅い瞳、額の両脇から伸びた鹿の角。金杖を手にした対の存在が、そこにいる。
こうして実際に向かいあうのは二度目だ。
《それだけ詳細に使い魔の姿を具現化できるのなら、大丈夫そうだな》
と、クヨウが言った。
オルドルは肩を竦めて笑う。
「ま……そういうコトにしといてあげよウか」
「何しに来たんだよ」
「ひっどい言いぐさだなァ。キミを助けにキてあげたんじゃないか」
オルドルは小声になった。……事情があって、僕の肉体にはオルドルの血が流れてる。そしてオルドルは物語の登場人物としての性格を有したまま、肉体に宿ってる。
だから、ピンを強制的に刺されて魔術通信網に接続したとき、ふたりの精神が別々のものとしてこちらに来てしまったらしい。
なんて迷惑なやつだ。
オルドルはクヨウの式神に向けてパチンと指を鳴らした。
すると、鴉はぴたりと動きを止めて、地面に落下していった。
カフスから《なんだ? 通信トラブルか?》という声が聞こえてきた。
何をしたのか知らないが、クヨウとの連絡手段を絶ったらしい。
「キミはボクがいなきゃ魔術のマの字も使えないんだからね。なんなんだい? あのオムレツの出来損なイは。ひど~~~い、あんなのが許されるのなんて初心者までだヨ」
「しょうがないだろ、見たことないんだから……」
むっとむくれて顔を伏せた僕の胸を、オルドルの金杖がぐりぐりと抉る。痛い。
「ボクとの付き合いはけっこう長いのに~~~ダメダメだなキミは! 目で見て手で触れたモノしか再現できないのなら、魔術なんかに価値はナイじゃない」
そりゃそうだ。どんな手段でもいいのなら、人間にはモノをつくるっていう力があるんだから……そのあたりを省略できるからこそ、魔法に価値が生まれるのだ。
「さァ、諦めて、さっさと帰ろうヨ。ボクが導けば、外部の働きかけがなくても覚醒できるカラ」
「駄目だ。ミィレイを見つけるまで、僕は帰らない」
オルドルの言い出しそうなことは最初からわかってた。
でも、マスター・オガルなら、ミィレイを助けるために何でもしたはずだ。
彼は人形になってしまって、ここに来ることさえできない。
できる人間が動かなければいけないんだ。
「前も言ったよネ。そんな義務はキミにはナイ。ここで起きることすべて、キミには無関係だ」
「オルドル、お前は登場人物だからわからないかもしれない。だけど僕は人間なんだよ」
オルドルはじっと黙って聞いていた。
それから左右非対称の表情を浮かべて不満そうに鼻を鳴らす。
「人なら、心があるなら、誰でも彼女を救いたいって思うはずだ。彼女だけじゃない、誰かの役に立ちたいんだよ……意味のあることがしたいんだ」
銀華竜との戦いのあと、もう一度この国の人たちのために戦うと誓った。それが今だと思う。
彼に背を向けて、廊下を進む。
リビングや台所はひっそりと静まり返っている。
人の気配のかけらもない。
「ふん……まあいい。彼女の意識はガレガとやらに連れ去られタ。ここは空っぽの空洞サ」
オルドルが台所に現れる。机に腰かけ、椅子を蹴飛ばした。
市警の捜査で、ミィレイは気の合う仲間数人とともに通信網に接続していたと判明している。通信網の利用者には、それこそ数十とか数百とかいった単位の人たちの意識を受け入れる者もいる。そういうスペースを利用して、意識だけが集まる手軽な夜遊びをするのだ。
そういった遊び場は数えきれないほどあり、いったいどこで遊んでいたのかは、当然のことながら魔術捜査官の手が及ばないように隠されている。
現実と同じだ。家出した女の子の行き先は、友達の家に行ったのでもないかぎり、可能性が無限大で見当がつかない。
「大事なのは観察サ」
「観察か……」
僕は杖を手に持ち、精神を集中する。
オルドルの魔法を使おうとして、僕ははたと気がつく。
「そっか。今は肉体から離れてて、オルドルが僕の中にいないから全然魔法が使えないんだ……!」
オルドルがにやりと笑った気がした。
そこ、笑うとこか?
「かわいそうなツバキクンにヒントをあげてもイイけど~~?」
「いいよ、自分で探すから!」
とはいえ、プロでもダメだったのに、自分にできるとも思えないけど……。
確か、さっきの専門家は自室を捜索してたはずだ。
自分の大事なものを隠すなら、自室……と考えがちだが、それもないとなると、あとはリビングや台所、夫婦の寝室、弟の部屋、となる。もちろん、ヒントが残されてるなら……だけど。もしかしたら、行く先の情報は彼女の記憶の中だけにあった、とかなら最悪だ。
部屋をいろいろ見て回るが、ごく普通の家庭にありそうな当たり前のモノしかない。安っぽい家具や調度品、壁紙の汚れを塞ぐ飾り。ポートレートや、旅行の写真。
「……ええと、壁の飾りがやけに多いな」
じっと観察すると、絵ハガキなんかも混じってる。
こういう細かいものも、自分で想像して再現してるのだろうか。
つらつら追っていくと、台所で妙なものに行き会った。
「んっ……?」
冷蔵庫に貼りつけられた小さな絵葉書に古臭いイラストが描かれている。
エプロンドレスを着た幼い女の子や、帽子をかぶったウサギ、チェシャ猫に芋虫。
「これ、不思議の国のアリスじゃないか……? なんで翡翠女王国にこれが?」
天恵、という形で日本のものがこちらにもたらされることはある。
でもその場合、かなりの高額がつくはずだ。
見たところミィレイの家庭は普通の一般家庭、それも二人師弟の学費に圧迫されてる生活感がところどころに出てる雰囲気だ。天恵でもたらされた高価なイラストに興味を持つとは思えない。
「まさか……」
僕は恐る恐る、冷蔵庫の扉を開いた。
大当たりだった。
その瞬間、床が消え、体が宙に放り出されたのだ。




