52 金鹿の書 -2
「つまり、《吸血鬼》に転化している恐れがある」
きゅうけつき。
「それって血を吸ったり、煙になったり、血を吸ったりしている吸血鬼?」
クヨウはこちらを睨んで来る。ふざけてるわけじゃない、意味がわからないだけだ。だって信じられないだろう、ほかならぬ藍銅公姫であるキヤラ・アガルマトライトが吸血鬼だなんて。
尋常ではない身体能力を持ち、蝙蝠に変化し、人間の血を吸って死に至らしめる。
そして血を吸うことによって、血族を増やす……。
ノーマンはかなりこの説の正しさを信じているようだった。
「現状、結界に引っかからない説明をつけるとするなら、それが手っ取り早いんだよね。吸血鬼に変わってしまった人間は、細胞レベルで別の生き物につくり変えられる。キヤラであって、キヤラでないものになる」
だから、数年前の《純粋な人間であった頃》の彼女の毛髪を使って居場所を知ろうとしても辿れない。それは最早、ニンゲンだった頃のキヤラではない別人だからだ。
荒唐無稽に思えるが、あながち妄想とも思えない根拠もある。
彼女はこちらに来てニムエとグウィンに手をかけた。本国でまた別のひとりを殺している。恐らくそれがキヤラを吸血鬼につくり変えた誰かなのだろう。
吸血鬼に変われば人ならざる力を手に入れることもできるが、相応のリスクもある。それは吸血鬼独特の命令系統……というかなんというか。彼らは自分を吸血鬼に変えた者に逆らえない、という本能を持っている(と、日本で読んだオカルト大辞典には書いてあった。)
キヤラはこの命令系統から逃れるために上位の吸血鬼を殺そうとし、ニムエに逃げられたのだ。キヤラが命令に逆らえなくても、他の姉妹たちは違う。容易いことだったに違いない。
『ケド、不思議な点もある。吸血鬼になったから結界に引っかからナイ……これはイイ。でもキミの気配まで消した理由が説明がつかない。そうだろ? ツバキ……おおい、ツバキクン!』
オルドルに呼ばれて、顔を上げる。
クヨウが静かな病室の前でいきなり立ち止まったので、その背に追突する寸前だった。
予定はかなり狂ったが、ドアの向こうにはミィレイが待ち構えている。
扉は閉め切られているのに、悲しみや辛さが溢れてくるような気がする。
でも、今日はこのために海市まで出かけてきたのだ。
「両親には既に話はつけてある。医療での蘇生は不可能、と女王国一の名医が太鼓判を押したからな。藁をも縋る……というやつだろう」
「余計なことをしたかな」
「さあな。それはこれから決まる。お前次第だ、としか言いようがない」
クヨウは扉をひと息に開けた。
病室内には市警の職員数名と担当医、ベッドに寝かされたミィレイ、その家族が待ち構えていた。
本来は個室のはずの病室だが、今はミィレイのベッドの横にもう一台あって、その上で中年くらいの男性がうつぶせに眠っている。
彼はクヨウが雇った魔術通信網の専門家、といえば聞こえはいいが禁止されている魔術に触れたことで逮捕され、取引として強制参加させられているかわいそうな犠牲者だった。
彼の首筋には画鋲のような小さなピンが刺さっていて、そこからコードが伸び、わけのわからない電子機器とミィレイの首筋の蝶のピンへと繋がっている。
モニターらしき画面を覗くと、眠っている男性が画面の中で動いている。
なんでもない住宅の一室。ファミリータイプのマンションの部屋、といった感じだ。女性っぽい小物がたくさんあって、飾られている写真や占術の参考書などからミィレイの自室だと推理できる。
「これが、彼女の脳の中……」
「というか、彼女の意識が最後に存在していた場所です」とスタッフが説明してくれる。
魔術通信網は科学技術によるものとは違う。
厳密には脳内とは呼べない。あくまでも科学では捉えられない《意識の中》だ。
通常は他人が侵入することのない《意識》に穴を開け、通路を作り、他者の意識を迎え入れる領域を作るのだ。その領域はピンを刺している限り開かれ続け、拒否しない限りそこに侵入したい他者を迎え入れ続ける。
聞けば聞くほど危なそうな仕組みを市警職員が丁寧に説明してくれる。
現在は、専門家がミィレイの意識に潜入してから三十分ほど経っている。
画面の中の男がこっちに合図を送り、ピンが引き抜かれる。
すると、眠っていた彼は目を見開き「ダメだ」と言って首を横に振った。
それから、彼女の家族のほうを見て申し訳なさそうな表情になった。
「ピンが抜けない以上、回線は維持されているはずなのに、あの《家》の外から他の領域に接続不可能だ。それに、全く本人の痕跡が見つからない」
それから小さな声で「意識は消失してしまったとしか思えない」と付け足した。
その瞬間、ミイレイの母親がわっと泣き出し、看護師に連れ出されて行った。
「特大級のアホめ。家族がいる前では言葉を選べ!」
クヨウが怒鳴る。
体は生きているのに、意識は行方不明。そんな残酷なこと、他にはないだろう。
魔術通信網のことはよくわからないが成果は無し……ということらしい。専門家といっても、公的には《使用禁止》の技術のため、熟練しているとは言い難いが。
「それじゃ、他の人なら……。たとえばだけど、他国の人に頼るとか」
「これでも全力で伝手を使っているが、魔術通信網に適性のある者は総じて魔術に通じている者だ。他の候補者がいたとしても、その人物はガレガと戦う危険を負うことになり、国家や企業がさせない」
ミィレイと同じく帰還できなくなる危険があるばかりか、なんだかんだ藍銅とのかねあいもある。キヤラたち姉妹は触れてはいけない爆弾なのだ。
「腕がよくて、藍銅との関係を考えなくてもいい、命をいつ捨ててもいいような魔術師……いるわけないか」
「いや、いるじゃないか」
ノーマンがそう言ってぽん、と手を打つ。
僕は彼女を見つめたが、そうしたのは自分ひとりだった。
室内の視線がこちらに集中する。
「…………まさかと思うけど、僕?」
「先生の犠牲は、ときどき思い出すことにするから」
ノーマンが笑顔で、僕の両肩を掴む。凄い力で肩がずしりと軋む。
彼女、いったい何鱗だろう。逃げられない。
「う、嘘でしょ……! 僕は魔術通信網なんて使ったコトない!」
「この業界、魔術通信網の仕組みなんかより、魔術適性が高い方のほうが有利というのは常識です」
先ほどの男性が疲れた顔で言う。つまり、最適な人材は魔術師たちの最高峰が集う魔術学院の教官たち、ということになる。
しかも現在、自由に動けそうなのは僕とカガチくらいのもので、僕とカガチを天秤にかけたら女王国の人たちがどちらを《死んでもいい》と考えるかは一目瞭然であった。
「そんな、馬鹿な!」
気がついたら、片方の腕をノーマンが、片方をクヨウが拘束し、ベッドに押し倒されていた。
情熱的過ぎるベッドインだ。




